二子山古墳・愛宕山古墳・光厳寺・宝塔山古墳/群馬県前橋市総社町

20140412

4月11日(金)に歴史クラブ行事で訪ねたうちの前半です。
朝7時に狭山市を貸し切りバスで出て、愛宕山古墳の手前でバスを降りて、歩いていくと「天狗岩用水」にかかる「あきもと橋」を渡ります。

【天狗岩用水】
江戸時代、総社藩藩主秋元公の善政の賜物です。光厳寺にてその説明をします。
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これは愛宕山古墳から光厳寺に移動するときに撮った天狗岩用水と「あきもと橋」。
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【二子山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町植野
形状:前方後円墳
築造年代:6世紀末

私たちは、後円部のところから入った。
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桜の樹がたくさん植わっている。
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上は、ほぼ平らに繋がっている。くびれがあります。
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前方部頂上に、正三位刑部富小路貞直公の筆になる崇神天皇の第一皇子『豊城入彦命』と書かれた碑が立っている。
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ここは、豊城入彦命の墓といわれ、明治三年までは、陵墓参考地として墓丁が置かれていたという。
なお、西大室町にある大室公園の前二子古墳【群馬県前橋市】が、豊城入彦命の墓だという説もあるそうだ。

前方部上がり口に、木標と推定復原図があった。
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全長89.8メートル、後円部径44.2メートル、前方部幅60メートル
前方部と後円部にそれぞれ両袖型横穴式石室をもつ。ともに江戸時代に開口された。
両者の構造からまず前方部の石室が6世紀末に造られ、後円部の石室がそれに続くとみられる。

古墳の麓を歩いて石室に向かう。
途中、道祖神があった。
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前方部石室。
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開口部から撮った内部の写真。
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ネットで調べた感じでは、下部分は埋もれているようだ。
前方部の石室は全長8.76メートル、玄室長4.27メートル、玄室幅2.22メートル。河原石の乱積で構築されている。頭椎大刀、勾玉、金耳環、六鈴釧、脚付長頸坩などが出土したと伝えられ、その一部は東京国立博物館に収蔵されている。

前方部の斜面が、何と云う花かわからないが咲き誇っていて綺麗だった。
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後円部の石室は、石室の天井石が崩落して閉鎖されている。
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上からのぞいたが、草が茂っていて石組みがちょっと見える程度だった。
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後円部の石室は全長9.4メートル、玄室長6.88メートル、玄室幅3.4メートル。榛名山二ツ岳の角閃石安山岩を使用して構築されている。副葬品は伝わっていない。

見事な桜の古木があった。
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この古墳は、すぐそばに住宅群が迫っている。
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【愛宕山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町
形状:方墳
規模:一辺55m、高さ8m
築造年代:7世紀前半

二子山古墳から歩いてくると、まず北側から見るが、墳丘はほとんど笹薮と雑木林に埋もれている。
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南側から、一般の方の墓の間を上がっていく。
総社古墳群の他の3古墳と同様に国の史跡指定されてしかるべき古墳であるが、それが受けられず、整備もされないままなのは、この墓の家の方が遠方で連絡がつかないためらしい。
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入り口は非常に狭い。
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ある程度入って、入り口を眺めたところ。
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主体部は自然石の巨石を積み上げた両袖型横穴式石室で、玄室長7メートル、幅3メートル、高さ2.8メートルと県内でも有数の規模を誇る。

玄室奥よりには石室主軸線と直交して、凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されている。石棺の寸法は、蓋を含め高さ1.5メートル、長辺2.2メートル、短辺1.2メートルである。県内で家形石棺を使用しているのは当古墳と宝塔山古墳の2例だけで、共に総社古墳群内にある。
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被葬者は、豊城入彦命の子である八綱田王の墓であるという説がある。
蓋石の下に開いてる穴は盗掘の跡らしい。
穴からカメラを入れて撮影。きっちりとした合わせ目となっている。
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穴から出てくると、古墳の麓の辺で参加者がタンポポ論議をしていた。
これは、立派な「ニホンタンポポ」だそうだ。
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ニホンタンポポとセイヨウタンポポの見分け方のひとつとして、花(頭花)の下にある総苞片の形と大きさの違いに注目する方法があり、頭花の下の総苞片が反り返っていなければニホンタンポポ、反り返っていればセイヨウタンポポだそうです。

ということで、これはニホンタンポポですね。
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【紅葉山と御霊神社】
ここは予定外ですが、通りかかって寄りました。
小古墳で、楓の木が茂っていたので紅葉山と云うそうです。昔は上に日枝神社の祠があったが、現在は戦争で亡くなった方の神社となっている。
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英霊のお宮らしく、神紋が桜になっている。
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傍らに、大山巌元帥書の碑があった。
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境内の桜の並木の樹の一つの根から咲きかかっていた。
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花が終りで残念でした。
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【光厳寺】
光厳寺の創建は慶長6年(1601)、総社藩初代藩主となった秋元長朝(上杉、北条、徳川と主君を変え、関ヶ原の戦いで東軍に組し上杉景勝降伏に尽力し総社領1万石が安堵された。)が徳蔵寺の亮應を招いて開山したのが始まりとされます。寺名は秋元の性と長朝の江月院、母親の光厳院より秋元山江月院光厳寺と名付けられ、秋元家歴代の菩提寺となりました。秋元氏は、寛永10年(1633)に甲州へ移封となりましたが光厳寺はこの地に留まり歴代秋元家の菩提を弔っています。その後は幕府に庇護され、寛永3年(1626)に2代将軍秀忠より寺領30石が安堵され、さらに慶安2年(1649)には3代将軍家光より16石が加増され合計46石の朱印地を賜りこの地域の天台宗の修業寺として寺運が隆盛します。

楼門(文化年間)
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立派な塀が続き、長屋門(天明5年)がある。
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本堂と庫裡
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楼門の内側
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門扉の窓
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秋元長朝の御廟所(文化9年)
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細部の装飾が見事だった。
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秋元氏の位牌が安置されており、「八方睨みの龍」の天井画が描かれている。この絵は二代藩主秋元奏朝が造営奉行を務めた日光東照宮の「鳴龍」の原版といわれている。
残念ながら、当日は見学できなかった。

力田遺愛碑。
慶長9年に完成した天狗岩用水によって恩恵を受けた農民が用水路を開発した秋元氏を讃え制作した碑。
封建社会で農民が領主を讃えた碑は全国的にも珍しい。
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「今も秋元候が愛される5つの理由」と書いたビラが手に入りました。
① 関ヶ原での功績
会津の上杉景勝を説得し、その出陣を抑えることにより、無益な戦を止めさせた。
② 天狗岩用水の造営
領民に対し3年間の年貢を免除し、水利の乏しかった総社領内に他領から用水を引き、領民の生活を牟豊かにした。
③ 越訴に対する尽力
秋元氏の後、総社領を治めた安藤出雲守の暴政に対する総社領民の直訴に対して、その訴えを認める裁定を引き出した。
④ 遠方からの義援米
天明3年の浅間山の大噴火により甚大な被害を受けた総社領民に対し、遠く山形から義援米を送った。
⑤ 造営奉行
2代泰朝は日光東照宮の造営奉行に、4代喬知は江戸城三の丸造営総奉行、元禄大地震復興総奉行に任命されている。

碑に「百姓等 建」とある。
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東覚寺層塔
この塔は総社町高井の東覚寺跡にあったものと伝えられていて、室町時代の特徴を良く表している。
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薬師堂・元三大師堂
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鐘楼(明和9年)
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薬医門
江戸時代初期に城門として建立されたものを移築したと推定されている。
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唯一の装飾が、板蟇股にある四つの紋。
五三の桐
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剣片喰
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立ち沢潟
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三つ巴(流水巴)
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【宝塔山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町
形状:方墳
規模:一辺約50m、高さ12m
築造年代:7世紀末

群馬県下最大の方墳である。現在の地形で見ると、墳丘南側には幅24メートルの一段低い畑地面があり、周堀の痕跡とみられる。これを含めるとその墓域は一辺100メートルの規模となる。埴輪は確認されていない。

光厳寺の長屋門のところから眺めると、ピラミッドのようにも見える。
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上り口
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推定復原図を見ると、やはりピラミッドである。
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上に上ると、秋元氏歴代の墓所がある。
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きれいに掃除されていて、各墓にはプレートが建っていて誰の墓か明確になっている。素晴らしかった。

4代秋元喬知の墓
この人は、川越藩主として、私たちにもなじみの方です。
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甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。老中を元禄12年(1699年)から宝永4年(1707年)まで務めた。川越藩秋元家初代。実父の戸田忠昌、実弟の戸田忠真共に老中を務めた。
5代将軍徳川綱吉、6代将軍家宣の2代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺、寛永寺中堂、厳有院仏殿などの造営奉行、元禄大地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍綱吉に進講することもあった。
綱吉亡き後に将軍になった家宣の側近新井白石・間部詮房の正徳の治を支持した数少ない閣老であり、老中退任後も白石・詮房派として閣内に隠然たる影響力を残した。
川越藩主としては殖産政策で知られる。

ちょっと下に下りると、石室があります。
上の林が、いままで居た秋元氏歴代の墓所。
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主体部は旧地表面より3メートル上の基壇上に造られた。切石切り組積みの両袖型横穴式石室で、羨道部・前室・玄室に分かれた複室構造になっている。全長12.04メートル。石室壁面には漆喰塗布の痕跡がある。玄室中央に石室長軸線に直交して、脚部に格狭間を配した家形石棺が安置されている。出土遺物は伝わっていない。

羨道部
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前室
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石材加工技術の精巧さには驚きました。
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玄室の中に安置されている家形石棺の脚部は格狭間という切り込みがあり、仏教文化の影響を示しています。
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窓から石棺内部を撮った。
石は誰かが置いたものだろう。
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入り口の前に、加工された大きな石があるが、これで入り口を塞いでいたのか?
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(続く)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

道祖神、2つとも安曇野辺りのものと随分、違った感じですね。

今頃、咲く紫色の花って、ダイコンが多いですね。染井吉野と菜の花の組み合わせは結構、合うのですが、ダイコンと染井吉野でもまあまあな感じなことが多いです。

光厳寺は昔の面影、すなわち、朱塗りの形を残しているのですね。先日、東京国立博物館で観た京都のお寺等が描かれている江戸時代の絵で、清水寺も八坂の塔も朱色になっていました。

それにしても、石室の石、感心する程、見事に切りそろえて積み上げていますね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
総社町は、史跡がふんだんにあって、
それをすごく大事にしていますね。

行く先々でそれを感じました。

古墳の中に入るのは、不思議な感じがします。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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