シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」

20140130

1月25日(土)に大宮ソニックシティで行われた表題のシンポジウムを聞いてきました。
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非常に中身が濃い講演が続いたので、初心者の私としては出てくる話に圧倒されました。
その中から、埼玉古墳群の全体像について、謎も含めて大雑把には整理できたかなと思いました。
その点を抜粋して掲載します。

[基調講演]
「埼玉古墳群の謎 一稲荷山から将軍山へ-」
講師:大塚 初重氏(明治大学名誉教授)

この日、以下で報告される各研究の全体像の話でした。
「埼玉」の説明から入りました。
万葉集には「佐吉多方(さきたま)」あるいは「前玉(さきたま)」とありますから、「さきたま」と呼ばれていたことがわかります。また平安時代の『倭名類衆抄』には「佐以多万(さいたま)」とありますから、古代から両方の読み方があったこともわかります。

埼玉古墳群
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私にとっては、これだけの規模の古墳が、わずか150年の間に築造されたのが驚きです。

以下研究報告が続きました。

「埼玉古墳群とは?」
講師:高橋一夫氏(埼玉考古学会会長)

武蔵国造の乱:『日本書紀』安閑天皇元年(534年)、笠原直使主と笠原直小杵は武蔵国造造の地位をめぐり争っていました。安閑天皇元年、小杵は上毛野君小熊の力を借りて、使主を殺害しようとしましたが、これに対して使主は大和王権に助けを求め、大和王権から武蔵蔵国造であることを認められ、小杵を誅しました。
武蔵国造の乱の後、①横渟(よこぬの)屯倉(比企郡吉見町に比定)、②橘花(たちばな)屯倉(川崎市・横浜市東北部に比定)、③多氷(おおひ)屯倉(多氷を多木の誤記として多摩地域に比定)、④蒼樔(くらすぼ)屯倉(倉樔を倉樹の誤記として県横浜市南部に比定)の4屯倉を朝廷に献上。
ア、 武蔵国造の乱の広域説:横停屯倉の以外は南武蔵の領域であるので、武蔵国造職を争ったのは南武蔵(胸刺)と北武蔵(元邪志)の勢力で、南武蔵の勢力が敗れたと考えることもできます。
 ⇒ 「武蔵」に統一。
イ、武蔵国造の乱の狭域説:埼玉古墳群を造営した一族の争い。方位A・C系列と方位B系列。
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大和王権との関係:
造出のある前方後円墳:全国で124基。
300m以上4基、200m以上18基、100m以上50基、80m以上18基、50m未満10基。
最大:大阪・大仙古墳(伝仁徳陵古墳)486m、
細小:茨城・宮中野97号墳32m
関東の造出のある前方後円墳:埼玉6基(埼玉古墳群のみ)茨城4基、群馬3基、千葉1基、
全国造出数ランク:大阪31基、奈良17基、宮崎8基、岡山8基、三重8基、
埼玉は6基で全国第6位
⇒埼玉古墳群は大和王権と密接な関係にあった。
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稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の乎獲居(ヲワケ)は畿内豪族かさきたまの豪族か
(1)稲荷山古墳の被葬者に関する見解
第1説:乎獲居は、大王が天下を治めるのを補佐した畿内豪族であったが、東国に派遣され稲荷山古墳に葬られた。
第2説:乎獲居は畿内豪族で、杖刀人として上番した北武蔵の豪族の子弟が杖刀人である乎獲居に仕え、乎獲居から鉄剣を与えられた。
第3説:乎獲居はさきたまの豪族で、被葬者も同一人物。
(2)考古学的には
 ア、獲居が東国に派遣された人物なら第1被葬者であってしかるべき。また、周辺の遺跡の状況から、稲荷山古墳の被葬者は広大な沖積地の開発に成功した在地豪族と考えられます。
 イ、辛亥銘鉄剣の所有者は最初に葬られた人物ではないことから、初葬者の子弟と考えるのが妥当です。
 ウ、地方豪族が大王を補佐する杖刀人首となる可能性は少ない。


「王の象徴 一装飾大刀-」
講師:瀧瀬芳之氏(公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長)

 稲荷山古墳から発見された金錯名鉄剣の銘文の内容から、稲荷山古墳の礫榔の被葬者が、時の畿内政権と主従関係を結んでいた人物、少なくともその親族である可能性は高いと考えられます。そしてこの畿内政権との太いパイプは、稲荷山古墳の被葬者の子孫(あるいはその後継者)にも受け継がれ、維持されていたことは想像に難くありません。そうでなければ、この地に武蔵国最大の前方後円墳(二子山古墳)を含む大規模古墳群が形成されることはなかったでしょう。将軍山古墳に複数の装飾大刀が副葬された理由もそこにあると考えられます。伝統的な倭風大刀である楔形柄頭大刀は、畿内政権との同盟や、畿内政権への服属を誓ったあかしとして佩用を許されたのではないでしょうか。
 三葉環頭大刀をはじめとして、将軍山古墳には、馬胃や蛇行状鉄器など朝鮮半島製の副葬品が含まれています。こうした文物は、朝鮮半島の諸政治勢力から贈与・賜与されたもので、畿内政権と地方有力首長で構成される「倭政権」が、朝鮮半島との諸勢力と交渉する場面において、対外的な身分標識の役割を担っていたと考えられています(内山2013)。この仮説が成り立つならば、将軍山古墳の最初の被葬者は、倭政権の一員として対外交渉に関わる要職についており、三葉環頭大刀はその身分を表す重要なアイテムだった可能性があります。
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「騎馬の風習と馬具」
講師:宮代栄一氏(朝日新聞社編集委員)

宮代氏のこの内容の講演については、「さきたま講座」でより詳しく聞いています。
当ブログで2013年11月5日の記事にしています。
下記クリックでその記事に移行します。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1334.html

特に馬胃については、日本国内での発見例は和歌山市大谷古墳と埼玉県将軍山古墳の2例のみだったのですが、2013年(平成25)に福岡県古賀市船原3号墳から馬胃が発見されたので、計3例になりました、と説明がありました。
貴重なものです。


「古墳と須恵器」
講師:酒井清治氏(駒澤大学教授)

型式の分かる須恵器から推定した古墳群の変遷は、稲荷山一埼玉2(梅塚)一二子山・瓦塚→奥の山一将軍山一鉄砲山→中の山古墳と考えられます。

須恵器は朝鮮半島から伝わったため、最初は西日本で作られており、大阪府堺市陶邑窯跡群や名古屋市東山窯跡群が知られています。埼玉県では6世紀前半の桜山窯跡が最初に操業されます。
埼玉古墳群の須恵器の産地は、陶邑窯を中心とした畿内と、東山窯の東海西部、静岡と三河の一部を含む東海東部、群馬を中心とした北関東、埼玉県内の地域が推定されます。
埼玉古墳群の須恵器は畿内・東海の製品から、北関東の製品に変化していくようです。その変化は6世紀中頃にあるようで、須恵器から見るならば群馬との関わりがより濃くなっていくようです。
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「鉄剣銘文と豪族」
講師:塚田良道氏(大正大学教授)

古代系図と稲荷山鉄剣
埼玉稲荷山古墳の礫榔出土の鉄剣銘文にも、上祖オホヒコから鉄剣を製作したヲワケまで八代の人名が記されていますが、そこにもオホヒコを除く七つの人名の頭に「其児」という表記がついています。そして、ヲワケまで「世々杖刀人」の首であり、雄略天皇と考えられるワカタケル大王の朝廷が大和のシキにあったとき、練りに練った鉄剣を作り自らの「奉事」の根源を記した、と代々の職掌を明記しています。このように「児」でつなぐ人名表記、さらに杖刀人としての「奉事」を示す銘文の書き方は、縦線こそないものの、『海部氏系図』ときわめてよく似ています。古代の系図を研究した溝口睦子さんは、古代の氏族系図(あるいは文章による系譜)に共通する特徴が、一つには血統の表明であり、もう一つには職掌、すなわち大王への奉仕の表明であると指摘しており(図2)、そのような観点から見れば、鉄剣銘文はまさに古代の系図としての内容をそなえています。
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古墳と系譜意識
埼玉古墳群の前方後円墳の形も検討してみると、稲荷山古墳(長さ120m)の形は大阪府堺市の大仙古墳(仁徳陵古墳・486m)の四分の一サイズであり、近畿地方の巨大古墳の相似墳の可能性があります(図7)。ただし稲荷山古墳の場合、墳丘を囲む堀が二重の方形のため、大仙古墳の盾形二重周濠とは異なり、そっくりそのまま踏襲したわけではないようです。この稲荷山古墳の形は、続いて築造された二子山古墳(138m)、そしてその後に築造された鉄砲山古墳(109m)にも受け継がれており、二子山古墳は稲荷山を一と八分の一倍、鉄砲山古墳は二子山を五分の四に縮小した大きさにあたります。つまり埼玉古墳群の全長百m級の大形前方後円墳は、そのいずれもが稲荷山古墳の形を基本にして、それを拡大、縮小して順次築造されていったと考えられ、おそらく歴代の首長の象徴としてこの形が踏襲されていったのではないかと思われます。
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現在私の中では、古代特に古墳時代がマイブームとなっています。
このシンポジウムのタイトルのように、謎が多いのがまた面白く、魅力となっています。
去年から、埼玉古墳群のある「さきたま史跡の博物館」で開催される「さきたま講座」に通っていますが、これからも古代の魅力を追いかけていくつもりです。





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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

講演の話、読ませていただきましたが、みんな大和政権論者みたいですね。もう少し、別な論者も入れれば面白いのにと思いました。

さて、高橋一夫氏の話ですが、前方後円墳があることが大和政権との関係を示していると言うのであれば、もっと、大和に近い地域、例えば、現在の名古屋とか静岡とかにも沢山ある筈なのに、これらにほとんど無いのに、突然、埼玉県に現れると言うのは不自然過ぎると思います。やはり、埼玉は埼玉で独立していたと言う方が余程、自然だと思います。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
説明を聞いていると、大和政権との関係は強かったのだと
思うようなものでした。
私は初心者なので、感心して聞いているだけですが、
都合が悪いデータがあるのか無いのか、
その辺もまだよく知らないので。
だから、私の受け取り方は、各論のうちこういう意見だ、
とは思うようにしています。
もともと考古学はほとんど推定だとは、思っていますが。

辛亥は531年だ

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

むらかみからむ様

コメントありがとうございます。
とても長文のコメントで、非常に驚きました(笑)

熱意が感じられ、書き込まれた文書に敬意を表します。

色々な記事に書いておりますように、
古代に関しては、きわめて駆け出しでして、
「古事記」すらまだ半分も理解できていないと思っています。
まずは、それを全うしたいと考えています。

このブログを見ていただけるとわかりますが、
私は浅く広く、色々なことを趣味として楽しんでいます。

今回貴殿が書き込みされたような、深堀りが私に出来ます事か
どうか、とても不安に思いました。




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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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