賢治最初の上京(1)/宮沢賢治の東京における足跡

20130316

「宮沢賢治の東京における足跡」を歩いてみようと思ったのは、雑誌「サライ」2010年7月号の特集「宮澤賢治を旅する」に「賢治の歩いた東京」という部分があり概要を知ったので、いずれ歩いてみようと思っていた。
賢治最初の上京は3月20日である。この日に歩こうと思っていたが、その日と前後の日にも予定が入ってしまい、前倒しに昨日の15日に歩いてきました。

参考にしたのは、次の二書です。
一つは、「宮澤賢治研究叢書-賢治地理」という本に納められている奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」。これは昭和41年(1966)6月に第4回宮澤賢治研究会で発表されたもの。
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もう一つは、歌人福島泰樹氏の「宮澤賢治と東京宇宙」という本で、1996年12月に第1刷発行のもの。
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つまり、奥田弘氏の文章は47年前、福島泰樹氏の本は16年前に発行されたものである。

奥田弘氏の本によれば、この上京は、盛岡高等農林学校の修学旅行であり、賢治ひとりの旅行ではないが、彼の生活史、制作史にとって、重要な意味を持っている。この上京は、彼にとって最初の上京であり、新しい知識を摂取する場所として、また、終生、願ってやまなかった「家」からの脱出先の場所として、彼の目を聞かせたものと考えられる。
この三月の上京における宿泊先の旅館は判明していない。東京での足跡は、次のとおりである。
 3月20日 西ヶ原農事試験場見学・東京高等蚕糸学校見学
 3月21日 駒場農科大学見学

京都で解散した後、自由行動になって、東京に再びもどってから上野から盛岡に戻っていく際の行動は、また記事にするつもりです。

福島泰樹氏の本によれば、盛岡高等農林学校二学年の修学旅行の一団十数人を乗せた夜汽車が「上野停車場」に到着したのは、大正5(1916)年3月20日(月)午前5時40分のことであった。

盛岡高農の創設は明治三十五年、日本で最初の農業専門学校である。宮沢賢治が入学した大正四年にさかのぼってみるなら、上級学校の数は今日では想像もつかないぐらい少ない。大学をあげるなら、東京、京都、東北、九州の名を冠した帝国大学が四校あるのみ、私立の大学は認められてはいなかった。
そのうち、農業関係の大学は東京帝国大学と東北帝国大学農科大学(札幌農学校)二枚を数えるのみで、専門学校は盛岡高農と明治四十一年に創立された鹿児島高農の二校であった。したがって北の都・盛岡には、農業に日本の将来の夢を託した青年たちが、全国から馳せ参じていたのであった。

この写真は、大正5(1916)年5月下旬、盛岡高等農林学校の自啓寮9号室のメンバーが、植物園で記念撮影したものです。
中央が室長の賢治、手前に寝そべっているのが嘉内。
(写真掟供は、保阪庸夫氏、山梨県立文学館)
保阪嘉内氏は、山梨県出身で宮澤賢治の無二の親友。
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一行は前日午後1時5分盛岡発の東北本線に乗り込んでいるから、実に16時間35分の時間を要している。
この日、東京は晴れだったという。
福島泰樹氏の本によれば、東京の北口玄関、上野駅の開業は明治16(1883)年。東北本線では24に青森まで全通したとある。
賢治一行が降り立った北の玄関口・上野駅舎の落成は、明治18年7月。どっしりとした蔵のような石造りの母屋に、西洋風の長い麻。入母屋切妻破風を思わせる西洋瓦茸の清酒な建築物と言いたいところだが、大正三年に落成した東京駅舎の風格にはほど遠い。東京駅が皇居を控えた帝都の象徴であるのに対し、上野駅はあくまでも北の玄関口であったのである。
東京駅舎は焼け残ったが、上野駅舎は大正12年、関東大震災で焼失した。
現在の駅舎が完成したのは、賢治が最後の上京を果たした半年後の昭和7年4月。完成までに実に十年近い歳月を要している。であるから賢治は大震災以後の上京の都度、その工事の経過を目のあたりにし、完成間近い上野駅舎を後に、重たい病をかこちながら郷里花巻へと向かっていった。

さて、私は西武新宿線、山手線経由で上野に着いた。昔信越線、東北本線、常磐線などでにぎわっていた場所に行ってみる。
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私は長野県佐久で育ったから、小諸駅から信越線で上野駅に出ている。結婚して富山県福光の人間になってからは、夜行を利用すれば上野駅、昼間の移動は北陸線で米原に出て、そこから新幹線で東京駅となった。現在は特急「はくたか」で越後湯沢、そこから上越新幹線で大宮まで出てくるようになっている。

常磐線のホームに「特急いわき」が停車していた。
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現在は、盛岡からなら新幹線で、この新幹線改札から出てくる。
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ちなみに、この日は団子鼻で有名な「200系車両」の最後の運転日ということで、鉄カメラマンの姿が目立った。

かって私も、利用した中央改札口から外に出る。
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残念ながら、現在の上野駅の正面玄関は浅草方面に向いているが、129年前の夏落成をみた旧・駅舎は、御成街道のある広小路方向、皇居の方角に向いていたので、宮澤賢治一行がこの場所から出たわけではない。

現在の上野は、パンダと櫻である。
聞けば、パンダの夫婦も繁殖活動も落ち着いて(子供が出来ていればいいな)、この日から一般公開が復活した由。
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古さをしのばせる場所を探していたら、正面玄関ホールに回廊があるのに気が付いた。ここは今まで来たことが無かった。リニューアルされたものか、新設されたものかわからない。
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正面玄関から外に出た。
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玄関前の広場に陸橋が縦横に展開されていて、驚いた。私が上野駅を利用していた頃には無かった風景だ。
陸橋の上から、上野駅正面を撮る。
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周りをブラブラしていたら、こんなものを発見した。
「ああ上野駅」の碑である。
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記録では、早朝に上野駅に到着した一行は、東京府北豊島郡滝野川村大字西ヶ原(現・北区西ヶ原二丁目)にある農事試験場に向かったとある。
福島泰樹氏の本によれば、おそらく宿泊先である上野駅周辺の旅館に荷物を置き、顔を洗い口を漱ぎ、朝食を済ませてから試験場へと向かっていったのであろうとしている。

ここでは、私の体験も重ねて、少しは上野の山を散歩したのではないかなと考えた。
私が大学が決まって、渋谷の叔母(母の妹)のところに一年間居候することが決まり、やはり夜行で上京してきた時、早朝上野のお山の西郷さんの銅像の前で同行していた兄が撮ってくれた写真が残っている。
この銅像は、高村光雲作であり、明治31(1898)年に建てられているから、初めての東京だということで上野のお山に足を延ばしていたら、宮澤賢治はこの銅像を見たに違いない。
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そうなれば、隣の彰義隊の墓にもお参りしたかもしれない。
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このくらいで、上野をきりあげて次に向かおうと、公園口に向かって歩いていると、こんな写真が掲示されていた。
明治42(1909)年の上野公園入口である。
当時既に大階段があった。これを上れば西郷さんの銅像である。
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奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、賢治が上京した当時は、現在の上中里駅は、まだ開業せず、おそらく、王子駅から、飛鳥山下を徒歩でおもむいたものと推測される、と書いている。
私も、上野から京浜東北線で王子駅に移動した。
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王子駅からの、現在の光景。左手に飛鳥山があり、道路(本郷通り)には都電が走っている。
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奥田弘氏の本によると、王子駅から歩を運んだのは、さわやかな五月のはじめだった。公園の若葉が日に映えて、明かるかった。坂道をのぼる都電の車輪のきしむ音と絶え間なく行きかう自動車の排気音とが、次第に、奥田弘氏の気持をいらだたせた、とある。
というのは、奥田弘氏が渋沢秀雄氏の文章で紹介している、宮澤賢治がここを訪れた頃の王子駅の附近は一面の水田で、森の散在するなかを縫う豊島川(隅田川上流)には船の白帆が隠見した。王子駅のそばで製紙会社の煙突が煙を吐いてはいたが、あとは詩情あふれる田園風景で、晴れた日は北の方に筑波山が青く点描された。
こういう渋沢氏がのべているような風景はなく、ぎっしり建てこんだ街なみだけである、と奥田弘氏は嘆いているのだ。

今は、もっと驚くことがあった。
王子駅から、すぐに飛鳥山に入ろうとすると、急な上り勾配の坂が待っている。
ところが、こんな楽しい乗り物が今はあるのだ(笑)
「あすかパークレール」という乗り物。2009年7月からの運行だというから、奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、これは知らないということになる。
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花には少し早い、まだまだ殺風景な桜の林を眺めながら、貿拾たちの一団は、足どりも軽く、なだらかな坂道をのぼって行ったことであろう。
飛鳥山公園の中に足を踏み入れてみたが、まだまだ開花にはほど遠い感じだ。
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本郷通りの飛鳥山交差点まで来ると、都電は大きくカーブして「あすか山」駅に入る。そこを見ながら歩いていたら、「滝野川一丁目」からの電車が駅に止まったと思ったら、すぐに後ろからもう一台電車が来て、玉つき状態みたいになって、前の電車が発車しだした(笑)
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そろそろ、どこかで昼食をとらねば、と思いながら歩いていたら、「和風ラーメン」という看板が目に入ったので、それを食べることにした。頼んだのは「みそラーメン」。
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出てきました。どんぶりなのね(笑)
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味はまあまあ。具がいろいろと沢山入っていたので嬉しかった。

「二本榎一里塚」にやってきました。
前方で、大きなクレーンで大きなビル工事をしているところが、印刷局滝野川工場(東京高等蚕糸学校の跡にできている)。
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奥田弘氏の本では、こう書かれている。
今は一本になってしまった二本榎の一里塚の跡にたつと、古い煉瓦塀に囲まれた印刷局滝野川工場が見えてくる。束京高等蚕糸学校の跡だ。この煉瓦塀に沿って行きつもどりつするのであるが、新しい知識に胸をふくらませたであろう賢治たちの姿はもうしのぶよすがもない。

「西ヶ原一里塚」は、「日光御成道」の日本橋から二里、「本郷追分」の次に位置します。榎の巨木おい繁り、往時のままの姿を保っているのは都内では西ヶ原を残すのみだそうです。
塚と榎は当時、東京市電の軌道延長路線上にあたり、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが、道路わきの塚の掲示板に説明がありました。
その掲示板にある写真が、大正時代の一里塚の写真です。
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宮澤賢治は、この風景のなかを西ヶ原農事試験場に向かって歩いていったのです。

現在は、旧道の両側にあった一里塚がそのまま残り、旧道がそのまま片方向の道路となった。反対方面の道路が一里塚の外側に新設された。結果として片方の一里塚が道路の真ん中に存在することになったというわけです。

七神社の鳥居脇に位置する、道路わきの一里塚。王子方面に振り返ってみています。
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道路の中央に残った形の一里塚。これも王子方向に見ています。
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(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

盛岡駅から上野駅まで16時間ですか、現在、鈍行列車でどの位かかるかを調べてみたら10時間と言ったところです。多分、蒸気機関車に引かれた列車に乗っていたのだと思いますが、やはり、現在の電車の方が速いですね。

高校生の時は、上野公園内の高校に通っていたので、上野駅はずっと使っていました。当時は列車全盛の時で、夏の旧盆の時等、上野駅と東京文化会館の間に朝から、列車待ちの何千人もの人達の列ができたものでした。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
普段歴史を掘り下げることばかりしていますが、
乗り物はやはり速いほうがいいですよね(笑)
昔は、ほんとに時間かかりました。

私も上野駅が盛んだったころを知っています。
いまの上野駅は寂しいです。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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