われに千里の思いあり(中巻・快男児・前田光高)/中村彰彦

20130515

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この巻は、加賀前田藩三代藩主利常と、将軍家の姫との間に生まれ、文武両道に優れた待望の男子・光高が主人公となる。ときの将軍、家光にも気に入られ、その養女を娶った若年の藩主には、思いもかけない悲劇が待ち受けていた。

二代藩主利長が亡くなったのは慶長19(1614)年、最後まで大坂方の大野治長からの誘いの手紙を徳川家康に回すなど、徳川政権の中で前田家を守ろうとした守成の人だった。
このとき三代藩主は、まだ利光という名だった。利長が亡くなったため、江戸に人質として居た芳春院(お松の方)は金沢に帰り、利光の母寿福院が入れ替わりに江戸に人質として入った。
利光は、駿府の家康に本多政重と前田対馬を派遣し利長の遺品を献上。対して家康は利長の遺領、越中22万石を利光に安堵してくれた。

そして、いよいよ大阪城攻めである。先鋒は、左から藤堂高虎、伊達政宗、松平忠直、伊井直孝、前田利光。
藤堂と伊達の後ろに家康、前田の後ろに秀忠という布陣となった。結果的に大坂城に出丸を構築した真田幸村の「真田丸」の正面が前田勢ということになった。
開戦初日に、隣の伊井の赤備え勢が遮二無二突進するのに、利光は状況がよくわからないとして、兵を動かす采配を振ろうとはしなかった。さすがは前田利家の忘れ形見、あの落ち着き様はどうだと評判になる。しかし前田は真田丸にてこずる。トンネルを掘って攻め込む策も試したが、戦上手の真田には通用せず、硬直状態に。
家康は、南蛮渡来の巨大な攻城砲5門で、淀君の居室のある櫓を狙わせた。結果、淀君の侍女7、8人を吹っ飛ばした。それを目の当たりにした淀君は、恐怖におののいて講和を決意してしまった。
それで大坂冬の陣は終結に向かった。

続いて大阪夏の陣である。前田利光は前回と同様の陣地を割り当てられたが、今回は真田丸に幸村はこもっていず、前田勢二万の前には大野治房の四千五百の兵だけだった。それを激破して玉造口から本丸に殺到して前田勢は一番乗り、本丸は火に包まれた。徳川方の圧倒的勝利は間違いなかったが、このとき真田幸村は徳川家康の陣地に肉薄、家康の肝を冷やすことをやってのけたが、善戦はそれまで、三度目の強襲の際に幸村は討死した。ついに淀君・秀頼の親子が自刃して終わったが、そのあと前田勢に後ろからきた伊達政宗の軍勢が一斉に鉄砲を撃ちかけるという珍事件が発生、このときも利光の沈着冷静な判断で同士打ちという悲惨な状況には至らなかった。

大阪冬の陣、夏の陣の働きで、前田利光も朝廷から参議に任じられ「加賀の宰相さま」と呼ばれる身分になったが、利光が家臣の加増に努めた結果、本多の五万石を筆頭に一万石以上の家を16も有するようになった。世の中には一万石の大名も珍しくないのだから、すごいことである。

徳川家康がいよいよ死にそうだということで、利光は駿府に見舞いに参上。家康は息を喘がせながら利光に無念そうに云ったものである。
「予はなんとしでもその方を殺してしまいたかったのじゃが、将軍がぜひともご容赦を、とそなたをかばうので命を助けたのじゃ」
利光は憮然たる思いになった。
本多政重にそれをいうと、大阪夏の陣の終わった後、四国への移封の打診があったことからして、大阪城攻めの際の前田勢の働きを目のあたりにして、脅威を感じたことからであろう、と政重は答える。
利光は秀忠の娘を妻に迎え、将軍の血筋の一男一女をもうけているのにと、暗澹たる思いをした。

利光とお珠の方は大変睦まじく、お珠の方は15歳から24歳までのあいだに三男五女を生んだが、八人目の姫を生んだ後産後の養生が悪く病みついて、ついに亡くなってしまう。
大阪城攻めの際に、あれだけ沈着だった利光だが、いよいよお珠の方が臨終となったとき、彼は衝撃のあまり気を失ってしまう。

秀忠は利光の娘亀鶴姫を養女にと所望した。お珠の方を失い徳川との縁が切れた前田家にとってはありがたい話である。そして亀鶴姫は美作津山藩森忠政の次男忠弘であった。森忠政は森蘭丸の末弟で、秀忠に気に入られている存在だった。
秀忠が次々に大名を取り潰しているなか、前田家にとっては安心できる動きであった。

利光は、三代目将軍に家光がなったので、将軍と同じ「光」を使うのは恐れ多いと、「利常」と名前を改めると幕府に届け出る。ちょうどそのころ利光の嫡男犬千代が元服しようとしていたが、将軍は犬千代の元服名に「光」を使うよう言ってきた。よって前田家は三代目利常、四代目光高となる。

前田家に、再び存亡の危機がふりかかる。金沢城が火災で丸焼けになったあと、将軍家光は迅速に見舞いをしたが、その時の上使の一人に徳山五兵衛がいた。
前田利家がいよいよ死にそうなとき、徳川家康が見舞いに来ることを知り、最後の機会と思い家康暗殺を企てる。これは利長が沈着冷静な気質だったため、これを止めたのだが、利家が暗殺を命じた場に徳山五兵衛が居り、徳山五兵衛はその後出奔して家康のもとに駆け込み、企てがあったことを知らせて、まんまと徳川家に採用された人間である。
上使としてきた徳山五兵衛は、再建中の金沢城の工事に色々難癖をつけて帰ったが、その後前田家に謀反の動きありという話になってしまった。
これは加賀藩史上「寛永の危機」と称される、大変な危機であった。
利常・光高親子は急ぎ江戸に出府して、将軍に会おうとしたが、なかなか会わせてもらえない。
そこで江戸家老横山大膳は、一計を案じた。前田藩上屋敷、下屋敷で大勢の職人を雇って普請工事やら庭の手入れやら、連日大騒ぎを演じた。幕府でも何事かと老中土井利勝が横山大膳を呼び出して質したので、得たりと横山大膳が土井利勝に今回の「謀反の疑い」を晴らすべく弁明に努めた。
この「寛永の危機」には、もう一つ伏線があって、このころ家光の弟忠長が尾張大納言から甲府に蟄居の沙汰が下ったばかりであった。秀忠は最初忠長を次期将軍にしようと考えていただけに、家光が将軍になってから忠長の行状は人心が荒んだものだった。
そこにもってきて前田藩の城普請である。徳山五兵衛の讒言もあって、それで疑われた。
利常・光高親子は、徳川家と縁戚関係でうまくいっていても、どこに落とし穴があるかわからぬ、決して油断はできぬと思ったものである。

秀忠が何かの折には、利常と同席させたため、親しくなった立花宗茂が養父立花道雪の書を贈ってくれた。
神亀は寿なりと雖も猶竟るの時あり
騰蛇は霧を成せども終に土灰と為る
老驥櫪に伏すも志は千里に在り
烈士暮年、壮心己まず
盈縮の期は独り天のみに在らず
養恰の福は永年を得べし
幸甚だ至れる哉、歌うて以て志を詠ず
漢字を目で追いながら宗茂の声を聞くうちに、これは老いたる英雄が齢すでにつきつつあるのを自覚しながら、なおも志を失わずにいるおのれの姿を歌ったものだということが知れた。
「先代からは、これはこういう意味だと教わりましてな」
と宗茂はいって、漢詩を日本語に意訳してくれた。
「亀は長寿ではあるが、なお死をまぬがれない。天に昇るという蛇は霧を発生させることもできるが、ついには土くれとなる。対して駿馬は、老いて厩に伏したところで、その志は千里のかなたを駆けめぐろうとする。そのように烈士といわれるほどの者は、老いたとて壮心己みがたく大志をとげようとするものだ。命の長短は、ひとり天のみが定めるところとは限らない。みずから楽しむ心を養えば、末永く幸福を得ることもできよう。そう考えられるようになったことは幸いである。そこで、その気持ちを歌ってわが志を述べる。」

作者がこの本のタイトルむとしたのは、この漢詩からであった。

将軍家光は水戸藩主徳川頼房の娘を養女とし大姫と名付け、光高に嫁がせた。これでまた前田家と徳川将軍家とは縁戚関係が強化された。
光高は、利常の薫陶よろしく、快男子に成長。家光に気に入られ、家光を助けた。

私が、この三巻からここに拾っているのは、徳川政権のなかで前田家がいかにして加賀120万石を維持出来たのかであるので、光高の活躍と悲劇については「本を読んでみてください」ということで。


(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

前田家は120万石でしたので、やはり、徳川家にとっては大きすぎますよね。せめて、その半分だったら、随分、異なっていたと思います。

それにしても、前田家は織田家、柴田家、秀吉、徳川家とよく続きましたよね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
ほんとに、前田家はよく保ったと思います。
matsumoさんが仰るように、四家に仕えての
大大名を保ったわけですからね。
すごいです。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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