磐井神社(延喜式内社)/大田区大森

20140311

住所:東京都大田区大森北2-20-8

3月9日(日)に、武蔵国荏原郡・二坐、現在は式内論社合わせて6社のうち、残り二社「磐井神社」と「御田八幡」にお参りしました。
磐井神社は京浜急行の大森海岸駅から第一京浜沿いに5分くらいのところにあります。
神社の前に到着すると、旧東海道(第一京浜)傍に「磐井の井」があります。東海道を行く旅人の喉を潤した井です。昔は境内にあったが、国道拡張に伴い境内が削られ歩道に存在するようになった。
「荏原風土記」では「伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる」という霊水と記されています。
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旧東海道(第一京浜)大森海岸駅方面
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社号標
式内社 武蔵國荏原郡 磐井神社 旧郷社
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磐井神社入り口
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鳥居のところに、神社由緒の石碑があります。
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磐井神社略記
当社は、人皇三十一代敏達天皇の二年八月始めて経営あり、神座の正面にいますは、応神天皇、左は大己貴命・仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】あり、伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其效を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり。
其後五十六代清和天皇の貞観元年に、六十余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひし時、武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す、萬葉集に、アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、御神宝に、【鈴石】有り、此石は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海にて得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き玉ふ、又御凱旋の日は御産屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を以て、此石を如意の宝珠と御称美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿、当国に守りたし時、神勅に因り当社に奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せしも、亦た此鈴石あるを以て也。
当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄六百八十年間は、神威赫然として宮中繁栄たりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。其後再営の功成つて復た昔日の如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼失し、是より再修ならず、神威日に衰へ、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺して漸く社のみわずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等悲歎に余り、社を再興す、天正十八年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり、其後元禄二巳年三代将軍家光参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付ける。
享保十巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、近くは明治元年十月十二日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延胤をして、当社へ御代参せしめられ、奉弊料金千匹御奉納ありたり。(荏原風土記稿磐井神社由来)

手水舎
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参道両側に石灯篭、狛犬が並びます。
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明治四十〇年の石灯篭
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明治14年の炎尾型狛犬。
阿吽両方とも三頭の子犬を連れているのが珍しい。
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拝殿
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御祭神は、正面に應神天皇、左に大己貴命、仲哀天皇、右に神功皇后、姫大神。

拝殿扁額には「武蔵国八幡總社 磐井神社」とあります。
社伝によると、貞観元年(859)、宇佐より山城国石清水へ八幡大神が勧請された時、六十州ごとの総社八幡宮を定め、当社が武蔵国八幡総社と定められたという。
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社宝の「鈴石(すずいし)」と「烏石(からすいし)」。いずれも非公開。
大田区の文化財ページから。
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鈴石は神功皇后が長門の国の浦の浜でこの石を発見し、紆余曲折を経てこの社に納められたものだといわれ、大田区の文化財に指定されている。転がすと鈴の音がするというので江戸初期の頃に有名になり、鈴が森の地名はこの名に因んだものだと伝えられる。
烏石は、山の形をした自然石の上部に、墨で書いたような烏の形をした模様があるところからこの名が付けられた。もとは鷹石と呼ばれて麻布にあったが、松下烏石という人が移した。

神紋は「右三つ巴」
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拝殿前左右にある鉄製、昭和3年の天水桶。
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社殿は権現造り。
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本殿
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神楽殿
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社殿向かって右側に江戸文人石碑群があります。
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烏石の寄進の由来を記した烏石碑。元文六年(1741)
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竹岡先生書学碑。寛政八年(1796)
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㣭(=退)筆塚。天明六年(1786)
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狸筆塚。文化六年(1809)
狸が彫ってある。神社でもなぜ狸なのか不明だそうだが、筆に狸の毛が使われたことに因んだものかもしれない。
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筆塚二つは、文人たちが使用済みの筆を埋めた供養塚(何れも大田区の文化財)。

その前に置かれていて気になったのが、狛犬のような、そうでないような古い石像。
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境内社の「海豊稲荷神社」
名の通り、この地域の海が非常に豊かだったことが想像できます。
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笠島弁天社は、江戸時代には笠島神社と呼ばれていたようで、当時の祭神は、豊宇賀姫、猿田彦、菊理姫、天満宮、淡島、鹿島。池の中にあるため、弁財天となったのだろうか。
万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」という歌が、この笠島弁天社のことだそうです。
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向背に牙をむき出して、けっこう荒々しい獣の彫刻がある。
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境内には大きな木が沢山ある。
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ご神木の大銀杏。
樹齢300年以上の木が二本あり、ともに焼け焦げている部分があるが、これは昭和二十年(1945)の戦災で焼けたもの。
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ここは、文字通りの「絵馬」
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本殿のすぐ後ろを、ひっきりなしに京浜急行の電車が通ります。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

さすがに詳しく写真を撮られていらっしゃいますね!! ううん、東海七福神の弁天堂さえ撮れば、後はおまけと思っていた私は、3匹の子連れの狛犬、気がつきませんでした。

後、ダックスフントみたいな狛犬?、いいですね!

matsumo さん

コメントありがとうございます。
matsumoさんは、七福神廻り熱心ですからね。
植物的には、ここには目を引くようなものは、
全くありませんからね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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