胸形神社(延喜式内社)/栃木県小山市
20140418
3月28日(金)に行われた歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」の続編です。
他のイベントなどの記事で中断していました。
下野国の三回目となりますが、村檜神社、大神神社、安房神社の次に訪れました。
社号標
式内社 下野國寒川郡 胸形神社 旧郷社

この神社については、資料が乏しいのですが、下野新聞社発行の「とちぎの神社と祭り」という本に載っている中から抜粋しておきます。
胸形神社は豊かな穀倉地帯を流れる巴波川畔に、古木が茂る神域に鎮座している社で、十代崇神天皇の御代、勅命により九州の牟奈加多から祭神を招幣し、文徳天皇の御代には胸形官宜があったと言われている。
御祭神は宗像の三柱の女神で「田心姫神」 「市杵島姫神」 「瑞津姫神」 である。
当社は平安時代の延書式神名帳に登載された下野十二社の一つで、航海交通の守護と漁撈豊穣の神として崇拝されていた。
明治五年、寒川郡三十八力村の総社として郷社に列せられ、明治十四年に社殿を改造し、明治四十五年に神饌幣帛共進社に指定された。大正十二年火災で社殿を焼失したが、大正十四年に再建された。
巴波川の度重なる氾濫によって社殿が壊れ、古文書も四散した。社殿はせばめられて往昔の観は現存しないが、昭和十六年の大洪水の時に、身をもって人畜を守った御神徳顕彰碑が、時の総理、近衛文麿公の親筆で建てられており、樹齢三百年以上の榎とともに往時を物語っている。
ということで入り口の大榎が、当社を訪れた記事で取り上げられていて、当社の象徴みたいになっていて、私も楽しみにしていたのだが・・・・・・・・
名にということか、枯れてしまっている(泣)

先述の、「とちぎの神社と祭り」に載っていた写真を転載しておきます。

願わくば、早く二代目を植えて、新たなご神木にしてもらいたいものだ。
鳥居から拝殿まで参道が直線に延びている。

手水舎

狛犬が二組並んでいた。
手前が新しいもの。


古いほう(大正7年建立)


目が4つあるみたいだ(笑)

拝殿


拝殿内部

御祭神は宗像三女神(田心姫命、、市杵島命、多岐津比売命)
拝殿内部にかかっている社額。左のは宗像大社宮司の書によるもの。

本殿は覆屋の中で、まったく見えなかった。


神紋は、「右三つ巴」と「梶」でした。


境内に万葉歌碑があった。
万葉集巻二十 寒川郡上丁川上臣老
「旅行きに行くと知らずて母父に 言申さずて今ぞ悔しけ」


当社の祭りで「花桶かつぎ」の記事が、先述の、「とちぎの神社と祭り」に載っていて、私は見てないのですが紹介しておきます。
「花桶かつぎ」 は明治時代に胸形神社に合祀された寒川の元々の氏神である寒川天満宮の祭りで、一月二十四日、二十五日の二日間行われていたが、現在は一月二十五日に近い土曜日に行われている。
この祭りは、七五三のお祝いをする七歳の女児が美しく着飾り、五色の紙の造花で飾られた若水を入れる花桶を担い、神輿の先導者として供奉し、神に奉仕するというものである。
昔から七歳前は神の子と言われるが、天神様の神輿渡御の先導に選ばれるのは、七歳が神の子から人の子へ移行する節目の年だからである。この時お囃子にのって若衆の歌う木遣り節に似た古風な歌は、一種独特のもので土の香り高いものがあり、これらの歌やお磯子に送られ、練り歩く様は実に美しい。
村人は神輿の巡行中にお嘲子の山車に付けられた花や稚児の担ぐ花柄から花を奪い合う。この花を家の門口に飾ると疫病退散、五穀豊穣、養蚕の豊かな収穫ができるという言い伝えがあるからである。
この日供奉した稚児の家では、人寄せをして子供の成長を祝う。この祭りは天神信仰の一つと思われるが、農耕行事と子供の成長を祝う行事が重なりあった他に類を見ない珍しい祭りである。

いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html
他のイベントなどの記事で中断していました。
下野国の三回目となりますが、村檜神社、大神神社、安房神社の次に訪れました。
社号標
式内社 下野國寒川郡 胸形神社 旧郷社

この神社については、資料が乏しいのですが、下野新聞社発行の「とちぎの神社と祭り」という本に載っている中から抜粋しておきます。
胸形神社は豊かな穀倉地帯を流れる巴波川畔に、古木が茂る神域に鎮座している社で、十代崇神天皇の御代、勅命により九州の牟奈加多から祭神を招幣し、文徳天皇の御代には胸形官宜があったと言われている。
御祭神は宗像の三柱の女神で「田心姫神」 「市杵島姫神」 「瑞津姫神」 である。
当社は平安時代の延書式神名帳に登載された下野十二社の一つで、航海交通の守護と漁撈豊穣の神として崇拝されていた。
明治五年、寒川郡三十八力村の総社として郷社に列せられ、明治十四年に社殿を改造し、明治四十五年に神饌幣帛共進社に指定された。大正十二年火災で社殿を焼失したが、大正十四年に再建された。
巴波川の度重なる氾濫によって社殿が壊れ、古文書も四散した。社殿はせばめられて往昔の観は現存しないが、昭和十六年の大洪水の時に、身をもって人畜を守った御神徳顕彰碑が、時の総理、近衛文麿公の親筆で建てられており、樹齢三百年以上の榎とともに往時を物語っている。
ということで入り口の大榎が、当社を訪れた記事で取り上げられていて、当社の象徴みたいになっていて、私も楽しみにしていたのだが・・・・・・・・
名にということか、枯れてしまっている(泣)

先述の、「とちぎの神社と祭り」に載っていた写真を転載しておきます。

願わくば、早く二代目を植えて、新たなご神木にしてもらいたいものだ。
鳥居から拝殿まで参道が直線に延びている。

手水舎

狛犬が二組並んでいた。
手前が新しいもの。


古いほう(大正7年建立)


目が4つあるみたいだ(笑)

拝殿


拝殿内部

御祭神は宗像三女神(田心姫命、、市杵島命、多岐津比売命)
拝殿内部にかかっている社額。左のは宗像大社宮司の書によるもの。

本殿は覆屋の中で、まったく見えなかった。


神紋は、「右三つ巴」と「梶」でした。


境内に万葉歌碑があった。
万葉集巻二十 寒川郡上丁川上臣老
「旅行きに行くと知らずて母父に 言申さずて今ぞ悔しけ」


当社の祭りで「花桶かつぎ」の記事が、先述の、「とちぎの神社と祭り」に載っていて、私は見てないのですが紹介しておきます。
「花桶かつぎ」 は明治時代に胸形神社に合祀された寒川の元々の氏神である寒川天満宮の祭りで、一月二十四日、二十五日の二日間行われていたが、現在は一月二十五日に近い土曜日に行われている。
この祭りは、七五三のお祝いをする七歳の女児が美しく着飾り、五色の紙の造花で飾られた若水を入れる花桶を担い、神輿の先導者として供奉し、神に奉仕するというものである。
昔から七歳前は神の子と言われるが、天神様の神輿渡御の先導に選ばれるのは、七歳が神の子から人の子へ移行する節目の年だからである。この時お囃子にのって若衆の歌う木遣り節に似た古風な歌は、一種独特のもので土の香り高いものがあり、これらの歌やお磯子に送られ、練り歩く様は実に美しい。
村人は神輿の巡行中にお嘲子の山車に付けられた花や稚児の担ぐ花柄から花を奪い合う。この花を家の門口に飾ると疫病退散、五穀豊穣、養蚕の豊かな収穫ができるという言い伝えがあるからである。
この日供奉した稚児の家では、人寄せをして子供の成長を祝う。この祭りは天神信仰の一つと思われるが、農耕行事と子供の成長を祝う行事が重なりあった他に類を見ない珍しい祭りである。

いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
「花桶かつぎ」に興味を持ったので、動画があるのではと思ってYoutubeを探してみたら、2時間ものと20分ものがあったので、短い方の一部をみました。
驚いたことはこれ、夕方から夜に渡っての祭りなのですね。子供が参加するのですから、昼間に変えても良いのではと思いました。また、桶は2人1組になって担いでいくのかと思っていたら、そうではなくて、子供と母親で運ぶようです。
「花桶かつぎ」に興味を持ったので、動画があるのではと思ってYoutubeを探してみたら、2時間ものと20分ものがあったので、短い方の一部をみました。
驚いたことはこれ、夕方から夜に渡っての祭りなのですね。子供が参加するのですから、昼間に変えても良いのではと思いました。また、桶は2人1組になって担いでいくのかと思っていたら、そうではなくて、子供と母親で運ぶようです。
matsumo さん
コメントありがとうございます。
私は、ちょっと忙しくしていて、Youtubeまでは
調べませんでした。
そういう点、今は本当に便利ですよね。
この祭り、良さそうですね。
私は、ちょっと忙しくしていて、Youtubeまでは
調べませんでした。
そういう点、今は本当に便利ですよね。
この祭り、良さそうですね。