八幡山古墳・忍城址/埼玉県行田市

20130511

8日に行った、歴史クラブ行事の続きです。埼玉古墳群を見て、昼食後バスで移動して八幡山古墳に来ました。
130511saki01.jpg


 八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉(わかこだま)古墳群のひとつで、7世紀前半につ<られた直径80mの大型の円境と推定されています。
 昭和9年に約2Km東にあった小針(こばり)沼埋め立てのために古墳を崩した際に石室が現れ、翌年に発掘調査が行われて、前、中、後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。その後、昭和52年~54年に発掘調査と復元整備が行われて、現在の姿になっています。
 古墳の石室は、江戸時代から開口していたと思われます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には「八幡社社地は塚の上にて、鋪十闇四方、高さ一丈五、六尺、巽方(南東)に塚の崩し所あり、その間より石棺と覚しきもの顕る。三方平らかなる石にて積み上げ、厚さ一尺の黒き岩石を屋根とせり。内の広さ三畳敷ほどにて、その中は八幡の石祠を置き、いかにも上代の墳墓と見えたれど、今土人もその故を伝えず」とあります。八幡山古墳の名称も、石室内に八幡社を祀って果たことに由来しているそうです。
 発掘調査では最高級の棺である漆塗り木棺の破片や銅椀など豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られた人物がかなりの権力者であったと考えられます。こうしたことから、『武蔵国造物部連兄麻呂(むさしの<にのみやっこもののべのむらじえまろ)』の墓と推定する説もあります。彼の名は『日本書紀』には登場しませんが、『聖徳太子伝暦』に登場する人物です。伝記の記述は、舎人として聖徳太子に使え、太子の死後、国造として故郷へ赴任したことを語つています。
 なお、この石室は奈良の石舞台に匹敵する巨大な石室であることから、『関東の石舞台』とも呼ばれています。

真横から見ると、確かに大きい石室です。
130511saki02.jpg


石室の上には、上りやすくなっていて、一時は人で一杯になりました(笑)
130511saki03.jpg


130511saki04.jpg


もちろん私も上りました(笑)
一番上からの全景。さすがに長い。
130511saki05.jpg


三枚に分けて全長を撮りました。
上部(最奥部)
130511saki06.jpg


中央(中室)
130511saki07.jpg


下部(入り口側)
130511saki08.jpg


管理する人が来て、扉を開けてくれました。
前室は、立っていられるくらいの高さ。
130511saki09.jpg


130511saki10.jpg


中室は天井が低くて、背をかがめないといけない高さ。
130511saki11.jpg


奥室は、天井が高かった。
130511saki12.jpg


天井は、巨大な一枚岩。
130511saki13.jpg


石の組み合わせが見事。復元工事での仕事だと思いますが。
130511saki14.jpg


ここから、帰り際に他の会員の方が昔の写真があると、教えてくれました。傍らの管理事務所みたいなところにあって、鍵がかかっていましたが、ガラス越しに撮れました。上のほうに飾ってあったので、ガラスにレンズをくっつけられなくて、ガラスの反射に一部消されてしまいましたが、なんとか撮れました。
130511saki15.jpg


130511saki16.jpg


それから、「のぼうの城」でまた一躍人気の出ている忍城址に向かいました。
130511saki17.jpg


 15世紀後半に築かれた忍城は、現在の行田市街地に位置していた平城です。この地は、扇状地に伏流する荒川の水が集まる広い沼沢・低湿地にある島状の微高地となっており、自然堤防を利用して、忍城は築城されました。最初の城主は、鎌倉時代から御家人として地位を固めた成田氏となっていますが、具体的な築城者及び築造時期については、文献によって違いがあるため、明確なことが分っていません。
 天正18(1509)年、成田氏長の代に、映画「のぼうの城」の題材となった石田三成率いる豊臣軍の忍城攻めが行われました。地形を利用した忍城の堅牢な守りに苦戦した石田三成は、石田堤を築き、水攻めに踏み切りました。しかしその結果は、水は予想したほど溜まらず、竣工から4日日に運悪く豪雨に見舞われたため、堤防が決壊してLまい、水攻めの策は失敗に終わりました。その後、成田氏が属していた北条氏の小田原城が落城したことに伴い、忍城も開城することとなりました。
開城後の忍城は徳川家康の四男松平忠吉が城主となるまでの間、家臣である松平家忠が城を預かり、戦によって損傷した城の修復を行いました。鹿長5(1600)年から幕府直轄領となり、寛永10(1633)年に松平信綱が城主となるまでの間、城番が城を管理するようになります。この間、鷹狩りに訪れた家康が農村を視察するなどして、農業基盤整備及び河川改修が進められてきました。
寛永16(1639)年には、徳川家光の側近であった阿部忠秋が、松平信綱に代わり、城主となっています。以後、阿部氏が9代184年にわたって城主を務めることになります。
その後文政6(1823)年に、奥平松平氏に替り、明治となり、廃城となりました。

沼橋門から入ります。
130511saki18.jpg


130511saki19.jpg


鐘楼
130511saki20.jpg


忍城時代の鐘が、博物館の中に置いてありました。
130511saki21.jpg


狭間の設けられた塀
130511saki22.jpg


現在は、行田市郷土博物館となっています。
130511saki23.jpg


至る所に「のぼうの城」のポスターが。
130511saki24.jpg


歴代城主の家紋
130511saki25.jpg


130511saki26.jpg


博物館の中は撮影禁止なので写真を写していません。以下はネットで探した写真です。
陳列室の様子
130511saki27.jpg


忍城の復元模型(阿部氏の時代)
130511saki28.jpg


忍城の鯱
130511saki29.jpg


御三階櫓の上から、丸墓山古墳が見えているはずなのですが、見分けがつきません(泣)
130511saki30.jpg


反対側に、関東の名山が見えました。ズームを効かせてます。
右の高いのが、日光男体山。
130511saki31.jpg


赤城山
130511saki32.jpg


榛名山
130511saki33.jpg


見学が終わって、駐車場に近いあたりから、御三階櫓を振り返って見納め。
130511saki34.jpg



(了)



「歴史クラブ行事記事一覧」に飛ぶ


スポンサーサイト

コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

立派な古墳ですが、石むき出しだと、何だか、痛々しく感じます。それにしても、やはり、まずは石室を造り、そして、上に土を盛ったのでしょうね。折角だったら、盛り土までして復元すればと思いました。ううん、これだけ立派だと、やはり、関東と言うか、埼玉と言うか、ともかく、ヤマトとは関係ない大王の墓と言う感じがします。

水攻めと言うのは、やはり難しいのでしょうね。その点、高松城の水攻めはついていたのでしょうね。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
ほんとは、ちゃんと古墳のかたちに復元したかったのだと
思います。
ところが、周りには民家が建ってしまっていて、
そんな余裕は無い感じでしたね。

感心するのは、大きな石を運んできて、組み立てていることです。
それには圧倒されました。
非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop