上野国式内社(1)/関八州式内社めぐり

20130330

所属する市の歴史クラブ企画の「関八州式内社めぐり」に参加しました。私は今回から参加ですが、「上野国式内社」の三回目にあたります。

赤城神社(三夜沢)
群馬県前橋市三夜沢町114  
御祭神は大己貴命(大国主命)、豊城入彦命

豊城入彦命は崇神天皇の第1皇子で、東国の治定にあたったとされ、記紀には上毛野君や下毛野君の始祖とあります。
『日本書紀』によると、崇神天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた(夢占)。豊城命は「御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された。

赤城神社は論社であり、山頂大沼の畔の赤城神社、中腹の現在訪ねている当社、そして前橋市にある二宮赤城神社となっています。
赤城山の神、「赤城大明神」が存在するのですが、この扱いが時代によって揺れていたようです。
三夜沢のこの神社も、「あしき山霊の神」だとして一線を画したり、復古運動でまた祀ることが計画されたりと。
赤城大明神は、上野国の二之宮であるが、伝説では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。
さらに、赤城神が絹機を織っていて絹笳が不足したので、貫前の女神から借りて織り上げたという。

赤城神社境内より500m手前に「惣門」があります。
高麗門の形式です。
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その手前に映えている杉が、高尾山の有名な「蛸杉」そっくりだった。
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入り口には、白木の一の鳥居が聳えています。
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境内は広く、木々が茂って、鬱蒼とした空気に満ちています。
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狛犬
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拝殿
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神紋は「菊」
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中門と本殿
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本殿の千木と鰹木で、気になることがあった。
千木が「平削ぎ(内削ぎ)」となっていて、鰹木の数も8本と偶数である。
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普通平削ぎの千木、鰹木の数が偶数は祭神が女の神様の場合である。
男の祭神の場合は、千木は外削ぎ、鰹木の数は奇数となります。
ここの祭神は男の神様なのだが・・・・・・
合わない??
家に帰ってから、ネットでいろいろ調べると、やはりこれに疑問を呈している方が何人も居られました。
その中で、「赤城神社の主祭神である赤城大明神は元は赤城姫という人間だったそうで、要するに女神らしいです」とあったので、それで私も納得しました。
先に「赤城大明神」の扱いが変遷していると書きましたが、本殿は「赤城大明神がもともとの祭神なんだよ」と主張しているようでした。

中門の前に有名な俵藤太が献木したと伝えられる「タワラ杉」が三本聳えています。
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俵藤太といえば、竜神を助けて大ムカデを弓で退治した英雄。
赤城山大神(上野)と二荒山大神(下野)の神戦では、赤城山がムカデ、二荒山が蛇となり、結果、ムカデの赤城山大神が、弓で傷つき負けている。
が、これは二荒山側に伝わる伝承にすぎない。
俵藤太は、上野・下野両国の英雄なのです。

鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。
-境内案内より-

境内に入って右手に神池があり、その側に、神代文字の碑があります。
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『一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在ははっきりしているものだけでも数種類にもなります。
この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神代日文伝(かむなひふみ)」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鐵胤が、上部の神文については、鐵胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。
神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。』
(案内板より)
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神楽殿
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奉納額
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三夜沢赤城神社は明治初めまでは、赤城山頂にある、大沼、小沼への信仰から発した西宮と、地蔵岳信仰の東宮の東西雨宮が並び祀られていたが、現在は-社になっています。現在の社殿は明治になって東宮の地に造営されたもので、西宮の跡地には、鳥居の沓石一対が残っている。
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この灯篭が気に入った。
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賀茂神社
群馬県桐生市広沢町6-833  
御祭神は別雷神。
神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない。
『山城国風土記』逸文には、賀茂別雷命について次のような記述がある。賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという。
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神紋は加茂葵(二つ葉葵)。
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本殿の彫刻が立派でした。
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これは猿田彦と天の鈿女ですね。(向かって左側面)
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背面
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背面の下部。おっと、仙人がオッパイ吸ってる(笑)
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右側面
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本殿の前には石燈籠が立っています。
永和4年(1378)に造立されたもので、年代が明らかなものでは桐生市最古の石燈籠だそうです。
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自然石に万葉集の歌を刻んだ金のプレートをはめ込んだものがありました。
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当時の漢字をあてた歌で、読んでもなかなかピンときませんでした。
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「万葉集巻第14、上野国相聞往来歌」というのを頼りに、ネットで探すと、ありましたね(嬉)
まったく、今のネット検索は、ほんとに頼りになります。

「新田山(にひたやま) 嶺(ね)には着かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる児らし あやに愛(かな)しも」
(作者不詳)。

(大意) (新田山の嶺(ね)が他の山と接していないように)共寝はしないが私に心を寄せ、皆から離れているあの娘が、なんとも言えず可愛い。

社殿の右側には座している香取神社・鹿島神社。
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左側には八坂神社。
三社並んでいるが、中央が元々賀茂神社に鎮座していた八坂神社とのことです。
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句碑の道がありました。
句が刻まれた石は河川にある天然の石だそうだ。
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その中から幾つか紹介。

「貞樹」とは、宮司の前原貞樹氏ではないかと思います。
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この「稲洋」という方は、わかりません。
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雪片の つれ立ちてくる 深空かな / 素十
高野 素十氏は、1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。 1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始め、『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。ドイツに留学し帰国後に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。大学を退官後、俳誌『芹』を創刊し主宰する。
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(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

式内社とか論社とか言う言葉、初めて見たので早速調べたのですが、式内社とは、平安時代にはあった神社と言うことなのですね。そして、論社とは、その中で、同じ名前の神社が幾つかあって、どれが平安時代から続いているものかわからないと言うことなのですね。それがわかって、ようやく、上記の話がわかってきました。まあ、人間のやっていることですから、神社と言えども、途絶えて朽ち果てたが、また、再建したものもあったでしょうし、それが、1つだでけではなく、2つも3つも作られたかもしれないし、また、場所が異なって作られたかもしれないと言うことなのでしょうね。

それにしても、石碑の神代文字、まるで、ハングル文字みたく見えますね。そう言えば、以前に安曇野で見た神代文字が書かれた碑もそのような感じであったことを思い出しました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
式内社ということでは、きちんと記録が完全な
かたちで残っているのは「延喜式」なので、
たいてい、延喜式内社というのが多いですね。
明治自体から始まって戦前まで、神社の社挌を
決める際にも、その祭神では認められないから
変えろ、とかいろいろあったようです。

神代文字、赤城神社にあったのは、対馬で発見された
そうなので、場所からみてハングルの影響は
大ありだと思います。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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