旧東海道・品川宿を歩く(1)

20130918

昨日、9月17日(火)に、歴史クラブの催しで、「旧東海道『品川宿』を歩く」に参加しました。
昼食ポイントの確保(参加30名)の関係と、立ち寄りポイントの関係で旧東海道を外れるのが多いので、品川寺(青物市場)で折り返して、品川に戻るという往復コースを計画しました。
コースは、品川駅⇒八つ山橋⇒土蔵相模⇒品川舟溜り⇒鯨塚⇒利田神社⇒品川台場(御殿山下砲台)跡⇒善福寺⇒一心寺⇒養願寺⇒品川本陣跡⇒品川神社⇒東海寺⇒海蔵寺⇒妙蓮寺⇒昼食(青物市場駅近く)⇒品川寺⇒海岸線跡⇒荏原神社(解散)⇒品川駅または新馬場駅

今回は案内役だったので、写真は一部当日撮ったのもありますが、大半は下見(8/28)の際に撮ったものです。更に「歴史街道倶楽部」参加のとき(3/7)に撮ったものもあります。

品川宿:
江戸時代の東海道の第1宿。次宿は川崎宿。品川宿は当初、北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、享保7年(1722)歩行(かち)新宿が宿場として認められ、以降3宿で構成された。現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があった。北条氏時代の伝馬制下でも品川は宿の機能を担っていた。天正18年(1590)関東へ入部した徳川家康は、領国経営のために江戸を基点に据えた街道と伝馬制度の整備に着手し、慶長元年(1596)江戸一小田原間の石切伝馬手形を下した。17世紀後半になると、江戸に近い北品川宿の北側に人家が出来て新町が形成されていった。品川宿は南品川宿・北品川宿・歩行新宿の三宿で成り立つこととなった。また従来の南北の両品川宿を新宿に対して本宿といった。

広重の「東海道五十三次」では二つの版があるので、両方載せておきます。
「品川 日之出」(保永堂版)
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「品川」(隷書版)
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狭山市駅に8時に集合し、ラッシュに揉まれながら電車で品川駅に到着。
落伍者が無いことを確認し(笑)、歩き出します。

駅を出ると、第一京浜沿いにしばらく進みます。
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八ツ山橋を渡ります。
旧八ツ山橋は,明治5年東京新橋から横浜間の鉄道開通に伴い旧東海道に架けられたわが国初の跨線橋で,当時は木橋だった。いつからか鋼桁中路橋に架け替えられたが,大正3年,昭和5年と2回に分け単純タイドアーチ橋に架け替えられた。その後,老朽化のため昭和60年に架け替えられ現在に至っています。

橋に「旧東海道」の表示が。
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反対側には「八ツ山橋」と、なかなかクラシカルな橋桁です。
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下はJRの線路で、色々な電車が通っていきます。
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渡ってから振り返ったところ。
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橋の袂に旧橋の親柱と橋門構が京橋の親柱と共に展示されています。
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道を挟んだ反対側に、旧東海道を歩き出す人のために、説明板などが置かれた休憩できる広場があります。ここで品川宿の説明をしました。
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この辺には、かって御殿山というレジャーポイントがありました。
大判錦絵「品川 御殿やま」
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品川宿の一番江戸よりが歩行(かち)新宿で、食売(めしうり・飯盛)旅籠が集中していた。また、歩行新宿の西側には桜の名所御殿山があった。江戸時代初期から元禄15年(1702)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661-73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のはか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。文政7年(1824)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られた。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。

ということで、何となく森は残っているものの、山という形容には程遠いですね。
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旧東海道品川宿歩きの道標一番には、「東海道八ツ山口」とあります。
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旧東海道は、ずっとこのように商店街のなかを通っています。
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歩き始めてすぐに「問答河岸」というのがありました。
これは、1640年、徳川家光が附近にある東海寺を訪れた際、ここで沢庵と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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次いで、土蔵相模跡。
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歩行新宿2丁目の家並であるが、ここは宿場の役務として人足を出していたところで「歩行新宿」と名づけられ
た。家業としては「□印」がつく「食売旅寵」や水茶屋が多い。実質遊郭である。
現在は写真のように、NICマンション(ファミリーマート)のところが元外見が土蔵造りであった旅寵。高杉晋作、久坂玄端、伊藤俊輔(博文)井上馨などがイギリス公使館疲打ちの謀議をこらしたところ。今は亡きフランキー堺(居残り左平次)石原裕次郎(高杉)小林旭(伊藤)競演『幕末太陽伝』で映画化され話題を呼んだ作品の舞台。
食売旅籠歩行新宿の中でも大きな旅寵が、現在の北品川1-23角にあった「土蔵相模」である。これは歩行新宿にあった「相模屋」という、旅篤と言うよりもむしろ妓楼で、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵
相模」と呼ばれた。江戸吉原を「北」、品川宿を「南」の遊郭と通称した。
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北品川橋にやってきました。
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「品川浦の舟だまり」ですね。近くまでビルが迫っていますが、ここから海に出られます。
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釣り船、屋形船のお店もあります。
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それから、「鯨塚」と「利田神社」に寄りましたが、ここは別ページで載せます。

そして、御殿山下砲台(台場)跡です。
1853年6月3日(幕末)ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画した。工事は、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山・伊予今治藩や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基であった。
他の台場と異なり、資金不足の計画変更のため、品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。
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この台場がそのまま現在の台場小学校となっており、敷地が五稜形のまま。
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台場を築いた石や、明治3年(1870)から昭和32年(1957)まで第二台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが台場小学校庭入口に残っています。
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善福寺
品川善福寺は1294(永仁2)年創建という時宗のお寺で、元は藤沢遊行寺(時宗の総本山)の末寺であったとか。伊豆の長八の龍の鏝(こて)絵があることで知られています。
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鏝(こて)絵の龍がすごいです。だいぶ剥げ落ちているのが痛々しいですが、やはり見事なものです。
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さらに旧東海道を歩いていきます。
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「尾張屋」という古くからやっていたような店が。それにしてもショーウィンドウに神輿とは。
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一心寺
真言宗智山派寺院で豊盛山延命院と号し、安政2(1855)年大老井伊直弼により開山したと伝えられる。
東海七福神の「寿老人」
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養願寺
旧東海道から虚空蔵横丁を入ったところにあり、正安元年(1299年)の創建と伝えられ、虚空蔵尊を本尊とする寺としては都内で唯一の寺。品川虚空蔵として親しまれてきました。
寺では鎌倉時代の制作と推定される「銅造阿弥陀如来像」と万治元年(1658年)造立の木造不動三尊像(三躯)を安置しています。阿弥陀如来像は、長野・善光寺の本尊の模作の一つであるが、鎌倉時代の製作と推定され、大変貴重なものです。
東海七福神の「布袋尊」。
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また旧東海道を歩いていくと、こんなお店が。品川らしい。
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品川宿本陣跡にやってきました。
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本陣とはもともと武将が戦場にいるときの本拠地をさす言葉だが、転じて武家の主人の宿泊場所を示す。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が整えられた頃から、「本陣」の名で呼ばれるようになった。品川宿の本陣は、初め、北品川宿と南品川宿に1軒づつあったが、南品川宿では早くに廃れ、江戸時代中ごろには北品川宿のみとなった。本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門・玄関・書院などがあり、大名行列の乗物や長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を記した関札(せきふだ)を立て、紋の入った幕を掲げたという。

文政6年の火災により焼けてしまい、今は何もなく公園になっている。
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明治天皇の行在所になったとかで、「聖蹟公園」になっていて、碑があります。
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一角に「新聞少年」の碑がありました。
私は兄と妹の三人兄弟でしたが、親の教育方針で三人とも小学生の間は新聞配達をやらされました。
懐かしい。
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(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

昔の浮世絵を見ると、品川って、落語の「品川心中」で描かれている通り、本当に海のすぐ側なのですよね。御殿山は一度だけですが、そこの教会で行われたコンサートに行ったことがあります。確か、そばにホテルがあった記憶が。

旧東海道は東海七福神巡りで2回ほど歩いたのですが、その頃は、七福神だけしか興味が無かったので、残念ながら、他のことの記憶はほとんどありません。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
東海七福神巡りを2回もやったのは、すごいですね。
私は、来春に考えています。

品川宿の辺には、いろいろな名所旧跡があって、
楽しいですよ。
ぜひ歩いてみてください。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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