鎌倉街道散歩/高崎から(1)

20130412

昨年は、色々な取り組みをはじめたせいで鎌倉街道に関してはほとんど出来ませんでした。
今年は再度巻き返しを図ります。
昨日11日に、鎌倉街道上つ道のスタート地点である高崎から佐野の一本松橋まで歩きました。
赤が鎌倉街道、緑が実際歩いた道、黄色が史跡です。
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関越自動車道高崎インターから、ナビを頼りに高崎城址地下駐車場まで行き、ここで車を置きます。
高崎城址から鎌倉街道を歩きだす前に、高崎駅近くの大信寺に向かいます。
ここには、徳川忠長の墓があります。

大信寺

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徳川忠長は、二代目将軍秀忠の次男です。秀忠とお江は忠長を溺愛し次期将軍にしようとしますが、春日局が家康に「天下泰平のためには嫡子相続を」と直訴し、家光が将軍になったことは有名な話です。
忠長は、それでも甲府・駿河・遠江合せて55万石を領し、駿河大納言と呼ばれました。しかし徳川忠長は、家光に憎まれたこともあり、乱行があったとして高崎城に幽閉され、寛永10年(1633)に自刃させられました。

墓所入り口の扉が閉ざされ、閂がかけられていたので、ご住職にお願いして開けていただきました。
入ってすぐの場所に忠長の墓がありますが、その手前に大きな武蔵型板碑がありました。
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忠長の墓
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高さ2.3メートル余の五輪塔です。
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五輪塔の火輪の部分に葵の紋が刻んでありますが、「裏葵」となっています。
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忠長の33回忌、家光は既に他界していたので、ようやく墓を建立できたのですが、その際罪人だったので表葵をはばかり、裏葵にしたそうです。

ちなみに葵の紋については、家康が「将軍家は表三つ葉、尾張家は表二つ裏一つ、紀伊家は表一つ裏二つ、水戸家は裏三つとする」と定めたとされています。
ところが、水戸黄門の例の印籠の紋が表葵三つであるように、なぜかこの家康の命令は守られていないようです。

忠長の墓の横に「守随彦三郎の墓」があったので、これも紹介しておきます。
江戸の「秤座」守随家の三男です。守随家は武田家から甲斐における秤の製造・販売の特権を与えられていた。武田氏滅亡後、家康から当初は甲斐一国を認められ、最終的には東33ケ国の特権を得たといいます。
高崎では三男彦三郎が「高崎秤座」を開き、地方秤座の名代役を幕末まで務めた、と説明書きがありました。
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ここから、高崎城址に戻ります。

高崎城址

高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城がありました。和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われます。
室町時代に関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属します。その後武田信玄についたり、き北条氏に属したりします。豊臣秀吉の小田原征伐の際に前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、落城、廃城となりました。
関東に徳川家康が入部した際、井伊直政が家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築きました。この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為です。

城址を囲むお堀が綺麗です。
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東門
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乾櫓
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現在の天守閣、市役所の威容がそびえています。
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堀伝いに歩いてきて、「三の丸土塁」にやってきました。
ここが鎌倉街道上つ道の出発点です。
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左右に堀が続いています。
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いよいよ鎌倉街道を歩きだします。
三の丸土塁を振り返る。
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高崎公園の横を歩いていくと頼政神社です。

頼政神社

境内に足を踏み入れるとすぐに、内村鑑三の碑がありました。
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景色が映りこんでいて、わかり難いですが、こう書かれています。
上州無知亦無才
剛毅木訥易被欺
唯以正直接萬人
至誠依神期勝利
              鑑三

その意味は
「上州人としての私は、知恵も才能もなく、 剛毅木訥で、欺かれやすく、ただ正直をもって万人に接し、神によって至誠を尽くし、勝利を期した。鑑三」です。

(頼政神社 案内板)
 元禄八年(1695年)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同十一年(1698年)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。宝永七年(1710年)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保二年(1717年)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。 頼政公は、平安末期に、源家正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。 後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180年)宇治平等院で自刃した。家集『源三位頼政御集』がある。又、宮中で鵺を退治した話は有名である。 
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狛犬が、いい感じですね。
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拝殿
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神紋は「桔梗」ですね。
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本殿は朱塗りで立派です。
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頼政神社の社宝の写真が高崎市HPに掲載されていました。

稲妻の鎧
稲妻の鎧 稲妻の鎧は、篭手(こて)に雷文があることから、この名前がついています。
この鎧は、松平(大河内)輝聴(てるとし)が、黒船来航など世情風雲急を告げた天保(1830~1843年)の頃造らせたもので、大鎧(おおよろい)の形をとっていて、古い小札(こざね)も一部用いられています。
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白銀造太刀
輝貞が元禄時代に武蔵国の刀匠(とうしょう)藤原助隣に作らせたもので、箱書に元禄12(1699)年の年号が記してあります。
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源三位頼政は、歌人としても有名です。
新古今和歌集には
「今宵たれすずふく風を身にしめて吉野のたけにつきを見るらん」
千載集には
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白川の関」
恋歌で
「思へどもいはで忍ぶのすり衣心の中にみだれぬるかな」
などがあります。

次いで、高崎の地名のもととなったという竜広寺に向かいます。

高崎山竜広寺

山号の「高崎山」には、有名な由来があります。
「竜広寺」は、箕輪城主だった井伊直政が和田(高崎の旧称)に城を移した際、箕輪から白庵(びゃくあん)和尚を招請して開山したといいます。
直政は和田という地名も改めることとし、「松ヶ崎」にするか「鷹ヶ崎」にするか決めかねて、和尚に相談した。
和尚は、「松」も「鷹」も生き物は必ず死ぬものだから、「高」の字を用いて「高崎」とするのが良いだろう、と答えたそうです。
白庵和尚によって「高崎」の地名が決まったことから、「竜広寺」の山号は「高崎山」となったといいます。

山門
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山門の扁額に「高崎山」
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山門のところの枝垂れ桜が、盛りは過ぎていますがまだ咲いていました。
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本堂
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本堂の額を行者さんが支えています(笑)
その上の龍と麒麟の彫刻も素晴らしい。
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屋根の上の獅子
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ここ「竜広寺」には、「元ロシア兵の墓」があり、高崎市の指定史跡になっています。
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ここに眠る3人のロシア兵は、明治37年(1905年)の日露戦争に於いて捕虜となり、「竜広寺」に収容されてのち亡くなった兵士の墓だそうです。
当時、高崎には500人を超える捕虜が、市内の寺院などに収容されていたという。
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日露戦争では、高崎第15連隊が旅順港攻撃に参戦し、3日間に及ぶ「164高地」の激戦で、568人もの犠牲者を出してついに陥落させた。 「164高地」は、その功を讃えて、奇しくも「高崎山」と名付けられたという話もあります。

「ロシア兵の墓」がある一角は、もともと「陸軍墓地」です。
高崎の陸軍病院で亡くなった人218人の墓石が、ズラッと立っていました。一人一柱というのは丁寧ですね。
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

人間の時間って限られているので、何かに力を入れると、他のことが疎かになってしまいますね。四季歩さんの場合は鎌倉街道が疎かになったと言うことですが、最近の私は、撮影の方に力が入っているので、読書も音楽も時間が少なくなっています。まあ、桜の季節も終わったので、これからは撮影時間が少なくなるとは思いますが、それでも、牡丹と藤の花がありますし。

以前にも書いたような気がしますが、先日、青梅市梅の公園に行った際、公園のすぐ近くに「鎌倉街道」と書かれた標識がありました。と言っても、その道は100mもなかったような気がしますが。

高崎と言えば、駅自体は何回も通った記憶がありますが、駅からは一度も出た記憶がありません。城を含めて、結構、色々な所があるのですね。

matsumoさん

鎌倉街道というのは、「いざ鎌倉」のために整備した道ですから、
たくさんあったわけですね。
私がやっているのは、狭山市を通る「上つ道」です。
「上つ道」「中つ道」「下つ道」が有名かと思います。

青梅をとおっているのは、上州から秩父盆地を通過し、県飯能市(旧名栗村)の小沢峠から入り、梅ヶ谷峠を越えて日出町に出るか、または、馬引沢峠から日出町玉の内に出たようです。

鎌倉街道を攻略する目的が無かったら、高崎までは足を延ばして
いないと思いますね(笑)
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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