北野天神内(延喜式内社物部天神社・延喜式内論社国渭地祇神社)/埼玉県所沢市

20131219

住所:埼玉県所沢市小手指元町3-28-29

12月12日(日)、坂戸の國渭地祇神社から当社に向かいました。
鶴ヶ島から入間まで圏央道を使い時間を稼ぎ、入間・所沢線を走って現地に到着。例によって近くの学校をナビに入力したので、スムーズに行くことができました。

駐車場のある、西側の参道もなかなか奥が深く格調の高い神社を思わせました。
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境内に入ると、メインの参道があることがわかったので、そちらに回りました。
社号標
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「物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社」の総称として「北野天神社」と呼称されます。
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この社は社伝によりますと景行天皇の御代に日本武尊が東征の折りこの地にニギハヤヒ・ヤチホコの二神を祀り、物部天神・国渭地祇神として尊称したと伝え、古来武藏国の延喜式内社入間郡五座の一つに数えられていました。その後、長徳元年(995)に菅原道真五世の孫修成が武藏守となって武藏国に下向し、この地に京都の北野天満宮を祀ったので以後北野天神と称せられるようになったそうです。
その後、源頼義、義家、奥州追討の宿願によって、総社を建立し、更に建久6年9月に源頼朝が正八幡宮を勧請して、総て九社を修造し、同時に一宇を建立し延喜式内の諸神を祀り諸神堂と称し、この時の大宮司は上毛野元重、社領は二百貫文増加され二千二百貫文になりました。
その後、建武・延元の戦乱に兵火に罹り、延文元年足利尊氏が諸社を建立しましたが、再び罹災し、後に加賀守大納言利家公が社殿を再興し、菅公御自筆の法華経、宗近の太刀、黄金二百枚を献納し、武運長久を祈り、境内に梅一本を献栽したので、今も大納言の梅として保存されています。
徳川幕府になって、家康は、宮司栗原右衛門太郎を召出し、伊勢守(社寺を管理する神官)に任じ、繁栄したと記されています。
境内は、現在よりはるかに広く、多くの末社諸神堂があり、天保年間の天神社絵図によりますと、東西及び北側に二十五社描かれております。

道路より上に上がると、一の鳥居です。
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「北野宮」の社額
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それから少し進むと二の鳥居
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参道の両側には、奉納金の石碑が並びます。
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庭に出ました。
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手水舎
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彩色された彫刻が綺麗です。
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手水鉢には、すっぽりと金網がかぶせてある。鳥の害でもあるのだろうか。
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拝殿に進みます。
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寛政3年(1791)の立尾型の狛犬、貌がいいですね。
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ご祭神は櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、物部天神社)、八千矛神(やちほこのみこと、国渭地祇神社)、菅原道真公(すがわらのみちざね、天満天神社)です。
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物部天神社というのは、私は初めてです。古代日本有数の氏族で、邪馬台国を主宰したともされる、物部氏ゆかりの神社ですね。

拝殿でお参り。
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神紋は「加賀梅鉢」ですね。京都の北野天満宮は「星梅鉢」なので異なります。前田利家が再建したからでしょうか。
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拝殿の後ろに本殿があります。
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本殿は安永年間(1770年代)の建築で、拝殿・幣殿は平成6年の建物。
本殿のほうが古いのですが、立派です。
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松の飾りのついた綺麗な懸魚です。
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波の装飾が見事ですね。
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格式を感じさせる造作です。
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神楽殿
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境内社に移ります。
「諸神宮」
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説明を読んでのけぞりました。延喜式内社3132坐総社を勧請するなんて(汗)
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「文子天神社(はた神様)」
摂社の文子天神社は多治比文子を祀る。養蚕糸繰機裁縫の神として崇敬されている。
多治比文子について調べてみました。
生年: 生没年不詳、道真の乳母という説、巫女という説があります。
奇子,綾子,あや子とも書く。北野天満宮の創祀者。
天慶5(942)年に天神(菅原道真の神号)は文子に都の辺の右近馬場のある北野に社殿を構えて祭祀すべきと託宣した。しかし身分の低かった文子にはこれは容易ではなく,とりあえず自分の邸内に仮の叢祠を作り祭祀した。5年後の天暦1(947)年にようやく北野に移建した。同9年には近江(滋賀県)比良の神官良種の7歳の子にも託宣があったのを契機に,朝日寺の僧最珍(鎮)らと共に力を併せて霊祠を造営した。
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「八雲社」
祭神は建須佐乃男命。
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「稲荷社」
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「石宮神社・水天宮」
石宮神社というのは、出雲などで巨石をご神体としている。うかつなことに周囲をよく見なかったのだが、大きな石は無かったのでは?
水天宮も合祀されているが、これも祭神は色々ある。もうちょっとよく調べればよかった。
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「小手指神社」
日清日露の戦役からの戦死された方をお祀りしています。
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そして、その前に「航空神社跡」という標識があります。
境内の反対側にも「建空神社」という石柱があり、社殿が見当たらなかったので宮司さんにお伺いしたところ、説明してくださいました。
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昭和13年6月以来、現狭山市の入間基地の場所には、空軍士官学校がありました。そこに空の守り神として「航空神社」と「建空神社」があったわけです。終戦で米軍が進駐してくるので、当時宮司を務めておられた栗原亮介氏は、ここ北野天神の宮司も務めていたので、戦没者4950柱と共にここに遷宮したのだそうです。
その後、昭和40年諸般の事情により、航空自衛隊奈良基地幹部候補生学校教育参考館に4900余柱の名簿と同霊名碑は奉安されたのだそうです。

次いで、石碑に移ります。
「北野地名由来の碑」
先に説明のように、菅原道真五世の孫修成が武藏守となって武藏国に下向し、この地に京都の北野天満宮を祀った経緯と、そのためこの地が「北野」と呼ばれるようになったことを説明しています。
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「宗良親王遺跡」
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境内にある説明板には、「小手指ヶ原合戦」とありますが、通常これは新田義貞と鎌倉幕府との戦いを云い、宗良親王がからむのは「武蔵野合戦」だと私は教わっています。
当時、ここが宗良親王の御陣所だったそうです。
鎌倉幕府滅亡後の正平七年(1352)に南朝側の義貞子息義興と義宗・脇屋義助の子息義治らが北朝足利尊氏の軍勢と「武蔵野合戦」を行いました。
武蔵野合戦とは、尊氏派と直義(尊氏実弟)に分裂した北朝の混乱を狙った新田・脇屋軍は鎌倉陥落後に潜伏していた北條高行(高時の弟)と共に上野国で挙兵して鎌倉に進軍。後醍醐の皇子・宗良親王も信濃で挙兵したため尊氏は鎌倉を出て迎撃し、小手指~狭山一帯で戦った。敗れた新田勢は迂回して鎌倉を占領するが奪還され越後に逃亡、北條時行は龍ノ口で斬られた。以後の南朝側が勢力を回復する事はなかった。

ここで詠んだ宗良親王の歌
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実は、富山県の「井口城址」にも宗良親王の歌碑があります。それでちょっと宗良親王には思い入れがあります。

背景の紅葉が綺麗だったので、それに合わせると碑は黒くつぶれてしまいますが、載せておきます。
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左木全の「芸道碑」がありました。
この辺で生まれ、育てられたようです。以前、三ヶ島の中氷川神社の記事で、歌人の三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の歌碑を紹介しましたが、碑の裏の説明によると、三ヶ島葭子は左木全の異母姉だそうです。
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境内に日本武尊御東征の折のお手植、「尊桜(みことざくら)」。4度目の蘖生(ひこばえ)といいます。
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前田利家献栽、「大納言梅」
天正18年、菅原道真の子孫だと云う前田利家は小田原攻めの折当社に立寄ったが当社は幾度かの戦乱兵火により灰燼と化していたので社殿を再興、1本の梅を此処に献栽して武運長久を祈願した」とあります。
前田利家の先祖が菅原道真という話は初めて聞きましたね(笑)
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これで「武蔵国入間郡」の延喜式内社5坐に比定されている、式内社・式内論社9社を全て廻りました。


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

地図を調べてみると、小手先駅と西武球場前駅の間にある神社で、社域も結構、大きい感じですね。参道も結構、長そうですし。

物部天神社と言うのは、何だか、滅ぼされた2人、すなわち、物部守屋と菅原道真の2つを祭っているような名前ですね。でも、物部氏と言えば、物部守屋が蘇我氏に殺されてしまったので、彼を含めた全体が死んでしまったような印象がありますが、実際は、かなりの人達が生き残っていて、石上氏に改名したりしていたのですね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
このお宮さんは、境内にとても色々なものがあって、
すごかったですね。

物部氏というのは、当時二大巨頭の一つですから、
すそ野は大きいですよね。
だから、かなりの残存勢力だったと思います。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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