講演「古代豪族は どのように地域を経営したか」

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10月26日(土)に、県立熊谷図書館で行われた表題の講演を受講しました。
会場になった熊谷図書館ですが、三つの県立図書館で専門分野を決めて活動をしているそうです。
「歴史と科学の熊谷図書館」、「科学と芸術の久喜図書館」、社会科学と産業の浦和図書館」との事でした。
私のように歴史に入れ込んでいる人間には、熊谷図書館が頼りになる存在ということですね。

先月から受講し始めた「さきたま講座」とタイアップして、この講演が企画されています。
今回の講師は、高崎市教育委員会・文化財保護課の若狭 徹氏でした。
古墳時代や埴輪に関して、何冊も本を書いている方です。
そして、何と云っても国内で先駆け、1981年に群馬県高崎市の「三ツ寺遺跡」でそれまで文献資料や埴輪でしか窺い知ることのできなかった「豪族の家」が初めて発掘されたのですが、その関係者の方です。

「三ツ寺遺跡」現地の説明板
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群馬県では、古墳時代に榛名山が二回も大きな噴火をして、ポンペイのように火砕流や火山灰で埋まったために、遺跡が当時の姿で発掘されるという特色があるそうです。

浅学の私ですから、見る物、聞くことが全て新鮮なことばかりでした。
パワーポイントで説明していただき、それの印刷されたものもいただいてきました。
いくらなんでも、それをそのまま載せるわけには当然いきません。

初歩的で恥ずかしいのですが、ここで私なりに整理できたことを箇条書きで書いておきます。

古墳時代とは
・3世紀から6世紀の350年間で、巨大な前方後円墳が造られた時代
・国家がまだできておらず、各地の豪族たちが連合していた時代(ヤマト王権)
・中国や朝鮮半島諸国と本格的に外交が始まった国際化の時代
・前方後円墳は単なる王の墓ではなく、共同体のシンボル。社会の象徴であった。

前方後円墳がピラミッドのように石貼りの外観でピカピカに輝いていた、という今の姿と違う説明には興奮しました。
復元された「保渡田八幡塚古墳」
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これは近々飛んで行って見たいと思います。

豪族とは何か
・農民たちを率いて地域経営を行うリーダー
・神をまつり、軍事警察を行って、地域の安全を保障
・交易・交流によって、財や技術を地域にもたらし、富を循環させる存在
・官僚制度が成立前の古墳時代豪族は、全人的な力を持っていた。

豊富な事例で、沢山の貴重なお話が聴けましたが、その中から幾つか紹介しておきます。

榛名山の麓、二つの大きな川に挟まれた扇状地に現地人が暮らしていた。その下の低湿地帯は未開発のままだった。
そこに東海地方から、長良川流域などで水利の技術を持った集団が移ってきて低湿地帯を開発して大きな勢力となった。
それは古墳が、当初は東海地方で見られる「前方後方墳」であり、その後ヤマト王権と結びつき「前方後円墳」に変化したことでもわかる。

「卑弥呼の鏡」
高崎市芝崎蟹沢古墳から出土したもの。
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鏡には「(正)始元年」の銘文がある。
正始元年(240年)は、邪馬台国の女王卑弥呼が、中国・魏に使いを送った年(239年)の翌年にあたる。
240年は魏の返礼使が来朝した年で、「魏志倭人伝」には「鏡百枚」ほかを卑弥呼に賜うとある。
蟹沢古墳の被葬者は卑弥呼かその後継者と係わりがあった人物である。

高崎市御布呂遺跡の、小区画水田の発掘された姿には圧倒された。
緩やかな傾斜地に何百という水田が連なっている様は圧巻である。

日本書紀に見る上毛野氏の外交は下記のごとく
(伝承)
・神功皇后49年、上毛野君の祖、荒田別・鹿我別は将軍として新羅に派兵。加羅7国を平定し、百済王と会見。
・応神天皇15年、荒田別と巫別は、百済に派遣され、学者の王仁を招聘する。
・仁徳天皇53年、上毛野君の祖、竹葉瀬は新羅が貢物を欠いた非礼を責めるため派遣される。弟田道が続いて新羅を討つ。4邑の民を連れ帰る。
(史実)
・舒明天皇9年(637)、将軍上毛野君形名は蝦夷征討で劣勢となる。妻が夫を励まし「汝の祖等は蒼海を渡り、万里を跨て、水表の政を平け、威武を以て後葉に伝へたり」と。
・天智天皇2年(663)、白村江の戦いに上毛野君稚子が前軍将軍として従軍し、新羅の二城を落とす。

日本の馬は古墳時代から
渡来人技師を招聘し、生産を開始した。
馬の出現は、近代自動車産業の新興に匹敵する。
権威(駿馬=リムジン)、軍事(軍馬=戦車)、運搬(荷役馬=トラック)、農耕(農耕馬=トラクター)、情報伝達(駅馬=公用車)
馬生産は古代の総合産業
馬、飼育システム、調教、生産出荷管理、塩生産、馬具生産(鉄、革、木工)

古代における馬生産に成功し、榛名山麓が馬の名産地となり、「群馬」の地名が誕生、県名のルーツとなった。

とてもここには全部載せきれませんが、古代の歴史を学び始めた私には、ワクワクする話ばかりでした。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

熊谷市まで行って受講ですか!! すごいですね。

さて、前方後円墳に石が乗っていたと言う話は初めて聞きました。確かにそうすれば、雨から墓を守ることができますね。中国だったかの小さな墓も、沢山の丸い石を乗せているものがあったことを思い出しました。

三ツ寺遺跡は所謂、「環濠住宅」ですね。ただ、竪穴式住居と言うのは、濠の水分の浸透を考えると、疑問に思いました。確かに床面は確認しているのでしょうが、何らかの工夫をして、乾いた床を作って快適に暮らしたのではと思っています。


後、例の卑弥呼の鏡、やはり、中国で同じようなものが発掘されているのかどうかが重要でしょうね。国産の可能性も高いのではと思います。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
さすがにmatsumoさんは、古代についても、
一家言ありそうですね。
すごいですね。

私は、ほんとに駆け出しですから、
感心してばっかりです(笑)

これから大いに勉強していきたいと思っています。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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