上野寛永寺・徳川霊廟特別拝観

20140301

歴史クラブで親しくしていただいている方から、表題の件で、行きたいのだが5人以上の団体でないと申し込めないので参加者を集めて欲しい、との依頼があり、メールリストを使って募集したら14名集まり、2月26日拝観となりました。
前記事のように、午前中亀戸天神で梅を見てから上野に移動しました。当初は鶯谷駅から行く予定だったのですが、時間に余裕があったので上野駅で降り、上野の山を散策しながら移動し、早目に会場の根本中堂に着き、境内を見て回りました。
この「根本中堂」は初めてでした。
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根本中堂は、以前は国立博物館の前の大通りの噴水の場所にあったそうです。
皇子を山主に迎え、日光輪王寺、比叡山の山主も兼ねたため、寛永寺の権威はすごくて、比叡山の根本中堂に肩を並べる立派なものだったらしい。
しかし、幕末維新彰義隊の戦いの後、警護する官軍の兵士が「こんなものがあるから俺たちは寝ずの番をしなければならないのだ」と火をつけて燃やしてしまったという。
これは当の兵士の書いたものが残っていて確かなことらしい。

で、今の建物は川越の喜多院からは運ばれたものだと説明を受けてビックリしました。

名僧・了翁禅師の塔碑・坐像
霊薬「錦袋円」の処方を夢に見て、不忍池付近の薬屋にて販売、その利益で難民救済、寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行った。
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尾形乾山墓碑、乾山深省蹟
乾山没後いつしか墓の在処も忘れ去られてしまい、酒井抱一の手によって探し当てられ、顕影碑である「乾山深省蹟」も建てられた。
ここにあるのは、有志によって復元建立されたもの。
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虫塚
伊勢長島藩主「増山雪斎」が写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるために建てたもの。
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彰義隊戦争の戦火を逸れたものも幾つか残っています。
「瑠璃殿」の勅額(東山大皇御宸筆)
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左右の大水盤2基
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四代将軍家綱公御霊廟の梵鐘
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左右二基の銅灯篭も立派なものでした。
笠蕨手に龍、火袋に天女、中台に龍、基礎格狭間に獅子。
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鬼瓦
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撮っていたら飛行機が(笑)
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時間になり、根本中堂の中に入り、まずはお坊さんの寛永寺についての説明を聴き、本尊に般若心経でお参りしました。
お坊さんの説明は、ちと長かったけれどとても分かりやすくて為になりました。

根本中堂須弥壇には、本尊の薬師如来三尊を中心に、四天王、十二神将が並び、壮観でした。
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根本中堂裏手にある「慶喜公謹慎の間」も拝観しました。
上方から江戸に戻った慶喜は、一か月の間幕閣の議論を聴取したあと、一意謹慎を決意し寛永寺に入る。江戸の行く末を見届けたいと思い、江戸城の無血開城の日までここに留まり、この日早暁水戸に向かわれた。
外観。渡り廊下の右手の平屋。
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いよいよ徳川霊廟です。
4代家綱公の墓所もありますが、こちらは今回は見られませんでした。
配置図
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徳川綱吉霊廟勅額門
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霊廟は、やはり広くて、アプローチが長くて、立派なものでした。

五代綱吉公宝塔と八代吉宗公宝塔
幕府の財政がまだ潤沢だった綱吉の時代とそろそろひっ迫してきた吉宗の時代とで、やはり宝塔の出来が違っている。
吉宗の霊廟が綱吉の隣にあるのは、紀州徳川家で幼年の時代四男だった吉宗は、綱吉が紀州家を訪れた際お目見えから外されていた。綱吉が「まだ子供が居たのでは」と云い出し、吉宗もお目見えが叶い褒美も頂戴した。
その時の恩を吉宗は忘れず、自分の墓は綱吉公の傍にと遺言したそうである。
寛永寺パンフレットから
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天璋院篤姫墓所
大河ドラマの影響で、私もこの人のファンです。
家定公の隣にありますが、実はこれはそれまでのルールからしたらあり得ない事だそうです。
将軍の正室といえども、墓は谷中か伝通院などに設けられた。
慶喜が去ってしまった徳川宗家を守るため6歳の十六代家達公の養育に余生を捧げ、徳川家のために生涯を捧げた篤姫に対し、家達、勝海舟などの計らいで、既に明治になっていたこともあり、ここに眠れることになったそうです。
勅額門前説明板の写真
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十代嫡子家基公墓所
案内のお坊さんは、ここは素通りしましたが、私は遠くから手を合わせました。
ここにお参りできたのが、私にとっては一番嬉しかった。
このブログでもずっと記事にしている、佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』がありますが、主人公の磐音は将軍家の陰の警護役「佐々木道場」の養子となり、家基の指南役も務めます。嫡子家基は聡明でそれまでの側近政治を改め自ら政治の改革に意欲を燃やします。
それに対し田沼意次は、家基の代になったら田沼家の権勢が終りを告げると危惧し、家基を暗殺してしまいます。
佐々木道場は取り潰され、養父夫妻は自害、田沼の刺客から逃れるため磐音はおこんと共に江戸から逃避行の旅に出ます。

拝観が終り、鶯谷駅に向かうときに霊廟をかこむ石垣が良く見えました。
この石垣は、江戸時代に無かったもので、板塀に囲まれ警護の侍が居ました。維新となり、そういう訳にはいかなくなったので、荒らされるのを防ぐため勝海舟が築いたものだそうです。
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

寛永寺ですか、あそこは私にとっては、春の桜と秋の紅葉を撮るお寺ですね。東京国立博物館の裏庭の桜、両大師の枝垂れ桜、そして、寛永寺の染井吉野桜と言う訳です。あ、小さな枝垂れ桜もあったような気もします。

尾形乾山や酒井抱一って琳派の人達ですよね、何回か、美術館で彼らの作品を見たことを思い出しました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
さすが、matsumoさんですね。
なるほど、桜ですか。
私も無類の桜好きですが、上野の桜は撮ったことが無いですね。
広小路の、あの酔っぱらいのイメージがあるから(笑)

寛永寺も私は初めてでした。
本当に、寛永寺の旧領域は広いですよね。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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