真名板高山古墳・板碑・薬師堂(埼玉県行田市)&龍興寺(加須市)

20131120

13日(水)の歴史クラブの見学会で、玉敷神社の次に訪れたのが、行田市真名板(まないた)にある古墳と板碑と薬師堂が一か所に集まっているところでした。

【真名板高山古墳】
真名板高山古墳(全長90.5m、前方後円墳、6世紀後半築造)は一見するとごく普通の古墳ですが、実際は古墳の下の部分が3mもの川の堆積物に覆われ、墳丘部分だけが見えています。ボーリング調査によって、古墳が約3m埋没していること、深さ約2mの二重の周掘が巡っていることがわかりました。実際の全長は127mでさきたま古墳群の二子山(138m)に次ぐ大きな古墳です。墳丘の中央部から後円部は大きく削られています。
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丘に登るような感じで道が付いています。
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本来前方後円を結ぶ稜線が山道みたいになっています。
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墳丘の斜面には樹が茂っています。
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墳丘の下に降りて見上げてみました。
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墳丘の頂上には、2体の石碑が祀られています。
一つは富士講の石碑
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もう一つは輪王坐の石仏
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【板碑】
高さ 351cm、行田市内最大の板碑です。忍城址の行田市郷土博物館には、このレプリカがあります。
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上方に三弁宝珠、荘厳体の阿弥陀の種子「キリーク」、蓮華座
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中央に「南無阿弥陀仏」の六字名号、両脇に五輪塔
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下方中央に「建治元年(1275)乙亥九月日、沙弥西念、敬白」、左右に「右志者奉為過往、主君幽儀滅罪生善」「乃至法界群類平等、利益偽造立之如件」の刻銘があります。
沙弥西念が今は亡き主君の菩提供養のために建立したものです。
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横にかわいらしい板碑がちょこんと(笑)
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すぐ近くに、正面に「青面金剛」と彫った庚申塔、左横に「弁財天」、右横に「大黒天」が彫られた石碑がありました。
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【薬師堂】
延宝7年(1679)から天和2年(1.682)にかけて建立されました。当時、花蔵院(けぞういん)という真言宗の寺院があり、薬師堂はその境内において差配を受けていた堂であったといわれます。花蔵院は明治初期に廃寺となり、現在は薬師堂と仁王門のみが残っています。
県指定文化財、鎌倉時代後期薬師如来立像(1月1日および4月2日~8日の間の日曜御開帳)があります。
ここには、真板(まないた)氏の館があったと伝わっています。騎西町町史には、真板五郎次郎経朝は弓術に優れ、仁治4年(1243)、寛元2~4年(1244~1246)、建長3~5年(1251~1253)幕府の弓初めの射手を努めた、真板氏の出自は不詳と記載されています。
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仁王門
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ユーモラスな仁王様
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薬師堂
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真板(まないた)氏館跡の碑
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「新渠の碑」という、この地の偉人を称える碑がありました。
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原文を訳した説明がありました。
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薬師堂や板碑を保護するかのようにそびえている、樹齢700年の「真名板薬師堂の公孫樹」。
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ここを引き上げるときに、板碑のそばにこんな瓦のかけらを見つけました。ハートがあるんです。
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【龍輿寺】
真名板からバスで移動して、加須市上崎にあるこのお寺にお参りしました。
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大光山龍輿寺と号し臨済宗円覚寺派に属しています。文書によると不同年中(約1200年前)天裕和尚によって開かれたといわれています。古くから足利氏との関係が深<、境内には足利持氏とその子、春王・安王の供養
塔が現存している。
足利氏のゆかりのものも多<伝えられていたらし<、足利成氏寄進の達磨画像、持氏の束帯像があったといわれています。しかし、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺領安堵状が残っているのみです。

龍興寺の青石塔婆
龍興寺には覆屋の中にコンクt」一卜で補強された1基の板碑があります。文永8年(1271)に造立された板碑です。埼玉県指定史跡になっています。
これこそ「青石塔婆」の名称の由来になったものです。板碑は卒塔婆・板石塔婆・青石塔婆など、様々に呼ばれてきました。しかし、昭和初年、龍興寺の板碑に『青石卒塔婆』の文字が刻まれているのが発見され、占<から青石卒塔婆の名称が用いられていたことを証明する史料として話題を呼びました。《青石とは荒川上流に産する緑泥片岩のこと。武蔵国の板碑の多<がこれを石材にしており、以後『青石塔婆』の名称が広<用いられるようになりました0》           「
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本堂
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本堂の前に一対の灯篭がありますが、請台のところにハートが彫っているいることと、茶道に関する彫刻があったのが珍しい。
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足利持氏・春王・安王供養塔
境内の覆屋に3碁の古びた石塔があります。永享の乱で亡<なった足利持氏とその子、春王丸と安王丸の供養塔(埼玉県指定史跡)です。
難を逃れた足利成氏が父と兄のために道立したといわれています。成氏は冥福を祈るために寺を修造、七堂伽藍を建立するとともに、寺領として上崎村を与えたともいわれています。
永享の乱とは、室町幕府を開いた足利尊氏は関東を抑えるため、次男基氏を鎌倉に下向させました。しかし、次第に強大化した勢力は4代持氏のころになると、頂点に達しました。幕府はこれを弱めようと、持氏と対立する上杉氏を助けて、永享11年(1439)に持氏を滅ぼしました。これが世にいう永享の乱です。
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山門の前に「石敢當」がありました。
これにはびっくりしました。沖縄に行くと、道がぶつかった所には必ずこれがあり。「また、あったよ」なんて面白がったものでした。沖縄だけの風習と思っていたので、関東でこれにぶつかるとは夢にも思っていませんでした。

小川のほとりに、ひっそりとありました。
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石敢當(いしがんとう)とは、中国で始まった魔除けの石柱です。道路の突当りや橋の訣などに造立し、様々な邪気をくい止め追い払う。沖縄をはじめとする南西諸島から九州南部におおくみられます。
明和8年(1771)に造立されました。『石橋施主回心』とあることから、石橋を渡って寺内に入ろうとする邪気を祓うため僧侶が造立したものと思われています。

山門
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山門の彫刻ですが、眼に石を入れているのが珍しい。
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山門前には沢山の石仏が並んでいました。その中で、寛政4年(1792)奉納の庚申塔がよかったですね。
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日月の彫刻が見事で、年代が古いのにはっきりと刻まれています。
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また本堂前に三蔵法師の一行があったのには、驚きました(笑)
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(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

高さ3.5mの板碑ですが、すごいです! その上、700年以上前のものだと言うのに、文字や文様がくっきりと残っているのもすごいです。

全長90.5mの前方後円墳ですか! やはり、「関東に大君あり」ですね(笑)。そう言えば、昨日、湖東三山を歩いている時、「古墳公園」と言うのがあり、そこには10基以上の円墳がありました。

matsumoさん

板碑で最大のものは、長瀞にありますが、
5mを越えます。
すごいですよね。
一枚もので、薄いですから。

湖東三山の紅葉は見事ですよね。
私もちょうど紅葉のときに行ったことがありますよ。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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