シンポジウム「東国武士の精神世界」

20140203

昨日、2/2(日)に埼玉県立嵐山史跡の博物館主催の、表題のシンポジウムを聞いてきました。サブタイトルは「いくさととむらい」です。
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例によって、こういう経験をしましたという記事なので、正確に全体像を述べるものではなく、私がここで取り上げたいと思った事だけを述べますので、偏った記事になっていること、ご了承ください。

基調講演
【中世東国武士の信仰の風景】
講師:國學院大學 千々和到氏

講師の方は、アマゾンで検索すると、下記の本を出されている。
「板碑と石塔の祈り」
「日本の護符文化」
「板碑とその時代―てぢかな文化財・みぢかな中世」
従って、板碑については相当研究をされた方だ。

○吉見町の「おねんぼうさま」と呼ばれる板碑
現世安穏、後生善処の願いの板碑だが、ちょっとおかしな漢文に素朴な祈りを感じる。
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○東松山市正代・靑蓮寺の板碑
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蒙古襲来の頃、武蔵から肥後・野原荘の地頭職に任命された、小代氏の仁徳を慕って諸衆が合力して建立したもの。

小代文書
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最初はほとんど読まれなかったが、多くの人の努力で少しずつ解明している。
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○入間市元加治・円照寺の板碑
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加治氏の系譜と歴史がつながる。速い段階で銘文が注目され、国指定となった板碑。
加治氏は、ご家人から「御内人」となった一族で、幕府の内部抗争(嘉元の乱)で犠牲者(加治光家)が出ている。また、幕府滅亡に殉じたと推定される。
家に帰ってから「中世武蔵人物列伝」という本で、加治氏のことを調べたら、この板碑のことが載っていたので、転載しておきます。
 入問市野田の円照寺には加治氏に関係する板碑が残されている。そのなかでも、元弘三年五月二二日銘の板碑は、鎌倉幕府と運命をともにした加治家貞の供養塔とされるものである。
五月二二日は北条一族が東勝寺にて自刃した日であり、鎌倉幕府最後の日である。家貞が高時らとともに自害したという記録はないが、この板碑は我々に、記録に残らなかった史実を教えてくれる。
また、この板碑は禅僧の無学祖元の「臨剣頌」が刻まれるなど、禅宗の影響を受けた板碑として有名である。無学祖元は鎌倉時代に、北条時宗の招請によって来日し、円覚寺(錬倉市)を開山した僧で、「臨剣頌」は、祖元が元兵によって斬首されようとしたときに唱えたと伝わるものである。加治氏関連の板碑には他に、「碧巌録」から引用された偈を刻むものもあり、加治氏の禅宗に対する知識の豊富さを知ることができる。おそらくは、家貞自身も高い教養をもつ、知識人であったと推測される。

【下里・青山板碑石材採掘遺跡群】
講師:小川町教育委員会 高橋好信氏

私は、板碑の生産については長瀞しか頭になかったので、新鮮だった。
武蔵型板碑の石材の発掘から板碑形に成形した素材の生産と供給までの仕組みの一端が解明されたのは素晴らしいと思う。

板碑石材採掘遺跡の分布
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板碑石材採掘遺跡の状態
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岩から板碑の素材が切り出される作業が、この写真でイメージされた。
板石に矢穴が残っている。
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【板碑製造技術の考古学的復元】
講師: 石川県埋蔵文化財センター 垣内光次郎氏

板碑製造に関する技術を、類似性が高い硯生産の技術と比較することで、その生産工具を推定し、採掘・切断・整形・彫刻の技術を、民俗考古学による硯生産の調査と実験考古学の成果から復元した成果の発表だった。

①中世に普及した石造物のなかで板碑生産をみると、採掘、彫刻などの技術は、硯を製造した技術グループとの類似点が多く、技術史上は同一の系譜に位置づけできる。
②その生産技術は、赤間関硯など中世から伝承される肩押ノミの用法など、硯生産の技術と工具等の考古学研究から復元可能な段階にある。今後、生産と流通を具体的に解明するためにも、資料の実測化と観察が必要である。
③板碑の製造は、生産を担った石工の作業空間と動態に基づき、石山(産地)では丁場と工房での生産、出職による短期的な一貫生産、消費地における荒型からの生産に分けて復元する必要がある。また、流通を研究する時も、これに基づく整理と分析することが求められる。
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板碑製造職人は、13世紀前半に畿内の石工が移動・定着し、製造の指示は密教系の僧侶が行ったのではないか。

板碑のなかに、頭部を石切ノコで切断した一群がある。
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整形には、平ノミであるタガネと肩押しノミの両方が利用された。
肩押しノミ
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キリークの彫刻実験
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【中世石工の活動】
講師:国立歴史民俗博物館 村木二郎氏

石造物に関しては、12世紀末の東大寺復興に際して招聘された宗人石工が先がけである。

東大寺石獅子
伊行末(いのゆきすえ)の作品
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般若寺笠石塔婆
花崗岩、 塔高が約470センチと巨大なもの。
石工の伊行吉が亡父・伊行末の一周忌となる弘長元年(1261)7月11日、その供養と、生存中の母の来世安穏を祈って造立したものであること知られる。
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関東では、記念碑的存在であるのが「箱根宝篋印塔」である。
永仁4年(1296)、大和の石工・大蔵安氏が僧・忍性に見込まれ、関東に移って来た。
安山岩、高さ 265Cm
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石切の技術では、大和額安寺宝篋印塔の基礎部分に矢穴の跡がある。
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講演は以上であった。
板碑の製造については、今まで漠然と想像していたものが、具体的なイメージを得られたので良かった。
一方で、サブタイトルから期待した、中世の武蔵武士(武蔵七党)の中でで主だった武士と関連する板碑の話を期待したのだが、こちらがサッパリだった。

資料の中で、板碑の分布についての図が示されているのに、この番号に該当する武士の名前が示されていないのが残念。
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板碑については、今まで出会ったものを調べている段階。
改めて、全体像を知りたくなった。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

頑張っていらっしゃいますね!!

板碑は好きですが、何であのように薄くする必要があったのかがわかりません。勿論、厚くすれば、板碑ではなくなるのは十分にわかっていますが。普通の倍の厚さがあれば、割れにくくもなると思うのですが。やはり、石の性質なのでしょうか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
厚い岩から。割って何枚かの素材にしているようです。
講師の方が云っていましたが、ずいぶんと石を無駄にしている。
採石・加工場に残っている大量の破片です。
職人魂なのか、僧侶の研ぎ澄まされた考えなのか、
薄くするフォルムこそ、命だったみたいですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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