所沢市山口地区を歩く(1)

20130529

5月28日(火)に、歴史クラブの企画で歩いてきました。
中世に武蔵七党の一つ、村山氏に属する山口氏が根拠とした地区です。
平安後期、平頼任は武蔵国司に任命され、現在の東京都瑞穂町に館を構え、村山氏を名乗りました。
その孫の家継がここに館を築き、山口氏を名乗ったそうです。

コース全体の地図
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右側の緑のマークが西所沢駅です。そこから赤のマークの史跡を右から順に見ていき、左側の緑のマーク、西武球場駅がゴール地点でした。

瑞岩寺
曹洞宗の寺。山口城の城主山口氏の菩提寺です。
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山門があり、仁王像が脇に置かれている。
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迫力があります。
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山号
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本堂
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本堂左手にはここ山口城主であった山口氏の菩提を弔う3基の五輪塔や宝筐印塔の残欠が祀られています。
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一番左の基礎部分に1383年銘があり、寺に現存する山口高実の位牌と一致しているそうです。
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不動堂
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不動堂の前には十二支をかたどった可愛いお地蔵さんが並んでいました。

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佛蔵院
真言宗の寺。山口貯水池に沈んだ旧勝楽寺から昭和初期に現在地へ移転。
この仏蔵院は「江戸名所図会」に紹介されているそうです。
江戸名所図会によれば、「辰爾山仏蔵院勝楽寺 山口観音より十二丁ばかり西の方、勝楽寺村にあり。新義の真言宗にして、中戸の真福寺に属せり。中興開山は真恵と号す。(元和九年正月十四日化寂す。)本尊は近頃火災に亡びて、新たに座像ニ尺ばかりの十一面観音を安置す。この火災によって悉く旧記を亡ぼしたりとて、草創の時世等詳ならず。(尊海上人を以って中興開山とす。)」とある。

山門
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本堂
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本堂左手にあった、宝篋印塔。宝暦5(1755)年に建てられたもの。
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その横には六地蔵
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山門の近くに石仏群があります。
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文久3年の六地蔵。アレッ、この彫り方だと8地蔵?・・・・・・真後ろには彫ってありませんでした(笑)
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筆子碑
江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って建てた供養塔。
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勝軍地蔵

鎌倉後期に起こった、愛宕信仰と結びついた地蔵信仰で、悪業煩悩に勝つ地蔵といわれる勝軍地蔵です。
延享4年(1747)銘の甲冑を着け馬にまたがっています。
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近くに、平成6年建立と新しいですが、立派な不動明王がありました。
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来迎寺
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山門
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本堂
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武蔵七党のひとつ丹党の丹治泰家が、鎌倉時代中期の建長八年(1256)に造立した板碑で、所沢市内では最古です。
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高さ 150Cm、下幅 58Cm、覆屋内に立っています。身部は、上方に阿弥陀如来の種子を蓮華座上に、下方は紀年銘・偈及び銘文を刻む。
身部上方、蓮華座上に阿弥陀如来の種子「キリーク」。
身部下方の刻銘は、向って右端から三行「無量寿経」に出る偈(げ)、二行で「観無量寿経」に出る偈(げ)、次に「建長八年(1256)、丙辰、二月廿三日」、左端に「左衛門尉丹治泰家、敬白」と刻む。
無量寿経に出る偈(げ):「設我得佛(せつがとくぶつ)、十方衆生(じっぽうしゅじょう)、至心信楽(ししんしんぎょう)、欲生我国(よくしょうがこく)、乃至十念(ないしじゅうねん)、若不生者(にゃくふしょうじゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく)」
[ たとえわれ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲し、乃至十念せん。もしわが国に生まれることができなかったら、我は仏にならない。]
観無量寿経に出る偈(げ):「光明遍照(こうみょうへんじょう)、十方世界(じっぽうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)、摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
[ 光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。]

摩耗が激しく、上部の「キリーク」はわかりますが、覆屋内で暗いせいもあって、身部下方の刻銘はほとんど読めませんでした。
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庭に、何という花でしょうか、きれいな花が咲いていた。
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勝光寺

入り口のわきに、立派な西国・坂東・秩父の百番供養塔があった。
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ここの石灯篭が立派です。
山門前に二つ。(本堂前にも二基ありましたが、省略)
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山門右側が惇信院(第9代 家重)の霊廟に献上された物。
長門国・長府藩(ちょうふはん) 毛利 匡満(もうり まさみつ)献上。長府藩(長州藩の支藩で現在の山口県下関市)は支藩でありながら城を持っていた珍しい藩だそうです。

山門左側が有章院(第7代 家継)の霊廟に献上された物。
丹波国・綾部藩 九鬼隆寛(くき たかのぶ)献上。綾部藩は(現在の京都府綾部市)無城大名です。

この山門は元禄七年~九年(1694~1696)に建築された。市指定文化財。
花頭窓と桟唐戸、粽柱は禅宗様の典型。屋根は入母屋造で和様の二軒平行垂木のように見える。禅宗様の貫、木鼻、斗栱が美しく組まれている。
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本堂
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本堂は、「京都龍安寺の塔頭の方丈を延宝5年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもちます。
調査結果から推測すると、この建物は、京都で解体され運びこまれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられます。関東地方では、稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重です。

鐘楼
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窓から撞木がはみ出している(笑)
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これは何という木でしょうか? きれいな花が咲いていました。
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山口城址
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平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、以来代々山口氏の居城となる。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。
その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原征伐で敗戦。廃城になった。

廃城後は再度城郭として用いられることはなく、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用された。明治時代以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われている。現在でも周辺の地名にはかつて城郭が在ったことに関連する地名が見られるものの、往時の遺構はごく一部しか残存せず、近年になって発掘調査が行われた他は所沢市教育委員会により城郭跡であることを示す碑と案内板が設置されたのみであった。
かろうじて残存していた城郭跡の敷地のうち、北西部は私有地として畑地等に利用され、南東部は至近の県道55号線の交差点に「山口城跡前」の名称がつけられたのみで長年に渡って放置されていたが、平成12年(2000年)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画もあったものの、開発反対と遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城郭跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。

発掘調査
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かろうじて残存している土塁。
第4号土塁の一部
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第2号土塁
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同じ第2号土塁を反対側から、西武狭山線の線路を通して眺める。
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他にも土塁とか、堀の石垣とかが残っているそうですが、私有地の中にあるため入れないようです。

これで、午前の部は終了。近くのファミレス「バーミヤン」でお昼を食べて休憩しました。

午後の部は、次回記事とします。

(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

写真、見せていただきましたが、やはり、古いもの、すなわち、2つの六地蔵(4面の内、1面、掘っていないのには笑ってしまいましたが)、勝軍地蔵、板碑、百番供養塔は味がありますね。特に、勝軍地蔵は素晴らしいと思います。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
そうですよね。
私も、気に入ったのはmatsumoさんと同じです。
特に勝軍地蔵は、深川不動に等身大の立派なのが
立っているのですが、それだけに素朴なのが
欲しかったのです。
これはとてもうれしかったですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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