中山神社/さいたま市中川

20130823

8月21日、大宮・氷川神社から中山神社に向かいます。
第二産業道路沿いで、見沼区と緑区の境にあることがわかっているので、第二産業道路に出て南下します。
心配していましたが、開発が進んでいる中、お宮さんの森は判りやすくて助かります。
入り口には、けっこうわかりやすい表示がありました。
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入っていって、鳥居前の空き地に車を停めました。
とりあえず、境内に入っていって木陰のベンチで、途中で買ってきたコンビニのおにぎりで昼食。

それから調べてきた資料を読み返すと、一の鳥居は長い参道を進んで道路を挟んだところにある、と。
で、一の鳥居まで歩いていきました。第二産業道路まで出たら、その先に見えました。

一の鳥居は、形式は「両部鳥居」といい、厳島神社などで見られるもので美しいものでした。
昔の参道が細い道だったことがわかります。
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一の鳥居から参道は6~700mくらいでしょうか。
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参道を第二産業道路が横切っています。
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第二産業道路を渡り、また参道を歩きます。
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二の鳥居から境内になっています。
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二の鳥居の社額は「氷川神社」となっています。
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二の鳥居のところにあった「説明板」で、当社の-由緒-を読みました。
 中山神社は、かつて中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守である。創建を人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられる古社である。明治四十年七月、神社合祀の際に社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」の由来は一説には、見沼に面した高鼻・三室(浦和)・中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
 天正十九年(1591年)十一月、徳川家康から社領十五石の御朱印を賜った格式のある神社である。
 当社の祭礼の中でも、毎年十二月八日に行われた鎮火祭は特に有名で、焚き終わった炭火の上を裸足で渡り、無病息災及び火難がないよう祈願するものである。ただし、近年は事情によりこの行事は中断している。
 現社殿の裏側に旧社殿が保存されているが、これは桃山様式をもつ市内最古の建造物として大宮市指定文化財となっている。

ここで「簸王子(ひおうじ)宮」というのが出てきます。
中山神社について、簸王子神社という呼称がよく使われていますが、浅学の私は知らなかったので調べてみました。簸とは、「箕で煽って、穀物の糠や塵を去る」という意味で、おそらく簸王子というのは、素盞鳴の子孫を篩いにかけて残った最も秀でたもの、という意味ですね。

ここの祭神、大己貴命のことをそう表現しているわけですね。

手水舎
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慶安5年(1652)奉納の、一対の灯篭がありました。
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この灯篭にも、大宮・氷川神社二の鳥居のところにあった灯篭と同じく、台石の四方向に顔が。獅子ではないかと思いますが、こちらのほうが先に作られたと思います。
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セミの抜け殻が。夏ですねえ。
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暑い夏の真昼間、人が居ません。
小さい子を遊ばせている母子一組だけでした。
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狛犬手前の境内社、八社は左から神明社・飯成社・淡島社・疱瘡守護社・磐社・石上社・竈神社・稲田宮主社。
その手前に荒脛神社がありました。
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狛犬が一対
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社殿手前に「御火塚」が。
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ここでは、鎮火祭があり、炭火の上を素足で渡って無病息災と火除を祈願する。かつては、薪を平年は12段、閏年は13段積み上げて夜通し焚き、炭を神前に供えていたという。近年は中断していたが、2007年より再開したとのこと。
社伝では、鎮火祭の火により「中氷川」の氷が溶け、「中川」の地名になったとされる。

その社殿寄りに、天保4年(1833)奉納の一基の灯篭があり、彫刻が面白い。
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拝殿
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神紋は、入り口の表示から「八雲」紋であることがわかりました。
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本殿
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垣の隙間から覗き込み、「流れ造り」のシンプルなものだということがわかりました。
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本殿の裏に、旧社殿が覆屋の中に保存されていました。
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-旧社殿案内板-
(前半の由緒部分は省略)
 旧社殿は、板張り床の外陣に至る階段を設け、祭神を安置する母屋前方の屋根を、角度を変えて軒先よりさらに長くして、反りを付した板葺の二間社です。また、社殿側面の床板には脇障子や端の反り返った欄干がついていた痕跡が見受けられます。このような造りを「流造り」といい、一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものを「見世棚造り」といい社殿のもとになる型です。この旧社殿は簡素な板葺の「見世棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過波期の建造物といえます。桃山期のものと考えられ、県内に現存する社殿でも古い型式に入り、市内では最古のものであり、建築学上大変貴重な資料です。


覆屋の板の隙間から、なんとかどんな構造かはわかるように撮りました。
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中山神社は大宮の氷川神社と氷川女體神社との中間に鎮座していて、祭神も素盞雄・稲田姫に対して子孫の大己貴命。三社を氷川神社とする説が一番有力なようです。
なので二社と同じく一の宮としてもいいのではないかと、個人的には思います。
しかし、中山神社を一の宮とする資料はないようです。
ちなみに延喜式内社は個別に掲載されていて、中山神社は入っていません。

いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html





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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

初めて聴いた神社ですが、参道の長さはともかくとして、本殿・拝殿はそれほど大きくはないようですね。旧社殿も大きくはないようですし。

私が大昔に住んでいた所の神社の名前は大抵地名でしたので、大人になって、七福神巡りや、富士塚巡りをするようになってから、氷川神社や天祖神社が方々にあるのを知りました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
ほんとに「鎮守のお社」だと思います。
ただ、戦後鎮守の森が公園化したり、荒廃していった中で、
ここは、一之宮の一角という意識があったため、
ていねいに残されているのがもとても嬉しかったですね。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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