國渭地祇神社(くにいちぎ・延喜式内論社)/埼玉県坂戸市

20131218

12月12日(日)、毛呂山町の「出雲伊波比神社」から向かったのが、当社です。
ここは、「鎌倉街道散歩」のときに一度訪ねています。

旧鎌倉街道側に、木製の社号標が立っています。
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創建は明らかではありません。「新編武蔵風土記稿」の森戸村の項には「熊野社 當村の鎮守なり、慶安二年社領十石の御朱印を賜へり、鎮守府将軍 秀衡の勧請なりと伝へるのみにして、證すべき記録もなければ信ずるに足らず」と記述されています。
が、古社であることは間違いなく、もとは国で一番のやしろという意味で「国一熊野大権現」と称していた。創立には越生の本山派修験山本坊と結びついていた別当三宮山大徳院が関係していたものとされている。
延暦年間には坂上田村麻呂が社殿を再営し、のちに奥州藤原秀衡が再建したと伝わっているそうです。

木製の神明鳥居。
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当社は両側を道路に挟まれていて、もう片方の道路にも鳥居が設けられています。
昭和47年建立の石造神明鳥居。
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鳥居の横に昭和13年奉納の灯篭がありますが、そこに「三つ葉葵」の紋があります。社殿には、一切神紋が見当たらないので、これかもしれません。
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境内
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手水舎
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社殿は、拝殿の後ろに覆い屋があり、本殿を囲んでいます。
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拝殿
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拝殿の中に、「延喜式内・国渭地祇神社」と書かれた社号額がありました。
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ご祭神は「八千矛(やちほこ)神」です。
大国主命の別名で、武神としての性格面を表わします。
《古事記》では、高志(こし)(越)国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚する、4首からなる物語的問答歌(〈神語(かむがたり)〉という)の主人公として登場しますね。

本殿は、階段はありますが、脇障子、欄干などがなく、簡素な板葺の「見世棚造り」から「流造り」に発展していく過波期のもので、古いものですね。
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ご神木の「椎木」
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境内社の「秋葉神社」
覆い屋
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本殿は「流造り」
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同じく境内社の「八幡神社」
覆い屋
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本殿は立派な「流造り」
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扉の脇に龍の彫刻
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境内に、こんな石碑がありました。「北辰」というのは北斗七星のことです。
仏教だと「妙見菩薩」の妙見が北斗七星を表します。
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「武山君碑」という碑がありました。
明治35年に建てられたもので、碑文を拾い読みすると、明治維新期に教育に功績があった旧会津藩士「南摩 綱紀」を門人が偲んで建てた頌徳碑でした。
Wikiで調べてみたら、「八重の桜」の山本覚馬みたいな人でした。
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南摩 綱紀(なんま つなのり)
旧会津藩士、教育者。
南摩家は元下野国南摩城主であった。
会津藩においては家禄300石の上級藩士であったが、綱紀は次男で当主ではない。藩校日新館に学び、秋月悌次郎とともに秀才として知られた。昌平坂学問所に留学し、その後洋学も修めている。
幕末には京に設けられた会津藩洋学校の校長として藩士の教育にあたっていたが、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により京都守護職を務めた会津藩は江戸に帰還。南摩は藩士数人と大坂に留まり、情報収集にあたっている。会津に帰還後奥羽越列藩同盟の結成に尽力。同盟各藩との連絡、調整に努めていたが敗戦を迎えた。
越後高田藩で謹慎し赦免後は淀藩に招かれ藩学の責任者となった。次いで京都中学に勤務。漢学者として名声があった南摩は明治政府に招聘され、太政官に出仕し次いで東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任した。宮中講書始において2度進講を行っている。


さて、鎌倉街道は国渭地祇神社前を進むと、西大家駅横の踏切を渡りますが、その先の街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。

踏切(電車が通過中)
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踏切を渡ると、舗装された広い道は右手にカーブしていくのですが、それは鎌倉街道ではなく、鎌倉街道の遺構に、川が流れてしまっているとのことです。
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その先はどうなっているか気になって辿ってみると、100mほど小川だけだったのが、小川の横に道ができました。一応この道が鎌倉街道ということになるのかな。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html







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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

「國渭地祇」、私ではとても読めないです。境内の面積はともかく、写真を見た限りでは、「村社」と言う感じですね。南摩綱紀って人、初めて聞いた名前ですが、ここに石碑があると言うことは、もしかして、しばらくはこの辺りに住んでいたと言うことでしょうか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
碑文には、「大我井文庫」という名もありますから、
この大我井とは熊谷市にあるものではないかと。
こちらに住んだのか、こっちの人たちが東京に学問に
出たのか、どっちかでしょうね。
この神社と、この碑をむすびつけての記事は見当たらないのです。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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