上野三碑などを訪ねる

20140315

昨日、14日(金)に歴史クラブ行事で、群馬県高崎市にある「上野三碑」などを訪ねました。
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「上野三碑」は、古代石碑のなかで、古いほうから2位、4位、8位に位置し、この三つが古代の「多胡郡」に集中しています。
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7:30にバスで出発し、上信越道藤岡インターで降り、最初の目的地「山上(やまのうえ)碑」「山上古墳」に到着。

【山上碑】 【山上古墳】
所在地:高崎市山名町字山神谷2104

入り口に万葉集歌碑がありました。
万葉集 4-3402 手島右卿
「吾が恋はまさかも悲し草枕 多胡の入野のおくも悲しも」
私の恋しく思う心は現在も悲しいしずっとさきも胸のつまる思いです。
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長い石段を上がっていきます。
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まず山上古墳。
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この古墳は、飛鳥時代に作られ、山上碑にある黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものとみられる。
江戸時代、明和六年(1769)には石窟に馬頭観音が置かれ、多胡郡、緑野郡、北甘楽郡の三郡坂東の札所四番に選ばれたといいます。
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古墳の横のお堂のなかに「山上碑」があります。
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正面
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側面
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背面
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碑文
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読み方、現代語訳
(高崎市教育委員会パンフレット)
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山上碑は、完存するものに限れば日本最古の石碑として知られ、古代最大の内乱「壬申の乱」を征して即位した天武天皇の時代に造立されました。
 碑文は、佐野三家(さののみやけ)を管理した豪族の子女である黒売(くろめ)と、その子である長利(ちょうり)の系譜を述べたもので、隣接した山上古墳に埋葬されたとみられる黒売の追善供養碑の性格をあわせ持っています。
 三家(=屯倉)は、六世紀から七世紀前半にかけて各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことで、佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって設置されていたと推定されます。
 佐野三家は、現地豪族と中央から派遣された技術者によって経営されたとみられ、碑文では豪族の健守(たけもり)が屯倉管理者の始祖に位置づけられています。
 ところで碑文の「孫」は子孫に、「児」は子の意に解されます(義江明子説)。健守の子孫の黒売が、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣(現桐生市西部の新川か)の子孫大児臣(おおごのおみ 現前填市東部の大胡か)と結婚して長利が生まれたのであり、長利は碑文の起草時の自分の立場(放光寺の僧)を明記しています。
 彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土した前橋市総社町の山王廃寺だと推定されます。山王廃寺はこの頃、東国で最古・最大級の寺院だったことが発掘調査によって判明しています。当時、仏教は新たに伝わった先進の思想体系だったため、東国有数の名刹の僧であった長利は、相当な知識者だったはずです。その彼が名族の血を引く母と自己を顕彰し、母を追善するため、碑文を刻ませたのでしょう。
 山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、碑の造立に際しては当地の新羅系渡来人が深く関わったと推定されます。
 渡来人の知識層-主として新羅系の人々-が参画し、当時の日本の中でも高い文化度を誇っていたと考えられます。
(高崎市教育委員会パンフレット)

古墳の前にも万葉集歌碑がある。
万葉集 14-3402 大沢雅休
「碓氷の山を越ゆる日は 夫(せ)なのが袖もさやに振らしつ」
袖もはっきり見える程、ひどく振って峠を越えていった人、防人に旅立ったあのかたの最後のお姿だった。
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観音堂だったころの石仏でしょうか。
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したに下ります。
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入り口から30mくらいのところに、「来迎阿弥陀画像板碑」がありました。
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説明
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小さい丸窓が開けてあるので、覗きましたが、板碑が近すぎて部分的にしか見えません。
それでも阿弥陀如来のお顔はわかりました。
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山上碑から「金井沢碑」はバスならすぐ近くです。

【金井沢碑】
所在地:高崎市山名町金井沢2334

入り口
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入り口の横に、やはり万葉集歌碑が。
万葉巻 1-38 昭和午新秋雅休
「八隅ししわご大君かむながら 神さびせすと芳野川たきつ河内に 高殿を高知りまして登りたち 国見をすればたたなはる青垣山 山神之奉る御調と春べは花かざし 持ち秋立てば黄葉(もみじ)かざせり ゆきそふ川の神も 大御食に仕へ奉ると 上つ瀬に鵜川を立ちて下つ 瀬に小網さし渡す山川も 依りてつかふる神の御代かも」
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笹竹の間の小道を行きます。
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碑を納めた建物があります。
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正面
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側面
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背面
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碑文
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読み方、現代語訳
(高崎市教育委員会パンフレット)
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 金井沢碑は、奈良時代山側期の神亀三(726)年に、三家(みやけ)氏を名乗る氏族が、同族とともに仏教の教えで結びつき、祖先の供養、一族繁栄を祈るために造立した石碑です。
 三家氏は、山上碑に記された「佐野三家(屯倉)」を経営した豪族の末裔とみられます。碑文の冒頭に「上野国群馬郡下賛郷高田里(こうずけのくにくるまのこおりしもさぬごうたかだのさと」と刻まれていることから、その居宅は現在の高崎市南部、烏川東岸の佐野(賛)地区に存在したようです。
 しかし、本碑や山上碑は、その対岸にあたる烏川西岸(山名地区)に所在するため、佐野三家の領域および三家氏の勢力圏は、広く烏川両岸に及んでいたと考えられます。
 碑文には、続けて九口(人)の人名が刻み込まれています。彼らの関係はこれまで様々に解釈されてきましたが、近年では、願主で男性の三家子口(□は欠字)およびその妻1子1孫からなる六人の直系血族(うち女性四人)グループと、同族三人からなる既存の信仰グループが結びつき、この碑を造立したとする勝浦令子氏の説が支持されています。
 また碑文からは、大宝律令(701年)以後に定まった行政制度(国郡郷里制)の施行が確認できるほか、郡郷名を好字で二字に改訂することを命じた和銅六年(七一三年)の政令の実施も確かめられます。これに伴って、従前の「車」の表記は「群馬」(読みはそのまま「くるま」)の二字に変更され、今日の県名のルーツとなっています。
 なお、本碑の「群馬」の文字(碑では「羣馬」)は、在地において最古の「群馬」の用例となります。
 このように本碑は、古代東国の家族関係・氏族関係、仏教の普及と有力な仏教教団の成長、地方行政制度の実態などを知るうえできわめて重要な史料です。同時に山上碑・金井沢碑を相次いで残した佐野三家関係氏族の文化度の高さをよく示しています。
(高崎市教育委員会パンフレット)

建物の周りは竹藪でした。
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次いで、多胡碑のある「多胡碑記念館」に行きました。

【多胡碑記念館】
所在地:高崎市吉井町池1085

立派な建物です。
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最初に学芸員の方から説明を受けました。
多胡碑のレプリカの前での説明。
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多胡碑(レプリカ)
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読み方、現代語訳
(高崎市教育委員会パンフレット)
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 多胡碑は、中央政府からの命令で、上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡内から三百戸を割き、新たに多胡郡を建てたことを記念した建郡碑です。読み(東野治之氏の説)のように、建郡に際して「羊」という人物を郡司に起用したと解するのが主流ですが、「羊」を方位や別な字の略字とみなす学説もあります。
 碑文は、朝廷の左中弁正五位下の位にある多治比真人から上野国にあてて発行された和銅四(711)年三月九日宣旨の公文書を略記したとみられ、末尾には太政官の穂積親王、左大臣の石上尊(和銅四年当時は石上麻呂)、右大臣の藤原尊(同じく藤原不比等)など、政府高官の名を挙げて建郡を正統化していると考えられます。
 日本の正史である『続日本紀』和銅四年三月辛亥(六日)の条には「上野国甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を割いて、別に多胡郡を置く」とあって、多胡碑の記述と合致します。当時の規定では一郷は五〇戸からなるため、多胡郡の六郷の戸数と碑文の「三百戸」も一致しています。
 多胡郡の範囲は、現在の高崎市吉井地区から山名町一帯とみられますが、そこはかつて緑野屯倉や佐野屯倉など、ヤマト政権の直轄地が設定されていた領域と重なります。このため、かねてより中央との関わりが深い経済上の要地であったと考えられ、奈良・平安時代には、上野国有数の一大手工業地帯(窯業・布生産)に成長しています。このため、建郡にあたっては、その経済力に期待する中央の強い意思が働いたと推定されます。当時、朝廷は東北地方の蝦夷計略を進めており、その財源にあてられた可能性も考えられます。
 なお、多胡碑は地元では羊太夫伝説に彩られ、「ひつじさま」としても崇敬されています。また、中世・近世の文人・学者・書家の研究対象として長い研究の歴史を有しています。なかでも、江戸時代中頃には、朝鮮通信使を通じて中国にまでその書風が知られ、近代日本の書家にも大きな影響を与えました。
(高崎市教育委員会パンフレット)

記念館の壁に貼られた、各説の紹介。
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古代の碑のレプリカが集められていました。
一番左が、最古とみられる(大化2年以降)石碑「宇治橋断碑」
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多賀城碑
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古代から有数の布生産地帯であったことを示す、古代の紡錘車。
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文字を記した紡錘車
祭祀や信仰に用いられた。
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「泰山金剛経」(レプリカ)
中国山東省泰山の石畳に金剛経が刻まれたもの。
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「広開土王碑」
(石灰拓本)
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記念館の窓から、浅間山が見えた。ズームしてます。
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記念館から外に出て、実物を見に行きます。
収蔵しているお堂。
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正面
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側面
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背面
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庭には歌碑も三つありました。

「万代もいかでつきせじ名にしおう ほまれぞのこる多胡の碑(いしぶみ)」
藤原寛一」
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多胡碑をよめる
「玉かしは書残したるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかがやく」
陸奥出羽桉察使 前中納言有長
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「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづらるる時は来にけり」
楫取素彦
吉田松陰の義弟で多胡碑の保管管理に力を尽くした県令。
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「羊さまの榎」
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幹が大きく曲がり、朽ちた腹を見せているが、頑張っている。
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こちらはケヤキ。洞が出来、太い幹は枯れたが、枝が残り頑張っている。
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こちらにも頑張っている樹があった。
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記念館の前に二つの古墳がある。
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「片山1号古墳」
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「南高原1号古墳」
円墳で、周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には石を葺いていた。
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石室入り口
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石室内部
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これで、多胡碑記念館の見学を終え、牛伏ドリームセンターにて昼食後、午後の見学です。


(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

歴史クラブ、月1回は遠出とはすごいですね!

さて、「山上碑」ですが、文字の形がものすごく下手ですね。また、教育委員会の解釈がおかしいと言うか、納得できないものがあります。すなわち、「放光寺僧=長利僧」としていますが、ううん、このような石碑を建てることができる豪族の息子を僧にしたのでしょうか。それだけでもおかしく感じます。長利僧は別に僧ではなくて、僧の字を使った名前のような気がします。と言っても、そうなると、放光寺僧の扱い、すなわち、何でこんな所に「放光寺僧」と彫らねばならないのかわからなくなりますが。

また、「金井沢碑」の教育委員会の解釈も納得させないものがあります。すなわち、「知識」を「仏教の教え」と拡大解釈し、また、「天地に誓願し」を「祈る」、ううん、私でしたら「仏縁で結ばれた9名が天地の神に誓願した」あたりだと思います。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
山上碑では、「長利」という人が僧であったどうかは、
地元高崎では、他にも裏付けがあるのかな、とも
思っています。
私は、まだ高崎の辺の事はよくわからないので。

金井沢碑のほうですが、調べたら仏教用語で「知識結」
というのがありますね。
仏教が伝来されたばかりだったので、新知識という使い方かも
しれませんね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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