賢治最初の上京(2)/宮沢賢治の東京における足跡

20130318

15日(金)に行った、「賢治最初の上京(1)」の続きです。
二本榎の一里塚から歩き出します。
奥田弘氏の本では、こう書かれている。
今は一本になってしまった二本榎の一里塚の跡にたつと、古い煉瓦塀に囲まれた印刷局滝野川工場が見えてくる。束京高等蚕糸学校の跡だ。この煉瓦塀に沿って行きつもどりつするのであるが、新しい知識に胸をふくらませたであろう賢治たちの姿はもうしのぶよすがもない。

印刷局滝野川工場
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福島泰樹氏は、こう書いている。
大蔵省の印刷局もいまは印刷局病院に姿を変え、煉瓦塀は腰の低いコンクリートの外壁へと姿を変じた。すべてを破壊し、轟然と過ぎ去ってゆく「時」は暴力であるのかもしれない。いま、高層ビルに変じるであろう建築工事中の病棟を見上げながら、奥田弘の苛立ちを羨ましく思う。大正五年、賢治が目の当たりにした煉瓦塀は健在であったのだ。

奥田弘氏が訪ねた時には、まだ煉瓦塀が残っていた。福島泰樹氏は、それが腰の低いコンクリートの外壁に代わってしまっていることを嘆いている。
現在はどうか?
また変わっていた。開放的な鉄かアルミの柵に変じていた!!
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隣が印刷局東京病院です。
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大蔵省印刷局病院の、これまた広大な敷地が元「高等蚕糸学校」の跡地です。賢治一行は農事試験場を訪れる前に、高等蚕糸学校を見学したのでしょうか。王子からの道順からたどってゆけばその順になります。
通りに面した痛院の外壁のところに、「東京高等蚕糸発祥之地」の記念碑があります。
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農事試験場も蚕糸学校も、明治政府の威信をかけた事業であった。
明治二十九年、「蚕業講習所」と改称され、本格的な学校としての機能を果たします。すなわち本科二年、別科六ケ月、加えるに研究科も設置され、前途洋々たる青少年たちが西ヶ原に馳せ参じた。
明治三十人年には、入学資格も中学卒業程度となり、修業期間は三ケ年となる。大正三年、「東京高等蚕糸学校」と改称され、養蚕科、製糸科、製糸敦婦養成所が置かれた。

そして、その隣は「北区滝野川公園」で、ここが「西ヶ原農事試験場」跡です。
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公園のメイン・ロード。右手の建物は「東京北区防災センター」、奥が体育館。
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明治になつて貝塚が発見されたそうで、遺跡の説明もあります。
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福島泰樹氏は、こんなふうに書いている。
公園の土の感触を楽しんでいると、せせらぎの昔。林のこ中の人工庭園の中を水は音をたてて流れてゆく。小鳥の噛りとせせらぎが入り交じり、目を瞑ると頭の中を、救急車であろうか、サイレンが遠ざかってゆく。「シラカシ」、「コナラ」……。木に付けられた標識を見みやりながらせせらぎを抜ける。体育館手前の空間には、これまた人工の滝が音をたてて激しく落下している。

私が訪ねた時には、水は流れておらず水路も人口滝も干上がっていた。
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その人口滝の奥に、跡地に建てられた記念碑があります。
敷地内の囲いの外に、垣根と植え込みを設け、その中に「農業技術研究発祥の地」という巨大な自然石と、傍らの小ぶりの自然石に、由来と「国立試験研究機開の筑波研究学園都市への移転に伴い この地での研究を終わる、「西ヶ原」 の栄光の不滅を祈念しここに記念碑を刻む」とあります。
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種芸、農芸化学、病理、昆虫、煙草、園芸部に加え、「地質調査所土性課」が移されてきたのは明治三十人年。賢治が目を皿にして注視したであろう当時の資料は、筑波に保管されているのでしょう。

広大な原野だっただけあって、公園も、消防署にしても、体育館にしても実にゆったりと建てられていますが、当時の農事試験場をしのばせる景観は残ってないですね。

碑に向かって右側の景観
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碑に向かって左側の景観
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碑の正面の景観。歩いてきた本郷通りの方向です。
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園内の光景。ほんとにゆったりとした感じ。
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ベンチに腰を下ろして休みながら、当時の宮澤賢治のことを思った。
賢治が生まれた明治29年には、三陸地方を大津波が襲い、賢治が誕生した8月には、陸羽大地震が花巻を襲っている。そして冷害が東北を相次ぎ襲った。
当時疲弊していた、東北の農村を立て直す意欲に燃えた宮澤賢治だったであろう。

農事試験場跡を出て、私は上中里駅に行った。
というのは、奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、王子から西ヶ原に歩いただけでなく、上中里駅から西ヶ原を訪ねた時のことも書いているからである。

奥田弘氏の文章。
わたしは、二度ほど、この足跡をたずねた。初めは、上中里駅から行った。切り通しの、ゆるやかな坂道を登り、八幡太郎義家の鎧を納めてあるという平塚神社を右に見ながら、西ヶ原二丁目の停留所前に立った。東京では、珍らしくなった蝉の声が、神社の境内から聞えていた。右折すると間もなく、古びた鉄筋の二階建てが見える。それが農事試験場である。今は、農林省農業技術研究所になっている。

福島泰樹氏の文章。
坂の上がり口にある「蝉坂」の由来に目をやる。なるほど「蝉坂」は「攻め坂」の転批、中里村一帯は古戦場であったのだ。この坂の上にあった平塚城(室町期) の合戦を彷彿する地名だ。「現在の坂道は昭和十人年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です」。
 右手に平塚神社の境内を見上げながら坂をのぼってゆく。豊島氏の居城跡、源義家に起源を発する古い神社だ。坂をのぼりきると本郷通り(日光御成道・岩槻街道)にぶつかる。御成道は本郷追分で中山道から分岐し、滝野川、王子、赤羽、岩淵、川口、鳩ヶ谷を経て岩槻に至る道だ。

上中里駅
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駅前に「飛鳥の小径」という掲示板があった。飛鳥山公園を中心とする散歩道の案内だ。
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これが「蝉坂」
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途中に平塚神社への入り口がある。平塚神社境内は坂の上と同じ高さの平面なので、これだけ高低差があることがわかる。台地の先端を平塚城としたことがよくわかる。
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坂を上りきると、右手に平塚神社正門があり、そこに平塚城跡の説明がある。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城だったが、文明十(1478)年、大田道灌によって落城しています。
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平塚神社
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狛犬が立派だった。
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賽銭箱の日の丸の扇が源義家を偲ばせる。
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福島泰樹氏の文章によると。
神社の角を石の囲い沿いに右に曲がると、「平塚亭/つるおか」の看板が目に飛び込んでくる。
この春、農事試験場跡を訪ねた私は、店に立ち寄ってお茶を御馳走になっている。仕事着の白い上っ張りを羽織った色白で端整な顔をした主人は、私の質問にこんなふうに応えてくれた。
「店の創業は大正四年で、団子や饅頭を商う茶店でした」。大正四年なら賢治一行が見学に来る前年ではないか。ならば一行は、神社の境内の雑木林を望む茶店で、団子や饅頭を頬張っていたかもしれない。
「このあたりには帝大生たちも下宿していました。市電に乗って本郷へ通っていました。この道は、昔と変わってはいませんよ」。遥かを見やるように主人は言ったものだ。「ええ、この先には桑畑がありました」。にわかに東京高等蚕糸学校がリアリティーを帯びてくる。「滝野川一帯にはまだ田圃なんかもあ
りましてね、職人たちが植木を栽培していましたよ」。

現在の、神社の角を右に曲がったところの光景。
高い建物は消防署の建物。
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平塚亭/つるおか
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残念!!
その日は、このお店お休みでした。
宮澤賢治が頬ばったかも知れないお団子を、私も食べようと楽しみにしていたのに(泣)
ショックでした。またの機会ですね。

このあと、ついでだからと「無量寺」を訪ねました。次回の記事にします。
無量寺を出たあと、駒込の駅に向かいます。
「旧古河庭園」の前を通るためです。
大正9年、盛岡高等農林を退職後、農事試験場の嘱託となった恩師・関豊太郎教授を、宮澤賢治は訪ねています。
それで、福島泰樹氏は、コンドルの設計した洋館を「設計にも関心のあった宮澤賢治のことだ。もしかすると塀の外から一瞥しているかも知れない」と書いている。

大正時代はわからないが、現在は塀が高く、道路の反対側からなら、辛うじてチラと一部が見えるだけだ。
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現在の入り口に立てば、洋館はかなり見える。
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「旧古河庭園」から駒込駅に通じる坂を下っていると、途中にこの坂の説明があった。
この坂の名は、この辺りに住んで居た中世の武将保坂大炊介にちなんで「大炊介坂」と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで「宮坂」とも、樹木に覆われているので「暗闇坂」とも呼ばれていた。
この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため「日光御成り道」と呼ばれたが、現在は「本郷通り」と呼ばれている。
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「大炊介坂」を下りきって振り返る。
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これで、宮澤賢治が初めて上京した、大正5年3月20日の足跡をめぐる逍遥は終わりました。
賢治が訪ねた西ヶ原農事試験場見学と東京高等蚕糸学校の両方とも、跡形もなくなっています。
大正5年と現在という月日の長さから考えて、やむを得ないと思います。

宮澤賢治たちが翌日訪ねた「農事試験場渋谷分校」と「駒場農科大学」には近日中に訪ねます。


参考にした二書。
一つは、「宮澤賢治研究叢書-賢治地理」という本に納められている奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」。これは昭和41年(1966)6月に第4回宮澤賢治研究会で発表されたもの。
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もう一つは、歌人福島泰樹氏の「宮澤賢治と東京宇宙」という本で、1996年12月に第1刷発行のもの。
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

滝野川公園の辺り、古代遺跡の宝庫らしくて、公園の前の道路を挟んだ空き地では、1年間位、遺跡調査が行われたため、現在でもまだ、空き地のままになっています。

平塚亭は、名探偵「浅見光彦」がよくお団子を買いに行く店ですね。また、TVドラマ、例えば、「おかしな刑事」等でも、時々、映されて出てきます。以前は、神社の境内で団子等を食べさせていたようです。

私も、第二次世界大戦後は、駒込駅から北の方、すなわち、山手線の外側は、一面、桑畑で、山手線が走っていたのがよく見えたと言う話を聞いたことがあります。その後、どうやら、下宿町に変わったこともあり、そのため、駅近くに多数の不動産屋さんがあるのだそうです。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
滝野川公園の辺りの古代遺跡は、現在まさに調査中
なんですね。
楽しみです。

平塚亭は、そうだったんですか。
私は探偵ドラマは見ないほうなので、知りませんでした。
なるほど、それも貴重な話ネタなので、
教えてもらい、嬉しいです。

昔は、のどかなものだったんでしょうね。
少しでも残っていれば有難いのですがね。
そういう訳にはいきませんよね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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