典厩寺・川中島古戦場・山本勘助の墓

20140529

5月27日・28日に歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行に参加しました。
朝7:00に狭山市をバスで出発して、上信越高速道の長野インターを降り、最初に訪れたのが「典厩寺」です。

【典厩寺】
所在地:長野県長野市篠ノ井杵淵1000

寺名の由来は、永禄4年(1561)の川中島の戦いで、武田信玄の弟・武田信繋が当地八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、松代藩初代藩主真田信之が信繁の官職「左馬頭(さまのかみ)」の唐名「典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。
その後歴代藩主から手厚い保護をうけています。

山門
松代藩三代藩主真田幸道の霊屋の門を移したものと伝えられている。
140529shinano01.jpg


山門を入ってすぐ左に閻魔堂があります。
140529shinano02.jpg


八代藩主幸貫は、万延元年(1860)川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、甲越戦没者の菩提を弔った。

閻魔堂の屋根には、甲斐武田家の紋所「武田菱(割菱)」と信繋に許された「花菱(唐花菱)」の紋が並んでいる。
140529shinano03.jpg


閥魔大王像
川中島合戦後300年を記念して造られた閥魔大王像は、日本一大きいとされる。約6mもある。
140529shinano04.jpg


後壁に四天王が描かれ、
140529shinano05.jpg


140529shinano06.jpg


天井には三十三身の観音菩薩が描かれている。
140529shinano07.jpg


閻魔堂横の首清めの井戸
討死した信繁の首を敵から奪い返し、井戸で丁寧に清めた後葬ったといいます。
140529shinano08.jpg


140529shinano09.jpg


庭に歩き出すと、眼前に大きな枝垂れ桜があった。これは来年の桜詣での一つとなりました。
140529shinano10.jpg


根元に、初代住職使用の座禅石がある。
140529shinano11.jpg


武田信繋の墓
140529shinano12a.jpg


140529shinano12.jpg


140529shinano13.jpg


信繁隊は千曲川畔まで進退すること三度、味方は次々と討死してい<。朝霧の晴れゆ<かなた、八幡原を見れば兄信玄の旗本隊も越軍に押され苦戦の表中。甲斐源氏武田の棟梁、兄信玄のことが我が身よりも案じられ、日頃、他の兄弟よりも自分に目をかけ、可愛がって<れた兄への慕情が激しい戦いの中にも頭をかすめる。弟の身を案じて兄にもしものことがあったら、それこそ武田の家運も尽きるものと信繁は信玄のもとへ急使を走らせ、「私を助けよと思い召さるな。私が敵を防いでいる間に勝利の戦術を」と伝えさせ、そして家来の春日源之丞を馬前に呼び寄せ、紺地に信玄直筆の法華経陀羅尼品の経文を金粉で書いた母衣(鎧の背につけて飾りとし、時には流れ矢を防いだ具)と乱れ髪の一握りを切って渡し、「われ討死の後は、わが子信豊に与えよ」と遺言し、群がる越軍の中に駆け入って、さんざんに斬りま<ったが、多勢に無勢力尽きて、越後の猛将宇佐美駿河守の繰り出す槍に脇腹を突かれ討死した。時に信繁37歳であった。
信繁の死骸は千曲川こ転げ落ち、浮き沈みして流れていくのを「よき御大将の御菖を」と、宇佐美の家臣梅津宗三が川に飛び込んで死骸を抱え首を取ろうとした。そうはさせじと、これまた信繁の家来らが千曲川に飛び込んで相戦い、とうとう梅津を討ち取り、死骸を川辺に引き上げ、討死した場所で信繁の死骸を荼毘に付し、手厚<葬った。そこが信繁の墳墓のある場所という。
(激闘! 川中島合戦をたどる 岡澤由往著より)

懐古の碑
伊藤祐亨元帥揮毫による碑
140529shinano14.jpg


140529shinano15.jpg


右に謙信の力試しの石
140529shinano16.jpg


左に信玄の愛石
140529shinano17.jpg


本堂
140529shinano18.jpg


本堂入り口の両脇には両軍の旗があった。

上杉軍の旗「び・りゅう」
140529shinano19.jpg


武田軍の旗「風林火山」
140529shinano20.jpg


屋根の鬼瓦と軒先瓦
140529shinano21.jpg


140529shinano22.jpg


武田上杉両雄合戦の碑
140529shinano23.jpg


140529shinano24.jpg


境内にあった「川中島合戦記念館」には色々な資料が展示されていたが、ここでは肖像画を紹介しておきます。
上杉謙信
140529shinano25.jpg


武田信玄(自画賛)
140529shinano26.jpg


信玄公陣中のお守り「武田不動尊」
140529shinano27.jpg


武田信繁
140529shinano28.jpg


山本勘助
140529shinano29.jpg


武田家使用の火縄銃。重さ16キロ、長さ175センチ。
140529shinano30.jpg


庭に縁起物の大灯篭があった。
十二支とカエルを触って、若がえる、旅かえる、宝かえる、だそうです。
140529shinano31.jpg


中に灯ではなく、観音像が。
140529shinano32.jpg


十二支
140529shinano33.jpg


カエル
140529shinano34.jpg


気が付くと、閻魔堂のそばに木賊がたくさん生えていた。
これは刀を磨くのに使用するので、武家の家には必ず植えてあったといいます。
140529shinano35.jpg


次いで、バスで川中島古戦場(八幡原史跡公園)に移動します。

【川中島古戦場(八幡原史跡公園)】
所在地:長野県長野市小島田町

バスから降りると、名物の案内オバちゃん(売店のひと)につかまりました(笑)
140529shinano36.jpg


ハッピの背中には、誇らしげに二代目と。
140529shinano37.jpg


神橋
140529shinano38.jpg


鳥居
140529shinano39.jpg


140529shinano40.jpg


手水舎
140529shinano41.jpg


140529shinano42.jpg


川中島合戦の図
140529shinano43.jpg


川中島合戦については有名すぎる話なので、ここでは省略します。

両将一騎打ちの銅像
140529shinano44.jpg


140529shinano45.jpg


八幡社
140529shinano46.jpg


140529shinano47.jpg


140529shinano48.jpg


140529shinano49.jpg


鞘堂(旧社殿)
140529shinano50.jpg


三太刀七太刀の碑
140529shinano51.jpg


執念の石
上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。
急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤(はらおおすみのかみとらたね)は傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。
140529shinano52.jpg


槍が貫いた穴
140529shinano53.jpg


首塚
140529shinano54.jpg


140529shinano55.jpg


140529shinano56.jpg


逆さ槐(えんじゅ)
山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍狭撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をはりめぐらして本陣をおいた。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。
140529shinano57.jpg


140529shinano58.jpg


芭蕉句碑
「十六夜も まだ更科の 郡かな」
140529shinano59.jpg


140529shinano60.jpg


田中月亀父子の歌碑
140529shinano61.jpg


140529shinano62.jpg


そこから、ハズで山本勘助の墓の近くまで移動しました。

【山本勘助の墓】

千曲川の更埴橋のたもとでバスを降ります。
140529shinano63.jpg


土手をしばらく歩いて、土手下に下るとありました。
140529shinano64.jpg


左に行くと、広瀬の渡しです。
武田信玄が甲斐より海津城に入る時、海津城を出て八幡原に陣を構える際に渡った。
江戸時代には、全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺に至る時渡った。
140529shinano65.jpg


勘助の墓
川中島の激戦で討死した山本勘助の墓は当初、東寺尾高畑地区にありました。
千曲川の流れで墓が荒廃したため、元文四年 (1739)松代藩家老鎌原重栄らが、柴の阿弥陀堂境内に墓地を造り、古骨と鎧通しの短刀を壷に入れて移しました。文化六年(1809)重栄の孫重賢が柴阿弥陀堂の束側に土盛をし、石の土台を築き現在地に墓を移した。
140529shinano66.jpg


140529shinano67.jpg


この墓の台石に彫られた、山本勘助とこの墓の来歴を記した書の説明が、囲みに貼ってありました。
140529shinano68.jpg


140529shinano69.jpg


140529shinano70.jpg


140529shinano71.jpg


ここから、私たちは「大室古墳群」に向かいました。
次回の記事で。

(続く)

「続く」の記事に飛ぶ


歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

trackback

ケノーベルからリンクのご案内(2014/05/30 09:14) :ケノーベル エージェント

長野市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。

コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

おつ、今度は歴史クラブで1泊2日の旅行ですか! すごいですね。団体の場合、日帰りでも大変なのに泊まりがけですか。

川中島は2年程前に長野駅からバスで松代駅に行く時の途中にあり、帰りに寄ろうかと思ったのですが、ものすごく暑い日だったので、疲れ果てて、下りる気は起きませんでした。

閻魔像、6mは大仏と言ってもよい大きさですね。また、天井絵もすごそうです。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
川中島はとにかく、典厩寺は良かったですね。
閻魔様はじめ、なにしろ歴代の真田藩主が手厚く
保護をしたところですから。
非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop