飯能から仏子~寺社と板碑を訪ねて~(2)

20140428

25日(金)に歴史クラブの行事で歩いた、前回記事の続きです。

【岩沢白鬚白山神社】
所在地:埼玉県飯能市大字岩沢字宮の西533

お宮さんの前に西武池袋線の踏切がある。
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社号標 村社 白鬚白山神社(しらひげはくさんじんじゃ)
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社号標は「白鬚(しらひげ)」となっていて、境内由緒書には「白髭(しらが)」となっている。

霊亀2年(716年)の創建と伝えられる。明治5年(1872年)に村社に列格し、明治11年(1878年)に近隣の6社を合祀した。

鳥居
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手水舎
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他には見当たらず、ここにだけ神紋があり「十七弁八重菊」
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拝殿前の、大正9年建立の流れ尾型狛犬。
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拝殿
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主祭神は、白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白山菊理媛命、韓姫命(清寧天皇の母)

白鬚神社と白山神社が一緒になっている珍しい神社である。

『新編武蔵風土記稿』では「白髭白山唐土明神合社」として紹介されている。唐土明神と唱えているのはやはり渡来系の神であることを意識しているからだ。(白髭となっていることに注意)
当社は口碑によると、霊亀二年(七一六)に創立されたという。
霊亀二年といえば、駿河関東七国から高句麗人1799人を武蔵国に移した。この時高麗王若光が郡の長官に任命された。高麗王若光を祭神として高麗神社がある。若光は晩年白鬚を垂れ、白鬚様と親しみ尊敬されていたので、高麗神社は別名「白鬚明神」ともいわれた。
狭山市にも高麗神社系統の「白鬚神社」が多い。ただし祭神は猿田彦である。
古墳時代の遺跡が入間川を下った隣の入間市野田、笹井、広瀬、柏原などには比較的多く存在することも併せて考えて、入間川沿いの白鬚神社つながりで、同じ系統の人々と考える見方もあり、かもしれない。

白山神社の祭神は菊理姫であるが、「ククリヒメ」をコクリヒメに転じ、高句麗=白頭山=白山との関係性を指摘する説もある。

両社ともに高麗郡=渡来人と何らかの関わりがあった神社である可能性は高い。

問題は、主祭神の白髪武広国押稚日本根子天皇である。
元亀・天正年間(1570~1593)に描かれたという古地図には「白髪社」と記されているそうなので、『延喜式』神名帳の「白髪神社」に付会して清寧天皇及び韓姫を祭神として定めた、ということが背景としてあったのかもしれない。
*『延喜式』神名帳の「白髪神社」は熊谷市妻沼にあり、祭神は白髪武広国押稚日本根子天皇。

だから、社号標と境内由緒書が統一されていないのは、「白鬚」と「白髪」両説が存在するのだろう。

拝殿内部
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拝殿の後ろに幣殿と覆殿の中に本殿となっている。本殿はまったく見ることが出来ない。
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本殿は石積みの上に鎮座している。覆殿の周りにグルッと絵馬が掛けられている。
本殿のすぐそばに掛けたほうが、神様に近くて願いがかないそうだ(笑)
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境内社
大日霎貴神(おおひるめむちのかみ)・大山祇神・倉稲魂神・天満天神・大国魂神・比売神を祀る。
大日霎貴神(おおひるめむちのかみ)は、天照大御神の別名。
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ご神木は枯れて、大きな根元が残っている。
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境内の隅に「加能里遺跡」の表示がある。
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その傍らには、旧六道交差点にあった石仏、「庚申塔」と「読誦塔」が安置されていた。
同行していたIさんは、ずっと古道を追いかけているのだが、昨年この石仏を捜したがわからなかった、と感慨深げだった。

「庚申塔」
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「読誦塔」
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元加治の駅前を経由して、円照寺に。ここから入間市になります。
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【円照寺】
所在地:埼玉県入間市野田158  

山門
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当山は平安の初期宗祖弘法大師龍燈桜の奇瑞を感じ霊泉を加持して堂宇を創立したと云う。
鎌倉の初期宣化天皇の遠孫加治太郎実家が当地に住し、弟左衛門尉家季が元久2年6月23日二保川の戦いで畠山重忠と戦い野田与一経久と共に討死した。その子の加治豊後守家茂が父家季の菩提の為、円照上人を開山として開基したのが始まりである。
康元元年(1256)になって高野山より丹党の氏神である丹生明神、また厳島より弁財天を勧請して丹党一族の鎮守として改めて尊永上人を中興開山に加治家を大檀越とした元弘3年(1333)5月22日鎌倉幕府はその幕を閉じ、同時に守護加治左右門入道家貞もこれに殉じて絶えたが、その一族は新田氏とともに南朝に味方して武名を揚げ元亀ー天正(1570-1592)の頃、加治左馬助にいたるまでの加治家菩提寺として大いに栄えたが、その後はやや衰退した。

境内に入ると、大きな池がある。
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弁天堂
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真ん中の道をいくと本堂。
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この円照寺には国指定重要文化財の鎌倉幕府滅亡に関係した板碑がある。
高さ137センチメートル、幅38センチメートル、厚さ約5センチメートルで、胎臓界大日如来(アークン)の種子が蓮花座に乗り、脇侍にウーンとキリークが刻まれています。注目すべきこととして偈に執権北条時宗が南宋より迎えた名僧の無学祖元の臨剣頌という七言絶句が刻まれています。
残念ながら、実物は収蔵庫の中にあり、拝見は出来ませんでした。
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今年の2月2日(日)に埼玉県立嵐山史跡の博物館主催のシンポジウム「東国武士の精神世界」を聴講しましたが、そのときに詳しく説明をしてもらっています。
その記事には、下記をクリック。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1396.html

それを読んでもらうとして、ここでは板碑に書かれていることを説明した図版のみ載せておきます。
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驚いたことに、今年谷中で初めて見た鬱金桜(うこんざくら)が、ここにもありました。
もう咲き終りの時期で、ほとんど桃色に変わっていたが、所々薄黄緑の花が残っていた。
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まだ薄黄緑の花が残っているところ。
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【上橋と大ケヤキ】
入間市の景観50選の一つ。
全長80.34メートルの上橋は、欄干の形や高さに工夫を凝らし、周囲の景色に溶け込むようにしたほか、中央に見晴らし台が設置されています。
また、市の木に制定されているケヤキ。ここは市内のケヤキの中でも、象徴的な光景のひとつです。
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橋の上から流れを眺めていると、大きなサギが居た。
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【建長の板碑】
所在地:埼玉県入間市仏子239南 仏子共同墓地
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初期大型板碑の典型で、市内では高正寺の板碑に次いで古いもので、鎌倉時代の建長5年(1253)の銘があり、県内でも50番以内に入る古いものである。 
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頂部山形は尖り、下に二段の切込。身部の輪郭はない。
主尊の阿弥陀種子は、素朴さを帯びており、
阿弥陀如来の種子「キリーク」が縦40センチメートルもあり、脇侍の種子「サ」・「サク」に比べ、極めて大きく薬研彫されている。
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【高正寺】
所在地:埼玉県入間市仏子1511

今から約800年ほど昔鎌倉時代の初期、この地の豪族金子余市近範公によって開創された古刹である。
近範公は当時この加治丘陵で製鉄業を営む(今でもこの丘陵からは良質の砂鉄が出る)豪族で、その戒名を高正寺殿関叟常鉄大居士と称し、諏訪神を守護神としていたところから、当時は現在諏訪山萬齢院高正寺と称する。本堂には近範公の持念秘仏、虚空蔵菩薩を安置し、御前立聖観世音菩薩が札所霊場本尊である。
当山の聖観音像は、左の御手に蓮華蕾ではなく、開花した蓮華を持しておられる飛鳥形式の御影である。
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中央の石段の上には、立派な鐘楼門がある。
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本堂
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大型板碑5基がある。
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左から2番目は、建長2年(1250)庚成7月29日と刻まれる(紀年銘が残っているものとしては市内最古)。
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左から4番目は、市内最大:高さ2.05m。紀年銘の部分が欠損しているため年代が分からなかったが、山口県萩市の金子氏ゆかりの家から紀年銘が書かれた当時の資料が見つかり、市内最古(寛元4年[1246])と判明した。
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この「山口県萩市の金子氏ゆかりの家」だが、調べていると下記のような金子氏の流転がわかったので、ちょっと長いが掲載しておく。
金子氏の本領であった旧入間郡仏子村の高正寺に所蔵されている「金子家系譜」にみえる家長・正助父子が、家長・充忠父子と同一人物と考えられる。同家譜によれば、家長は北条氏康に、正助は天文十四年より氏康・氏政に属したとある。
 天文十四年九月、上杉憲政・同朝定は氏康の部将北条綱成が守る武蔵国河越城を攻め、翌年、朝定は討死し上杉方は大敗した。家長父子にあてたさきの氏康判物は、この合戦ではじめ上杉方に属していた家長らを誘い、本領の安堵と新恩の地を与えることを約束したものであった。
 その後、金子十兵衛は北条氏照の下野進出に従った。この十兵衛は正助の子家定と考えられる。北条氏照は下野国小山・榎本両城と下総国関宿・栗橋・水海の諸城を支配したが、その小山城の番衆に金子左京亮がおり、左京亮は氏照から久下郷代官を命じられ、栗橋城の普請役を課せられている。
 天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐で、武蔵国内の後北条氏支城は前田利家・上杉景勝の軍勢に攻撃された。上杉勢が武蔵松山城を攻めたとき、城主上田朝直は小田原本城に詰めていたため、金子紀伊守家基は難波田・若林の諸氏と留守居を勤めていたが、かれらは上杉方に降り、その先兵となって八王子城を攻めた。  家譜によれば、家定の弟正義は、北条氏政・氏直に仕え、天正十八年直江兼続の手に属して討死したとある。兼続は上杉景勝の重臣であるから、八王子城攻めに上杉方に属して討死したものであろう。一方、金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死している。
 高正寺所蔵家譜によれば、正助の子家定は天正十五年(1587)に死去し、家督を継いだ政熙は、北条氏滅亡ののち上杉景勝に属し、慶長五年(1600)の徳川家康による会津出兵によって、景勝の領地が削減されたとき浪人の身となった。その後、京都守護代板倉勝重に仕え、その子政景は板倉家の老臣として重用されたとある。のち政景はある事情から自害し、長門藩主毛利秀就の家臣宍戸元真の女であった政景の妻は、子就親を連れて実家の宍戸家にもどった。そして、就親は外祖父の主家毛利氏に仕えたのである。
 戦国時代の末まで武蔵国にあった金子氏文書が、西国の萩藩士の家に伝来したのは、政景の妻子が実家である宍戸家に帰ったときに持参したからであった。


鐘楼門の前には石の16羅漢像が並んでいた。
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その表情が豊かなので、全部写真を撮ってきた。
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本堂の左側、少し高い所に建つアイボリー色の六角堂は、招福殿と名付けられた大黒天を祀るお堂である。
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更に上の方に五重塔があるというので、上がっていった。

途中のお堂、掲額の字が達筆すぎて、浅学の私には読めない(汗)
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ここからの眺めは良かった。
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更に上の方に五重塔が見えた。
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やっと、たどり着きました。
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傍らに、お地蔵さんと並んで、金子余市近範公によって開創された寺であることを説明する碑があった。
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そのちょっと上に、奥多摩新四国八十八霊場第69番本尊を祀ってある。
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傍に、稚児ユリが咲いていた。そこはまったくの日陰なためだろうか、同行した詳しい人が「それにしても小さい」と云っていた。
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これにて、全コース終了。近くの仏子駅から帰途につきました。


(了)



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コメント

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四季歩さん、こんにちは

円照寺、10年以上前に「武蔵野七福神」巡りを行った際、行ったことを思い出しました。

鷺は最近、増えたのか、よく見るようになりましたね。京都に行った時も鴨川に沢山、いましたし、先日、亀戸天神に行った時も、1匹だけでしたが、池の所にいました。

高正寺の板碑も中々、良い感じですね。建長の板碑を含めて、板碑はきちんと保護されているようですね。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
matsumoさんは七福神めぐり、熱心ですが、
武蔵野七福神もやられたんですね。

鷺が増えたのは、川の浄化に各地域で取り組んでいる
からなのでしょうね。
たしかに川は綺麗になりました。

関東における、中世武士団の活躍は、歴史愛好家の
中心テーマですからね。

板碑の研究も盛んです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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