一路/浅田次郎

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父の不慮の死により家督を相続、交代寄合蒔坂家の御供頭として江戸への参勤を差配することになった小野寺一路、十九歳。二百年以上前に記された家伝の「行軍録」を唯一の手がかりに、古式に則った行列を仕立て、いざ江戸見参の道中へ。
 お役目を果たせなければ家禄召し上げという身で、一所懸命におのれの本分を全うしようとする一路。その前途に、真冬の中山道の難所が立ち塞がる。さらに行列の内部では、ひそかに御家乗っ取りの企みが......。

「一路」という本が面白い、という評判をどこかで目にして、ネットで見たこの本の出版元のサイトの記事がこうでした。

読んで、ものすごく面白かった。
本を読んでいて、声を出して笑ってしまったというのは久しぶりでした。

舞台は、文久元年(1861年)、既に黒船が現れ、尊皇攘夷などと言われている世のことです。
関ヶ原にほど近い田名部という土地。そこは、七千五百石の蒔坂家が収める領土であり、また様々な背景から、旗本でありながら「交代寄合」という、大名並の格式が与えられている。
小野寺一路は、ずっと江戸で修行の身であり、剣の腕前も学問も秀才なのだったが、急ぎ国元に帰らなくてはならなくなった。
父・弥九郎が亡くなったのだという。失火であり、士道不覚悟、小野寺家は取り潰しの沙汰でもおかしくない状況なのだった。
しかし、そうもいかない事情がある。一路の家は代々、参勤交代の手配をすべて行う供頭という役目を担ってきていた。参勤交代の時期は迫っており、ともかく一路が供頭となって次の参勤交代を仕切らねばならなくなってしまった。家督相続は、参勤交代を無事に済ますための仮の沙汰。つまり、一路が参勤交代を無事務め上げなければ、小野寺家は絶えてしまうのだった。
重役から「しかと申し付けたぞ」と言われ、悄然として一路は、玄関口だけポツンと焼け残った屋敷跡に赴いた。そこで一路は、「元和辛酉歳蒔坂左京大丈夫様行軍録」という小冊を見つけた。これはまさしく、二百数十年に渡って受け継がれてきた参勤交代の心得を記したものなのだった。参勤交代の出立まで数日を残した今、これしか頼りに出来るものはない。
その「行軍録」は、僅かながら一路と話をしてくれる人に聞いてみると(一路と話をしてはならん、というお触れが出ているのだ)、二百数十年の間にだいぶ簡略化されているらしく、現在では行われていないことも多いのだという。
一路は決意した。自分はこの「行軍録」に記されている通りに中山道を歩き、無事江戸までお殿様をお送りしてみせると…。

最初にかかげた表紙の装丁に、中山道の田名部から江戸までの工程が載っています。それを見ると「岩村田」に泊まることになっている。そこは私が通った高校がある町です。
これも嬉しくなった。

主役級の人物を挙げるとすると、道中御供頭である一路、お殿様である蒔坂左京大夫、参勤交代の先頭を行く佐久間勘十郎、田名部にある浄願寺の坊主である空澄、参勤交代には加わらず国元に留まる勘定役の国分七左衛門、複雑な事情から二君に使える形となり心労が絶えない御用人・伊東喜惣次と言った面々がいるのだけど、みんな本当に素晴らしい人物なんである。

一路は、愚直に「行軍録」に記されている通りに実行しようとする。容易に予想されるのは、人数にしても当初は80名の規模だったものが、いまは40名くらいになっているように、二百数十年の間にだいぶ簡略化されている。それを強行しようすれば、あらゆるところで摩擦が起こるのは必然。

ところが、そうでもないのである。
それは「謀反のうわさ」のせいであった。
藩の陰の実力者が主犯なのだが、この参勤交代で問題が起これば藩主に詰め腹切らして、その陰謀者は以前より幕府の実力者によしみを通じているので代わって藩主の座につこうという算段だ。
そういう噂が密かにめぐっているため、それに義憤を感じた人たちが、黙って一路に協力してくれるのである。
この辺が、どうにもこうにもこちらの涙腺をゆるませる。

七千五百石の知行を取る旗本、蒔坂左京大夫。格式高い「交代寄合表御礼衆」二十家が筆頭、城中では大名に伍しての帝鑑間詰、ただしバカの鑑。歴代のバカにつき、歴代が無役。
おまけに芝居ぐるい。三月朔日の町入能の折、飛び入りで下手くそな「藤娘」を舞って、上様の不興を買った。贔屓の成田屋を、あろうことか飛び六方の花ミリから引き倒し、あげくの果てには町人に変装して出待ちをしていたところを町与力に見咎められて、謹慎を申し渡された。その成田屋から借用した鎌倉権五郎の衣装に隈取りまでして、隣屋敷から躍りこんできたときには、病床に伏せっておられたお祖父様も、さすがに怒鳴りつけた。
蒔坂左京大夫というのはよほどのアホなのか。

ところがそうではないのだ。
アホのまねしている理由というのが、アホが理由で藩主をクビになれば、やんごとない理由で藩主になれず脇役に追いやられた謀反の首謀者に藩主の座を譲れる。
そういう人物なのである。

極め付きは、楽しみにしていた岩村田宿の一夜前の和田宿である。藩主が熱を出して寝込んでしまった。付き添いの医師の処方した薬を毒見すると一路が言い出した。
一路は既に、医師が謀反に組していることを探り出していた。ここで毒殺されれば万事休す。
毒味をしようとする一路と、医師が処方する眠り薬の毒味など聞いたことがないと抵抗する医師の双方に、御殿様は言う。
どちらも忠義の心から出たのだから斥しりぞけるわけにゆかぬ。「おのおのの忠心を嘉(よみ)するための手立てはひとつきりじゃ。余と小野寺が同時に良軒の調合した眠り薬を嚥めばよい。さすれば余は、せめぎ合う忠義の心を、ふたつながら裏切らずにすむ……邪心ありて余が死するにしろ、忠心を疑うて生き延びるよりは上策であろう」
なんという御殿様なのだろうか。己が分限をわきまえ、臣下を、民を思いやる気持ち、「慈悲の心」こそが大切なのだ。
医師は、謀反の首謀者から「藩のためには、こうするしかない」と言われ、それを信じ、一路の父親を眠り薬で焼死させ、御供付き添いも毒殺してきた。
しかし、この行列で藩主の真の姿がわかり、一路の真っ直ぐな「一所懸命」の働きも目にし、藩主毒殺の指示には従う気持ちは去っていたのだ。

さて、私の通った高校があった「岩村田宿」である。先代の働きでようよう城持ち大名になったという。そういえば岩村田城址ってあったような気がする。それがなんと幕末に出来た!??
ビックリである。そんなことがあるんですね。
岩村田内藤家は、三河以来の譜代中の譜代。風雲急を告げる京師に赴き、21ケ年の長きにわたり伏見奉行を務めた。徳川家の屋台骨を揺るがしかねない輩を捕え、江戸に送り、皇女和宮の降嫁に尽力した人物である。
その働きで、晴れて城持ちが許された。
ところが当代は、19歳の若僧で、舞い上がっている。
本来しきたりでは、本陣に泊まった参勤交代の大名に、その地の主はあいさつに出向くのである。
それを岩村田内藤家の当主は、「城なしの身分が、城持ちを呼びつけるのか」と逆にあいさつに来いとふんぞりかえるのだ。
蒔坂左京大夫は、「怒るな、怒るな」と一路をなだめ、自分から出向く。
それで当主をギャフンといわせてから、江戸城帝鑑間でお世話になった先代の墓参りをするのでした。

楽しみにしていた「岩村田宿」だったが、とんだ人間の登場となってしまった。
まあ、それはどうでもいいとして、この本で誉めそやされている岩村田内藤家先代の事跡は、ぜひ自分でも調べたくなった。

軽井沢では、あろうことか加賀百万石のお姫様に一路が惚れられるという顛末が持ち上がるし。
ほんとうに面白かった。



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コメント

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四季歩さん、こんにちは

なるほど、「交代寄合」なんて言う制度があったのですか。私は旗本って領地を持っておらず、石高分を米でもらって、江戸にずっといるのだと思っていましたが(だって、そうでないと万が一の時に、将軍を守られないでしょうから)、地方にいた旗本もいたと言う訳ですね。すると、大名との違いは1万石以下で、かつ、幕府の職に就くことはないと言うことのようですね。この交代寄合については、佐伯泰英氏も小説を書いているようですね。

それにしても、田名部って聞いたことがある地名だと思ったら、青森県の下北半島にありました。一度だけ、今は無き下北交通大畑線の列車に乗って降りた駅です。と言っても、仕事で行ったのですが。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
私は埼玉県狭山市ですが、ここは川越藩、旗本小笠原家、秋元家、
幕府直轄地が入り組んでいて、複雑でした、
一つの村に、領主が三人というところもありました。
一番大きいのは小笠原家で、ここの当主は、大政奉還後
徳川慶喜について、静岡県に行きましたね。

佐伯泰英氏は、面白いところをとりあげますよね。
感心してしまいます。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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