仁叟寺・吉井町郷土資料館・伊勢塚古墳

20140317

前記事のように、14日(金)に歴史クラブ行事で群馬県高崎市にある「上野三碑」などを訪ね、昼食の後向かったのが、仁叟寺です。

【仁叟寺】
群馬県高崎市吉井町神保1295

惣門
寛文3年(1663)建立であり、江戸期の武家門の面影を留める。
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宝暦11年(1761)建立の、威風堂々とした山門。
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本堂
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本堂で、本尊にお参りした後、住職さんから説明を受けました。
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 名称は天祐山公田院仁叟寺(じんそうじ)といい宗派は曹洞宗、大本山は永平寺・総持寺である。
 室町時代、足利義満将軍の応永元年(1394)から正長元年(1428)にかけて吉井町奥平公田に奥平城主奥平貞訓公により創建された。
 その後、子孫の貞能公が寺領を寄進した大永2年(1522)に現在の高崎市吉井町神保に寺を移して本堂を再建し開基となり、渋川市中郷讐林寺四世の高僧、直翁裔正禅師を初代住職に話して開山されたのが現在の寺のはじめである。
 開山以来約五百年間戦乱の世にも厳然として格式を保ち続け天正18年(1謝)臭平信昌夫人亀姫(徳川家康長女)より寺領を寄進され、さらに長根城主小幡公・宮崎城主奥平公・吉井城主菅沼公・地頭長谷川公同じく溝口公などの深い帰依と手厚い保護を受け、特に慶安2年(1糾9)篭川三代将軍家光公より寺領及び御朱印二十五石を改めて賜った。

ここで、奥平氏について再考してみた。(住職さんの話した内容ではありません)
徳川家康の本を読んでも、武田信玄の本を読んでも、その岐路に位置するのが奥平氏の帰趨でありました。
先祖は赤松則景の末流とされ、上野国甘楽郡奥平郷を領して奥平を名乗る。別の説によれば、武蔵七党児玉党の後裔氏行が則景の養子になったとも伝えられる。
貞俊のとき、三河国作手に移り、その後、三河に勢力を伸ばしてきた今川氏に従属した。
貞勝のとき徳川家康の祖父松平清康が東三河に進出、貞勝は清康従った。松平清康死後、三河は今川氏の領国となり、再び今川氏に属するが、今川義元の戦死後、今川氏から離れて徳川家康に属した。その後、武田信玄の侵攻に会い、他の東三河の国衆とともに武田氏に服属。
天正元年、信玄が死去すると、武田勝頼から離反し、徳川家康に帰順する。家康は亀姫を信昌と婚姻させ、本領など安堵することを約束した。その後、奥平氏が武田氏から離反したことで、武田勝頼は激怒、長篠の戦いが起こり長篠城を死守する。長篠の戦いの功績で織田信長から諱の一字を与えられ、更に徳川家康から本領および遠江国榛原郡を与えられる。
小牧・長久手の戦い後、豊臣秀吉の推挙で美作守、従五位下に叙された。
徳川家康の関東入封後、上野国甘楽郡小幡を与えられ三万石の地を領した。関ヶ原の合戦後、美濃国加納城で十万石、子孫は封を重ねて豊前国中津城十万石を領した。
また、亀姫については「宇都宮釣り天井事件」を密告した黒幕との話もあります。

この地から三河国に落ちていったが、その後歴史の節目の場面で活躍し大成したのですから、歴史とは不思議なものですね。

本堂内に勝海舟の書「清浄地」がありました。
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境内には、所狭しと色々なものが建てられていた。
文殊堂
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十三重石宝塔
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境内に三大銘木がある。
樹齢500年の「榧(かや)」
落雷により樹勢が衰え、平成元年に樹木医により回復手術を施され、回復してきた。
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樹齢100年の「五輪桜」
コヒガンザクラで、地中から幹が五本伸びている。
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樹齢350年の「モクノキ」
椋の木
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墓地の墓にお参り
当寺開基の奥平城主奥平貞訓公
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地頭・溝口豊前守勝信公
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地頭・長谷川淡路守
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家のような墓が多い。珍しい。
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窓が色々なデザインになっている。
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鬼瓦であろうか、屋根の入り妻のところに顔のような彫刻がある。
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【吉井郷土資料館】
群馬県高崎市吉井町285
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資料館に入るとすぐに、「馬庭念流関係資料」がある。
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馬庭念流は、剣術を中心に長刀術(薙刀術)、槍術も伝える古武道の流派。
樋口定次が、上州多胡郡馬庭村(現、群馬県高崎市吉井町馬庭)において道場を開き、樋口家が馬庭村で伝承し続けたため、馬庭念流とよばれる。
相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守り主体の流派であるとされる。庶民の護身術として、上州を中心に関東各地で広範囲に受け入れられ続けたため、廃れずに今日まで続いている。

寛永御前試合出場者
馬庭念流の樋口十朗兵衛のほか、初鹿野傳右エ門、関口弥太郎、大久保彦左衛門、荒木又右エ門などの名前がある。
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免許状
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吉井町のかっての名産品「火打金」と、吉井火打金職人の代表といえる中野屋孫三郎についての展示があります。
吉井の火打金は江戸時代、刀鍛冶が火打金を伝えたとされ、その高い技術から江戸で大評判となりました。
中山道の脇往還、姫街道を利用する旅人、商人、善光寺詣りなどの人々が、吉井宿で火打金を買い求め道中土産としたそうです。特に中野屋一族の製品は火花がよく出ると人気が高く、中野屋ブランド、吉井の火打金は全国に流通したそうです。

出土した平安時代の火打金
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色々な火打金が展示されている。
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中野屋の大暖簾
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火打金やキセルなどの販売店
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錦絵
激しい雷雨がやってきて、雨戸を閉め、急いで火打金で灯火をつけている。
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錦絵
芸者が出かける際に、厄除けの切り火をしてもらっている。
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錦絵
海に出かけた夫に、妻が安全の祈りをこめて切り火をしている。
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この辺の出土品で、目についたもの。
金銅装単鳳環頭太刀
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金環・勾玉
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玉類
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二階に会った、昭和初期のお雛様が、現在とは顔が違っていてよかった。
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甲冑が三領展示されていた。
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【伊勢塚古墳】
群馬県藤岡市上落合318
本墳は当所、円墳と考えられていたが、昭和六二年度の範囲確認調査により直径二七・二㍍、高さ六㍍の二段に築かれら不正八角形墳と考えられる。内部構造は羨道、玄室からなる両袖型横穴式石室で、大きさは八・九㍍である。
伊勢塚古墳の特徴は、模様積石室と呼ばれる石室にあります。この石室は胴張形の平面形で、所々にやや大型の自然石を配しその周辺に細長い結晶片石を差し込んで飛白模様にしている点に特徴があります。
 こうした模様積の石室を持つ古墳は、藤岡市域から埼玉県児玉郡周辺に見られます。これらの古墳の築造は、6世紀後半に出現し、7世紀代まで継続して造られています。その中でも伊勢塚古墳の石室は特に秀でているそうです。
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石室は開放されている。
その上に、梅の木が幹を曲げて、守っているかのようだ。
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中に入っていきます。
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石室内部
大ぶりの石だけでなく、細かい石で壁面が出来ているのには驚いた。
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説明板にあった写真。奥から入り口を眺めたところ。
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石室入り口を覆う梅が、ちょうど咲いていた。
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墳丘には、ケヤキがすっくと立っている。
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ケヤキの間から、山茶花の赤い花が見える。
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

奥平氏って、どこかで聞いた名前だと思ったら、長篠城を死守した人でしたか。秀吉関連の小説には必ず出てくる人物ですね。

文殊堂の写真がいい雰囲気ですね。五輪桜は多分、2月の大雪で太い枝が折れてしまったようですね。

火打金ですか。よくわからなかったので調べてみたら、火打ち石って、それだけではダメだったのですね。すなわち、火打金の角に火打ち石を打ち付けて、出てきた火花、これは鉄の粉が摩擦熱で赤くなったものですが、これを火がつきやすいものの上に落として、火をつけると言う具合で。神社の神事で火打ち石をたたく場面を何回か見ていますが、てっきり、火打ち石同士を打ち合わせて火をつけるのだと思っていました。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
奥平氏の本があったら、読んで見ようと思っています。
山岡荘八の「徳川家康」でも、ずいぶん出てきていますが、
奥平側からの視線で書いたものが欲しいです。

火打ち金とか、江戸時代の道具をもっと勉強しようと思いました。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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