江戸城の濠と御門を巡る(2)

20130606

4日(火)に歴史クラブの企画で歩いてきましたが、その後半の記事です。
北の丸公園出口から、陸橋で道路を渡ります。
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陸橋の上から眺めて、この道の左側、白いタワーがある手前の辺が「アクア」だな、なんて見た。
「アクア」というのは、国立近代美術館のレストランで、道路側からレストランだけ利用できます。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-583.html

陸橋を渡ったところにある北詰橋門(きたはねばしもん)から入ります。
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北桔橋門は、本丸大奥に近い門で、外との出入りに使った門です。
江戸城本丸防御の為に、橋をはねあげて遮断していました。高麗門形式で小ぶりですが、扉など重装です。
堀も深くなっています。

北桔橋門に向って左側が平川濠
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北桔橋門に向って右側が乾濠
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意外と頑丈な門
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北桔橋門から入ると目の前に天主台がドーーンと。
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天主台上り口のほうにきました。
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江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。
 慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。
 元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
 元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
 寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。

 この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。

この天主台については、「われに千里の思いあり(下巻・名君・前田綱紀)/中村彰彦」に詳しく書かれています。
三代目利常と五代目綱利は、この工事を当時も評判となった立派な仕事をします。
(四代目光高が急死し、利常が隠居の身から再度綱利を補佐していた)
その天主台が完成し、将軍家綱が検分した際のこと、家綱を案内した綱利は、梯子に乗る前にわらじと足袋を脱いではだしになった。将軍を先導するのに、土足で梯子を汚してはならないと思ったからである。「さすがに加賀百万石の当主だけのことはある」と老中たちの間で評判になった。
この立派な天主台の上に天守閣は、ついに建たなかった。
それは保科正之と松平信綱が、すでに徳川政権が安定した今、無用の出費をするべきではないと、しかし角が立たないよう、「当分見合わせる」という言い方で処したためである。
保科正之の見事な政治を傍で見ていた利常は、前田藩を託すのは保科正之と狙いを定め、見事保科正之の娘を綱利の妻に迎えることを実現、家綱からの許しを得る。
綱利改め、綱紀は保科正之のよき弟子となり、徳川政権のなかで前田120万石を幕末まで保たせた基礎をしっかりと作った。

汐見坂を下ります。
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汐見坂のわきの濠は「白鳥濠」といいます。
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江戸時代はじめの江戸城では、本丸と東側の二の丸との間には掘が南北に造られていました。
しかし、明暦の大火後の本丸の拡張に伴い、白鳥堀の部分を除き堀の大部分が埋め立てられました。家光が最初に造営した二の丸御殿では、白鳥堀の中に能舞台が造られていて、御殿から能を鑑賞することができました。
白鳥堀には「財宝伝説」があるそうです。それは、明暦の大火の際に、本丸から金銀財宝を放り込んだのに違いないという伝説だそうです。
また、この白鳥堀は独立した堀となっていて、水が流れ込む流路がありません。しかし、堀には豊かな水量があります。この堀の水源はほとんどが湧き水だそうです。

梅林坂と汐見坂の間の石垣は、平成14年から平成17年にかけて修復されました。
この石垣の下からは、紅葉山に移転した東照宮の遺構が見つかり、また明暦の大火の際の大量のがれきも見つかりました。
ここにあった東照宮は、元和4年(1618)に紅葉山に創建された東照宮が本丸天守台下に分祀され、さらに寛永14年(1637)にここに移されたものです。
また、寛永20年の二の丸御殿造営の時にも北東の位置に東照宮が造営されていて、一時期江戸城には3つの東照宮がありました。
これらは、貞応3年(1654)に紅葉山東照宮が造り変えるときに統合されて、再び一か所となりました。

ここの石垣も火災などで傷んだものは新しい石と交換されました。
石材は昔と同じ東伊豆産の安山岩を使っていますが、長年の風雨にさらされたものと新しい石材とはやはり表面の色が異なり、取り替えた方が白っぽくなっています。
白い交換された石は汐見坂の側に多くなっています。これは火災などで焼けて傷んだ石が汐見坂の側に多かったためのようです。

修復工事の様子が掲示されていました。
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やはり、白い石がわかりますね。
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梅林坂と汐見坂の間の石垣全景
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梅林坂から平川門に出てきました。
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平川濠には、のんびりカワウが休んでいた。
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平川門
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平川門の枡形には、内堀(大手堀)に出る正規の高麗門とは反対側に、もう一つ高麗門がある。
帯曲輪門と云うらしいですが不浄門とする解説が多くあります。ここを出ると、大手堀と平川堀とを仕切る細長い帯曲輪が北西の竹橋門方向へ続いている。このルートが大奥の通用門で、またここから城内の死者を運び出したので不浄門とも呼ばれている。ここを生きてくぐったのは、絵島と浅野内匠頭の2人だけらしい。

一方、大手堀を渡る平川橋と正規の高麗門は御三卿(田安・清水・一橋)の登城門であった。現在は、ここも大手門・北桔橋門とともに、年末年始をのぞき一般に開放されている皇居東御苑の入口の一つになっている。
渡櫓門の櫓部は関東大震災で大破したがのちに復元された。また、高麗門は橋に正対していないのが特徴である。

渡櫓門から見える平川濠の石垣で、ずいぶん白い石が多いのが見える。修復の跡でしょう。
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渡櫓門
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渡櫓門を出て左側にある、大奥の通用門だった帯曲輪門
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これが正規の高麗門
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平川橋
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平川橋は、平川門の前のお濠に架けられている木橋です。現在の江戸城の木橋は、この平川橋と和田倉橋の二つになってしまいました。
平川橋には擬宝珠(ぎぼし)があり、江戸のおもかげを残してくれています。
ここにある擬宝珠はすべて江戸時代のもので、擬宝珠が製作された慶長19年と寛永元年という年と職人の名前が刻まれています。平川橋の擬宝珠はすべてで10個あります。
しかし、この擬宝珠が元はどこの橋のものであったかはわからないそうです。
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平川橋からの大手濠、国立近代美術館方面
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平川橋を振り返る
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大手濠緑地というそうですが、そこに紀元二千六百年(皇紀)記念の和気清麻呂像がありました。
今のカレンダーでいうと、1940年(昭和15年)だそうです。
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「震災大いちょう」というのも近くにありました。
関東大震災による火災から焼失を免れたことから、この名称が付けられている。
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大手濠の突き当たりに、大手門の入り口が望まれます。
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大手門
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江戸城の正門で、ここから諸大名は登城し三の丸に入った。彼らも二の丸濠を渡る下乗橋前で駕籠を降り、大手三の門、中の門、書院門(中雀門)へて本丸玄関前に至った。
江戸時代も火災・震災のたびに再建されてきた。1923年の関東大震災でも大破、2年後に渡櫓を解体し両側の石垣を築き直す大修理が行われた。太平洋戦争末期の1945年4月13日、渡櫓は全焼。1965~67年にかけて復元工事を行った。一方、高麗門はほぼ江戸時代の様子をとどめている。
現在は、年末年始をのぞき一般に開放されている皇居東御苑(旧本丸・二の丸にあたる)の入口の一つとして誰でもくぐれるようになっている。

高麗門の前にたたずむ美女二人。皇居のまわりはやはり外人さんが多い。
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渡櫓門
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渡櫓門の鯱
大手門の渡櫓 (わたりやぐら) の屋根で、睨みをきかせている鯱 (しゃち) です。江戸中を焼き尽くした明暦の大火 (1657年) で前のものが焼失してしまったため、その後すぐに作られたものだそうです。
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現在ある渡櫓と鯱は、戦災の後に復元されたものです。
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渡櫓門の前にあった碑
「大手門渡櫓復元昭和四十一年十月竣工宮内庁」とありました。
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大手門を振り返ります。こちらの濠は「桔梗濠」となります。
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白鳥を望遠で。
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巽櫓(たつみやぐら)まで来ました。
桜田櫓とも巽櫓ともいわれる。江戸城に残る唯一の隅櫓で、その姿は美しく濠に映えています。魯の中には有事に備えて、鉄砲・弓・長柄・持筒などが保管されていました。白亜漆喰総塗込めで横に二条の線があり、出窓状の突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間があります。江戸城にはこのような二層または三層の櫓が20基もありましたが、今では富士見櫓・伏見櫓の三基が残っているだけです。皇居参観や観光で訪れる人に最初に目に入るのがこの桜田櫓であり、江戸城のシンボルになっています。この櫓の左手に桔梗門があります。

巽櫓から桔梗門(内桜田門)を望む。
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桔梗門
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この門は二の丸、三の丸に入る南門で,幕府の要職者が登下乗する門であり、大門六門の一つとして厳重に警備され、門外に下馬札があり、供の者が控えていた場所で、藩主を待つ間の噂話から「下馬評」という言葉が生まれました。
門名の由来は、道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門になったという説や,道灌時代の泊船亭はこの辺りで、船で各大名がここから帰郷したので「帰郷」が「桔梗」になったという説があります。

桔梗門から巽櫓を望む。
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桔梗門前の広場は、閑散としています。
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おまわりさんも、のんびりムード。
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ここから東京駅に向かいましたが、巽櫓をもう一度る
石落としがよくわかります。
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「馬場先濠」を渡ります。
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郵船ビルディングの皇居側角にトロフィー型の碑がありました。どういうものか調べましたがわからなかった。
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東京駅に到着。
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この日は、最後に「旧東京中央郵便局」跡地に再開発された 「JPタワー」の6階にある「KITTEガーデン」テラスから東京駅を眺めようという企画がありました。
とても良い眺めで、楽しかったです。

それを次回報告。

(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

私も4日、皇居東御苑に行きましたが、二の丸庭園内の菖蒲田の花菖蒲、思ったより咲いていました。四季歩さんも、後、50m程、南に進めば、撮影できたのに、残念でした。ここの菖蒲田は狭いですが、その代わりに花菖蒲が密生して植えられていることが特長で、うまくいけば、赤いサツキの花との対比で撮れることですが、今年は残念ながら、サツキの花は終わりに近い状態でした。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
おやまあ・・・・・・(嬉)
見事ニアミスですか(笑)
菖蒲田にいたんですね。
私たちは、その名のとおりひたすらに、
濠と御門を巡っていたものですから。
東御苑の庭園は、まだほとんど写真撮っていません。
もう時期が遅いかな。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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