われに千里の思いあり(上巻・風雲児・前田利常)/中村彰彦

20130423

130422senri01.jpg

いままで、「加賀百万石/津本陽」を読み、二代目前田利長(利家の長男)、三代目利光のことがわかった。そして、その時に興味を持った筆頭家老の本多政重の話を「生きて候/安部龍太郎」で読んだ。
そして、この本があることを知って、「なぜ加賀百万石は徳川政権の中で生きながらえたのか」について読むことにした。
作者の中村彰彦氏については、「名君の碑」という本で、これも私が敬愛する名君保科正之についての話で感銘を受けたので、楽しみに読み始めた。


越前の朝倉義景に仕えている侍上木新兵衛の娘お千世は、父が急死したため母親に連れられ金沢に来た。
お千世は前田利家の正妻お松の方おつきの奥女中に雇われる。
そして、秀吉の朝鮮侵攻のため肥前名護屋に利家が在陣していたとき、秀吉の各将への指図で、国許から洗濯女(実質は夜伽)を呼び寄せることになった時、お松の方が「誰ぞ希望する者はいないか」に対し、お千世が「私が参ります」と応じる。
お千世は、利家の子を身ごもる。利家はその子に「猿千代」と名前をつけてくれた。
その猿千代は、越中守山城主の前田対馬が守り役で育てられる。

ここで利家に付いて挿話がある。秀吉と共に吉野に花見を楽しんだときに利家が作った歌が二作。
散らぬ花風
ちらさじとおもふ桜の花の枝よしのの里は風もふかじな
花の祝
吉野山花の盛りの久しきに君がよはひはかぎりあらじな
利家は、一見槍一筋の荒武者のようだが、実は「論語」をよく読んで武将の生きる道について深く考える一方、参議と佐近衛権中将を兼ねて殿上人たちとも交わるうちに、和歌にも秀でるようになっていたのである。

猿千代が7歳のときに、利家は死ぬ。

嫡男利長が後を継いだが、前田家の対徳川家との最初の危機が発生する。それは利家の病が篤くなった時、家康が利家を見舞ったが、利家は最後の機会と思い家康の暗殺を企てる。慎重な利長はそれを止めたのだが、そういう計画があったことを家康に知られ、家康は「前田討伐」を宣言する。
利長は権中納言を辞職し、人質に芳春院(利家の妻・お松の方)を差し出して恭順を誓う。その交渉の際に友誼を深めるためとして、猿千代と徳川秀忠の次女子々姫との婚儀も決まった。猿千代8歳と子々姫2歳である。

家康は、前田討伐を止め、上杉討伐をすると発表する。天下を取るため、直江兼続と石田光成に兵を挙げさせる誘い水なのである。

前田家では、秀忠の娘を受け入れるのに、猿千代を二代目利長の養子とし、犬千代と名前を改めさせる。犬千代というのは、利家も利長も幼名がそうだったので、猿千代が後継者と宣言したわけである。

前田利家が関が原の合戦の直前、西上しようとすると、小松城主の丹羽長重が横槍を入れてきた。交渉の結果和議となり、犬千代は人質として小松城に入る。
丹羽長重と初対面のとき、長重が犬千代に梨を剥いてくれると、その梨を左手で受け取り、一口乳母のお信に食べさせてから、食べた。
長重が聞くと、特に外ではお信に毒見をさせてから食べている、左手で受け取ったのは武士は刀を扱う右手は常に自由にさせておくべきだと答える。
長重は、犬千代の聡明さに感じ入る。

結局前田利家は関ヶ原には間に合わなかったが、論功褒賞では北国平定を認められ、丹羽長重から取り上げた小松12万5千石と、弟の利政が動かなかったので、能登一国を召し上げられたが、それは利長に与えられた。結果、ここに加越能合せて「加賀百万石」が誕生したわけである。
そして、犬千代は8歳ながら小松城の城主となった。

お珠の方(子々姫)との婚儀も済んで、10歳の犬千代は利長に連れられ、お礼言上のため江戸に初めて出る。秀忠が自ら板橋宿にて出迎えるなど、徳川の対応はすこぶる好意的だった。
その後の接待も、鷹狩に誘われるとかすこぶる好意的に見えたが、いよいよ別れの挨拶に利長、犬千代が登城すると、場所は大広間(外様の扱い)、さんざ待たされたあげくの秀忠のそっけない対応で利長は冷水を浴びせられる。

その後、二人は伏見にまわって家康に挨拶する。利長は犬千代に、家康の人心掌握術の見事さを説明しながらこういった。
「いにしえの前漢の高祖劉邦は、籌策を帷幄のうちにめぐらして勝ちを千里の外に決した、といわれる。これは、計略さえきちんとできていれば戦場へはまだ千里以上離れているうちから勝ちを制することができる、という意味だ。」と王者の心得を説いた。犬千代ははじめて利長に教えを受けて嬉しくてならなかった。

徳川秀忠が朝廷より二代将軍に任じられ、家康が大御所になったので、利長と犬千代は伏見城に祝い言上に参上する。すると家康が言いだして、犬千代が家康の烏帽子親により元服する運びとなった。
前田家安泰のためには、吉事である。しかし、一方で前田は徳川の手駒であることに決着することになった。
犬千代は元服し、従四位下、松平筑前守利光となった。
そして、利長は幕府に隠居を許され、利光に家督を譲って、富山城に移った。

私は佐伯泰英の「居眠り磐音江戸双紙」が好きで読み進んでいるが、その中で加賀藩お家流として、富田・中条流の名前は出てきて知っている。その話が出てきた。
大聖寺攻めの際にもよく働いた人持組頭の富田越後守重政は、中条流の剣の道統を継いで、「名人越後」 と異名を取る者。そのせがれ重家も若くして剣技精妙の域に達し、無刀取りの秘術さえ身につけていた。これは剣を抜いた相手に素手で立ちむかい、一瞬の隙を突いてその剣を奪い取ってしまう摩討不思議な技である。
 ある時、利光は重家の秘術をなんとしても見たいと思いたち、かれをほかにだれもいない御座所に召して命じた。
「その方の家に伝わるという無刀取りによって、予の攻めを躱してみよ」
紋羽織を脱いで袴の股立ちを取った利光は、刀掛けの大刀をつかんで抜刀するや、ぴたりと右八双に構えた。まだ正座したまま柔和な顔だちを見せていた重家は、落ちついて答えた。
「されば御覧に入れたく存じますが、うしろの戸口より人がのぞいております。秘術なれば、お退らせ下され」
「そうか」
と応じた利光が、背後を振り返った時のこと。つと立って利光に迫った重家は、そのこぶしを押さえてしまい、「無刀取りとは、かようにいたすのでござる」といった。
大いに感じ入った利光は、ますます稽古に励んだため、その武芸は単なる殿さま芸などではなくなったのだ。

利長が藩主の頃に前田家に仕えていた本多政重が宇喜多秀家に義理を示したのと、直江兼続に乞われたため前田の録を離れていたが、再び藤堂高虎の紹介で利長を通じて利光に仕えることになった。
利光が三万石で召し抱えることを決めたのは、本多政重がよほど才覚と品格が優れていたのと、利光が政重と話してみて、よほど気に入ったからであろう。
そして、利長時代の臣が家老となっていて、利光としては使いにくかったところに、新たに利光が抱えた家来であるから、初めて利光の股肱の臣と云え、利光は政重を重用することになった。

前田家の徳川政権との関係で第二の危機は、利長が富山藩22万石を幕府に返上すると申請したときである。これは大阪城方の切り崩しに応じないと言う姿勢を明確にしたいという利長の考えだが、利光はそれを素直に受け入れられなかった。加賀百万石から利長隠居の所領として貸してある領地だからである。
この時も本多政重が家康と秀忠に対して上手に交渉して、加賀藩に戻すことを保証してもらった。
この結果により、本多政重は加増となり5万石の筆頭家老となった。

すぐにまた、第三の危機がやってくる。幕府の出したキリスト教禁教令である。高山南坊(高山右近)、内藤如庵、豪姫と従ってきた宇喜多秀家の旧臣などキリスト教徒が多かったためである。
利光は自ら出向いて、そうでなければ、大島に流されている宇喜多秀家への援助を打ち切ると豪姫を脅迫までして、強引に豪姫に棄教させる。


(中巻に続く)

スポンサーサイト

コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

大昔、極真空手が盛んな頃と言うか、それを描いた漫画「空手バカ一代」が大ヒットしていた頃、極真空手が主催している空手の大会がよくTVで放映されていました。試合と試合の間に、当時、アメリカで極真空手道場を運営していた大山茂氏が「真剣白刃取り」の演舞をやりました。その場面、確か、映画「地上最強のカラテ」ででもあったと思います。

両者とも座った状態で、まず、相手が居合い抜きみたいな感じで刀を抜いて、大山茂氏の頭に向かって振り下ろすのですが、氏は相手に向かって伸び上がり、両方の手の平で刀を押さえ、足で相手を倒すと言うものでした。あれは演舞にしろ、すごいと思いました。少しでも間が異なれば、怪我をすること、間違いありませんから。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
私も、テレビでですが、真剣白刃取りは見たことがあります。
これは、ほんとに難しいですよね。
この本の話も、相手が武芸者なら、そうそう気を
外さないでしょうし。

ただ、色々な流派の極意になっているようですが、
実際に刃を抜き合わせる前に、なんとかして
逃れるというのが、最上なのは間違いないですよね。
非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop