大神神社(延喜式内論社)/栃木県栃木市

20140401

所在地:栃木県栃木市惣社町477

3月28日(金)に歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で下野国の三回目となりますが、この日、村檜神社の次に訪れました。

駐車場の関係で、参道の途中からとなります。
一の鳥居の方向を見ると、遙かかなたなので、あきらめました。
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参道には朱塗りの灯篭が並びます。
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社殿が見えるところまで来ました。
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手水舎
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きれいな水が出ています。
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銅製の二の鳥居
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大神神社(おおみわじんじゃ)は、式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社。
古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。

社伝では、崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、当時から広く名を知られた室の八嶋(むろのやしま、室の八島とも記す)に、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。

二の鳥居をくぐると、右手にお宮があり、行って見ると神宮て相殿神を祀っていました。
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祀られているご祭神
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流れ造りの立派な社殿です。
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正一位の額もあります。
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参道を進みます。
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炎尾型の狛犬
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拝殿
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主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)と称し、大物主命を指します。

社額
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「正一位惣社大明神」の額もあります。
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拝殿内部
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神紋は「右二つ巴」で珍しい。
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拝殿、幣殿、本殿と並びます。
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流れ造りの本殿
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破風のところに気になる彫刻がありました。残念ながら本殿には近寄れないようになっていた。
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神楽殿
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いよいよ「室の八嶋」ですが、入り口の前には松尾芭蕉の句碑があります。
「いと遊に結びつきたるけふりかな」
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当地を訪れたとされる松尾芭蕉と曾良は『奥の細道』に、室の八嶋の由緒などを曾良の言として記しているが、俳句は載せていない。しかし、後年曾良が著した『俳諧書留」に、芭蕉の句として「いと遊に結びつきたるけふりかな」が記されています。
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室の八嶋(むろのやしま)は、古来の和歌などに歌枕として見られる地名。当社境内の池中の島をその跡と伝える(ただし後世の付会とする説もある)。奈良時代の昔から、歌枕として都にまでその名を知られ、『万葉集』や『古今和歌集』をはじめとする多くの和歌集などに登場する。

現在見られる「室の八嶋」は、杉木立の中の掘割に、小さな祠を戴く8つの小島がある、およそ800坪ほどの庭園状の場所であり、水煙や湧き水などは観られない。

入り口
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「室の八嶋」
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8つの小島には、各名神が祀られている。
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途中に神橋がある。
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水はきれいで、鯉が泳いでいる。
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一方の入り口に在った句碑
「能面の 憂ひは 稲の匂ひかな」 糸原月穂
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境内には、まだ境内社がありました。
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ご神木の夫婦杉
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こういう碑もありました。
「道鏡を守る会」があるということは、下野の地に貢献したのでしょう。
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悪名が高い道鏡ですが、孝謙天皇にしても自分の思惑からとはいえ、重祚できるほどの人物だったわけで、道鏡は大人物だったのは間違いないと思います。
孝謙天皇に寵愛されたことから、平安時代以降の学者によって天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられ、『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかしこの説は信頼の置ける一次史料で確認することはできないようです。
一方で、こうした説が流布された背景には、称徳天皇の崩御をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活したことから、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘があります。


地元の方と思われますが、熱心な方から詳しい歴史の話をコメントしていただきました。
そちらも併せて、参考に願います。(2014.4.29)



(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

四季歩さん、お一人でしたら長い参道を歩いたかもしれませんが、やはり、集団だと無理ですよね。

以前に奈良の「山辺の道」を歩いた時、「大神神社」に着いたのですが、私は「おおがみじんじゃ」と読んでしまったので、それが「三輪明神」の社とは思ってもみませんでした。それから大分経って、「おおみわじんじゃ」と読むことを知りました。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
そうだったんですか。
それは残念でしたね。
日本で一番最初に出来た神社ですから。

私は、まだ大和の大神神社には行っていません。
今年の2月にチャンスがあったのですが、
母親の入院で、行けませんでした。

大神神社

栃木市の大神神社は、明治時代の1900年頃に延喜式内社の「大神社(ルビ:おほむわ)」にこじつけられたもので、それまでは惣社大明神、別名室の八島大明神でした。

ここで言う惣社・室の八島というのはほぼ同じ地域の土地の名前で、捉え方の違いによって複数の名前がありました。

そして本地垂迹時代の祭神は、それぞれ惣社大明神、室の八島大明神でしたが、江戸時代前期の1680年代に「奥の細道」に紹介されている木花咲耶姫に替えられました。

木花咲耶姫の神名は記紀神話に基づく神名で、本地垂迹思想に基づく神名ではありませんね。

その後、明治時代の国家神道になってから「神宮(相殿)」の案内板にある神・天照大神などに替えられ、大神神社に替えられてから大物主命に主神が替えられました。

大神神社(延喜式内論社)

1750年頃の幕府による式内社調査の際に、栃木市の太平山神社が自分とこが式内社の「大神社」であると主張した記録が残っております。

当時の惣社大明神(室の八島大明神)の記録は残っておりませんが、同様に自分とこが式内社の「大神社」であると主張したんでしょう。

大神社に下野国内の全ての神々を祭って、下野国の惣社である当神社ができたのであると主張したんでしょう。

大神神社の社伝

もちろん1900年頃に大神神社ができて以降にでっち上げられた出鱈目社伝です。

奈良県の大三輪神社とはなんら関係ありません。

平将門や道鏡などの話も大神神社ができてからの作り話です。

室の八島

最初のコメントで申しましたように、室の八島とは地域の名前で、大神神社とは関係ありません。

室の八島が池や神社と関係付けられるのは江戸時代初めの頃です。

尚、現在の池が作られたのは1730年代で、松尾芭蕉らが訪れた当時(1689年)には存在しませんでした。

芭蕉らが訪れた当時には、40m四方もの大きな池がありましたが、水が涸れていたので、芭蕉らは池の存在に気付きませんでした。

池の底が浅かったので、水が涸れると池には見えなかったんです。

八島 守様

とても熱心なコメント有難うございました。

3ケ月に一度、団体で出かけていく「関八州式内社めぐり」という
大雑把な取り組みに乗って、見て歩いていますので、
どうしても表面的な捉え方しかできません。

そういう記事として、気に障るところがありましたら、
お許しください。

とても詳しい歴史をコメントしていただきましたので、
本文に、貴方様のコメントを参照していただくよう、
追記致しました。

どうも、ありがとうございました。

延喜式神名帳の大神社

延喜式神名帳に下野国都賀郡の神社として「大神社(ルビはオホムワ)」が登場しますが、この神社はその後歴史から姿を消します。

そして次に顔を出すのが、1750年頃、栃木市の太平山神社が「じぶんとこが延喜式神名帳の大神社の末裔である」と主張した時です。

そうです。太平山神社が主張した神社名は、大神神社でなく、大神社でした。

延喜式神名帳のこの神社の正しい名前は、漢字どおり大神社であると主張する学者もいます。

式内論社・栃木市の大神神社

明治時代の1900年頃、明治政府の社格制度に対応するために、この神社が「じぶんとこが延喜式の大神神社の末裔だ」と言い出して、それが明治政府に認められたフシがあります。

つまりこの神社は、他人が「そうじゃないか」と言ってる式内論社ではなく、自分とこが「そうだ」と主張している式内論社です。

八島 守様

コメントありがとうございます。
式内論社については、同じような状況のところが多いですね。
私が個人的に回っている武蔵国についても、
神名帖44座に対して、現在論者も含めて90社です。
私は真贋を問うよりは、それなら全部だと、
廻っています(笑)

武蔵国の鷲宮神社の祭神

祭神なんて興味ないから、学者も当神社関係者も調べてませんが、
鷲宮神社の祭神って次のように変遷したんです。

鷲大明神 :[神道集]時代

有間王子良岑安世 :[御伽草子]時代。別に垂迹名が有ったかも?           以上本地垂迹時代。

木花咲耶姫 :1600年代前半。これより記紀神話の神の時代。

天穂日命や武夷鳥命など :その後

・・・

天穂日命、武夷鳥命、大己貴命 :現在の祭神 

八島 守様

コメントありがとうございます。
祭神が時代と共に変遷した神社は
けっけうあるようですね。
祭神が守られていると、古代にどのように
部族が移動したかのヒントにもなります。

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Author:四季歩
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写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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