吉田石間交流学習館(秩父事件資料館)/秩父市

20130730

28日(日)に、龍勢祭りの桟敷席申込みに下吉田の龍勢会館に行きました。その後同行していた歴史クラブの先輩の案内で、秩父事件の資料館に行きました。

歴史クラブに秩父事件の研究グループがあり、例会の際にその研究成果を聞いていました。
今回、先輩に案内して頂いて、色々な貴重な資料を見ることが出来ました。

資料館の場所は、秩父事件の発火点となった椋神社から更に山の中に入っていったところです。
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資料館は、石間小学校の廃校跡にあり、一階が子供と大人のいろいろな交流学習館で、二階が秩父事件の資料館となっていました。
写っているのは、案内して下さった歴史クラブの先輩。
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帰ってきてから、秩父事件の資料の整理をしながら、吉田石間交流学習館のことを知るためネットで調べたら、吉田石間交流学習館のサイトが充実していることに驚きました。
ぜひ覗いてみてください(下記をクリック)
http://www.chichibuji.gr.jp/wp/?p=944

秩父事件のおさらい:
(歴史クラブ研究グループの詳細な資料を私は持っていますが、ここではWIKIからの転載によります)
江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。

1873年から1896年ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、1882年から1883年にかけて生糸の国内価格の大暴落が発生した。
埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらにフランス市場との結びつきが強く、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。

当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた。民権派の一部にはそれに対抗する形で“「真に善美なる国会」を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし”という考えから急進化する者も出始め、各地で対立が起きていた。

そんな中、従来からの路線対立や、加波山事件の処理をめぐる紛糾などから1884年10月29日(秩父事件発生の2日前)、自由党は解党決議を可決するに至っていた(その後同党は1890年に再結成されるが、以後も解散・再結成・再編等を繰り返す。なお、秩父事件の指導部は蜂起時点ではこの自由党解党の情報を認知していなかったと考えられている。

秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。

自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した。

しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町の馬流駅付近)で高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。

事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)。

軍律
第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬

資料館には、秩父困民党の資料が大量に展示されています。
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打ち壊しにあった大宮郷の高利貸の家の大黒柱。
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当時の高利貸のやり方は悪辣で、利息を納めに行くと居留守を使い利息を受け取らず、結果的に担保の田畑を取り上げるなどしたようです。

版画も、ずいぶんと迫力のあるものが沢山ありました。
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革命軍が発行した、軍用金の領収書。
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埼玉大教育学部美術科に学んだ「根岸公夫画伯」がライフワークとした秩父事件の絵画には圧倒されました。
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椋神社での決起
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武ノ鼻の渡しの戦い
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東京から鎮台兵が到着すると、革命軍は火縄銃、鎮台兵は新式の村田銃であり、到底太刀打ちできるものではなかった。

本陣瓦解後、信州に転戦し最後まで抵抗勢力となったグループの、長野県佐久の東馬流での戦い。
鎮台兵を描いたもの
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「反乱」とされたため、ずっと秩父の人たちは肩身の狭い思いをしてきたそうだ。
しかし、自由民権運動100年などの見直しの機運もあり、むしろ今は体制悪に対して敢然と立ち向かった事として、誇りとする気持ちが資料館によって感じられた。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

秩父事件ですか、名前は聞いたことがありますが、詳細は全く知らずと言うか記憶に無く、上記を読んで初めて知りました。

それにしても、廃校って結構、多いですね。私が通っていた小学校は今は建て替えられて老人ホームに、中学校は場所は同じですが、2つの中学校が統合されて名前も変わってしまいました。秋葉原の近くにあった黒門小学校?は建物はそのままですが、現在は企業家達が使っているようですし。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
明治の「富国強兵策」の陰に、こういう悲惨な
状況があったことは、知っておいたほうがいいですよね。
所詮、政府というのは国民の生活なんか、
頭にありませんから。
今でも東北の悲惨な状況を放っておいて、
原発のセールスに首相が飛び回るんですから。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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