松代町散策(山寺常山邸・恵明寺・大本営地下壕(象山地下壕)・旧松代藩鐘楼・長国寺・旧横田家住宅・旧樋口家住宅・真田邸・真田宝物館)・清水寺・真田信重霊屋

20140603

歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行の二日目、松代の町の散策で象山記念館の後、訪ねたのは山寺常山邸です。

【山寺常山邸】
山寺常山は儒者・鎌原桐山、維新の先覚者・佐久間象山とともに“松代三山”と呼ばれ、寺社奉行、郡奉行を務めました。

長屋門形式の表門は間口約22メートルで、松代城下に残る門のなかでは最大。
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象山を借景とした庭園には神田川の水を引き入れた池(泉水)があります。
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驚いたことに「コウホネ」が咲いていました。
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渡り廊下でつながる書院には、「萬竹庵」の扁額が残り、その意匠性の高さから近代和風建築の秀作と評されています。紙で作った手作り甲冑が飾られていた。
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山寺常山の碑
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めた。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していた。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめた。
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土蔵を改造して、「唱歌・童謡歌詞展」をしていた。
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しかし、この松の傾きは・・・・・・・・(笑)
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【恵明寺】
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恵明寺(えみょうじ)は旧松代藩・真田家ゆかりの寺です。三代真田幸道により開基。
開祖木庵禅師が中国で最後に住持をしていた寺が泉州の象山慧明寺でした。これにちなんで象山恵明禅寺と称しました。
佐久間象山の号は本寺に因んだとされる。

入ってすぐに杏の古木があった。
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恵明寺の本堂は長野県の登録有形文化財に指定されています。天保4年(1833)に建てられた建物で、木造平屋建、桁行5間梁間6間、入母屋造り、桟瓦葺で、一重裳階付仏殿風の外観となっています。建築面積は119平方mです。地方における黄檗宗仏殿の遺構です。
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中に入ると、身舎の柱が下から一本で上に伸びている。普通向背に見られる木鼻の彫刻が建物の中に設けられている。
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中央蟇股の彫刻が「茄子」なのが面白い。
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須弥壇
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「豊姫」の霊屋の前に枝垂れ桜が覆いかぶさっている。桜の時期は見事だろう。
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「豊姫」の霊屋
豊姫は伊達政宗の孫になります。伊予宇和島藩主・伊達宗利の娘で延宝元年(1673)に15才で嫁いできました。その際「鉢植の杏」を取り寄せました。この杏が松代藩の殖産興業となった。
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中を除くと、御位牌の前に沢山の人形が供えられていた。
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【大本営地下壕(象山地下壕)】
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太平洋戦争末期、日本(当時の大日本帝国)の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。また皆神山地下壕には備蓄庫が予定された。
関連施設は善光寺平一帯に造られたため「一大遷都」計画であった。上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山には送信施設、埴科郡清野村(現在の長野市)妻女山に受信施設、上水内郡茂菅村(現在の長野市)の善光寺温泉及び善白鉄道トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われている。

下図の青い部分が、見学できるのだが、残念なことに6月は補修工事のため入れなかった。
又の機会である。
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入り口
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覗き込むと、中に重機が入って、けっこう大変な工事となっているようだ。
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傍らに、「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念塔」があった。
約9ケ月の突貫工事に一万人が当たり、うち7000人が朝鮮人労働者であった。人海戦術の工事であり、当時の事情を考えると、過酷であったのは間違いない。
近くには慰安婦所もあったそうだ。
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そこから、また歩いていると、民家で茅葺の屋根がまだあった。
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【旧松代藩鐘楼】
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この鐘楼は初代藩主・真田信之が1622(元和8)年に松代城主となって間もない1624(寛永元)年に火の見櫓とともに設置されました。城下町の人々に時を告げるべく、1刻(2時間)に1回鳴らした。また出火の際も鐘を鳴らして非常を知らせた。

なお鐘は太平洋戦争で供出したため、現在の鐘は1991(平成3)年に設置された4代目となるそうです。
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「日本電信発祥之地」の碑
1849(嘉永2)年に、佐久間象山が日本で初めて電信機を作って、伊勢町御使者にある居館から、ここまで電線を架けて通信することに成功しています。
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そこから、ちょっと暑いなかを歩いて、この日の昼食。「食いしん坊 かじや」です。
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とにかくふわふわのとろろ汁にビックリしました。ダシも絶品でした。
出てきたもので覚えているものをあげてみましょう。
長芋のポタージュ、むかご、長芋の湯葉、長芋の田楽、信州サーモンの刺身、おひつに入った白飯の上に、まぐろの刺身が乗って出てきました。「とろろ汁」がついてきました。デザートは長芋のお汁粉(小さい餅入り)。

ここのとろろ、絶品でした。こんなとろろがあれば何杯でもご飯が食べられます。家でもこんなとろろが食べたい!!
カミさんを連れてきて、この味で・・・・・、としないとわからないだろうなあ・・・・・・

【長国寺】
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山号は真田山。本尊は阿弥陀如来。松代藩真田家の菩提寺。
この寺は、天文16年(1547年)真田幸隆が開基となり伝為晃運を開山として信濃国小県郡真田(現在の長野県上田市真田町)に建立した長谷寺に始まる。江戸時代に入り真田信之が元和8年(1622年)信濃国埴科郡松代に移されると、当時の長谷寺の住職を開山として松代に建立されたのがこの寺である。真田家からは黒印地として200石が与えられていた。
当初は七道伽藍が立ち並んでいたが、享保2年(1717年)の大火で全焼。寛保2年(1742年)の大洪水(戌の満水)で本堂が大破するなどしたが、文化7年(1810年)復元された。しかし、明治5年(1872年)本堂から出火し、寺宝・経巻・文書などほとんどを焼いてしまった。現在の本堂は明治19年(1886年)に再建された。

霊屋は離れた場所にあったため、江戸時代に建てられた5棟の霊屋全部が幕末まで残り、うち真田信之(松代藩初代藩主)、真田幸道(3代藩主)、真田信弘(4代藩主)の霊屋3棟は長国寺に現存する。真田信之霊屋は万治3年(1660年)の建立とされ、入母屋造で正面に千鳥破風と軒唐破風付きの向拝を設けている。建物内外を極彩色と装飾彫刻で飾っており、表門とともに国の重要文化財に指定されている。真田信弘霊屋は元文元年(1736年)の建立とされ、方三間、宝形造、向拝付の簡素な建築で、表門とともに長野県宝に指定されている。

本堂
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屋根のシャチホコがすごいもんです。
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山号が「真田山」
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真田家の紋の一つ「結び雁金」がこのようにして。
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本堂裏にある開山堂。
もとは真田幸道霊屋として建てられたが、明治19年(1886年)の本堂再建の際に移築された。方三間、宝形造で、回縁と前面の向拝は撤去されている。表門は西寺尾典厩寺に移された。
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松代藩の家臣などの墓のうち、「恩田木工(もく)民親の墓」
恩田木工民親は、六代真田幸弘に登用され、藩の財政再建に取り組んだ。前藩主のときの財政再建が失敗し百姓一揆に発展してしまい、藩の存亡危機につながったこともあり、恩田木工の改革は百姓に対しても改革の必要を諄々と説き、他藩のような商業的な改革ではなく、領民の人心を得ることで解決する改革であった。
これは財政改革に当たらないとする見解もあるが、松代藩は木工の政策により財政を多少持ち直し、また当時の封建社会において百姓領民から直接話を聞くという率直な態度をとった木工の改革は、後世からは高く評価されている。
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ところが長国寺の裏手の、歴代の藩主の霊屋や墓、供養塔を見たかったのだが、入れない(泣)
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遠くから、望遠で誰かの霊屋を撮ったのみ。
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塀の周りをウロついていたら、「真田家之墓」という一角があった。
三基の墓碑や五輪の塔があったが、天保11年、寛文7年、昭和38年であった。
おそらく真田家の血筋の家だと思われる。
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長国寺の次には「祝神社」にお参りしたのですが、ここは式内社でもあり、別途記事にします。

【旧横田家住宅】
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1800年代前半から中頃にかけて建築されたとみられる中級武士の武家屋敷です。
松代の中級武家住宅の典型的な間取り、構成を残しており、1986(昭和61)年に国の重要文化財に指定されました。長野市が保存・修景工事を行い、1992(平成4)年から一般公開されています。
長屋門・一部2階建ての主屋・隠居屋・土蔵、遠山を借景とする庭園・菜園、庭に流れる泉水などを見ることができ、江戸時代の中級武士の暮らしが身近に感じられます。
横田家は、「富岡日記」で知られる和田英をはじめ、幕末から明治・大正・昭和にかけ、最高裁判所長官、鉄道大臣など多くの人材を輩出しました。
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主屋の部屋
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勝手
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土間から入ったところに腰かけて、茶など飲んで休憩できる造りになってました。
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土蔵が二つ。
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左が主屋、右が隠居所。
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隠居所とは、渡り廊下などで繋がっていない。
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【旧樋口家住宅】
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松代城のすぐ東南に位置し、城の正面口にあたる大御門(大手門)や新御殿(真田邸)に近いこの界隈は、上級武士が多く住む武家屋敷町でした。樋口家はその中でも中心的な位置にあり、藩の目付役なども務めた家柄です。
主屋、土蔵、長屋、屋敷神の祠、表門、土塀、板塀が修景・復元されています。主屋、土蔵、長屋の3棟が長野市の文化財(建造物)に指定されています。
敷地のほぼ中央に泉水路が東西に流れ、池の南側に広がる雑木林と竹林、庭園は、江戸時代、畑として使用されていました。建造物、庭、泉水路などを含め、松代藩の上級武士の屋敷の姿をよく伝えています。

主屋
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屋敷神が祀られている。
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茅葺の屋根が美しい。
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レキジョでしょうか・・・・・・
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【真田邸】
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九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。
江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務づけられていましたが、1862(文久2)年、十四代将軍・徳川家茂の時代に行われた文久の改革による参勤交代制度の緩和にともない、妻子の帰国が許可されたことから、松代にも屋敷が必要になりました。のちに、隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。1966(昭和41)年、十二代当主・幸治氏により代々の家宝とともに当時の松代町に譲渡されました。

長い廊下をズンズン奥まで入っていく。
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一番奥にあったのは、殿さまの雪隠(笑)
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居間は、くだけた色どりがありますね。
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表座敷になると、襖の絵も上品です。
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縁側に座って眺める庭だそうです。
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亀のような岩
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植え込みも亀にしつらえてあった(笑)
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真田邸から真田宝物館に移動するときに通った公園に、先ほど紹介した「恩田木工民親」の銅像がありました。
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【真田宝物館】
ここには、真田家歴代の宝物が展示されていて、駆け足で見たのですが、もう一度ゆっくりと拝見したいと思った。

真田家の家紋
よく「六文銭」と呼んでいますが、正しくは「むつれんせん」でした。
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「ルーフル」
戦での指揮具。大隊に指示を出すときに使われたと考えられる。
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「十二支砲隊支隊旗」
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九代藩主真田幸教夫人の甲冑
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真田昌幸の甲冑「昇梯子の具足」
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六連銭の旗印
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NHKテレビ人形劇「真田十勇士」での、辻村ジュサブロー作「真田信之」
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伝 真田幸村所有の刀
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真田信之画像
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小松姫画像
小松姫は、私の好きな女性なので、ちょっと長いが紹介しておきます。
上田合戦における真田の軍略に惚れ、また恐れた忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。家康もまた、上田合戦後に面会した信之の器量に感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾。小松姫を自らの養子として、真田家へ嫁がせることとした。なお、小松姫と信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。
父・忠勝に似たのか、勇ましいエピソードが伝わっています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった舅の昌幸が居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した。これに対し小松姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と申し出を断った。程なく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、昌幸の願いをかなえた。これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、信繁父子が九度山に追放になった後も、食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなり、夫・信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に分骨されている。また、長野県長野市松代町松代の大英寺に霊廟がある。
小松殿が亡くなった2年後、信之は上田から松代へ移封になります。小松殿が生きている間は将軍・秀忠も真田家には手を出せなかったのかもしれません。
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「唐冠形(とうかんなり)兜」
真田家の重臣・矢澤頼幸が豊臣秀吉から拝領した。
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これで、松代の町の徒歩での散策は終了。
真田宝物館の駐車場で待っていたバスに乗り込みました。

【清水寺】
所在地:長野市松代町西条147
開山は今から1200年ほど前、延暦22年(803年)、寛空上人が開山したと云われており、坂上田村麻呂が東北に遠征に向かった際に、戦勝祈願が為に建立されました。
火難により一時衰亡に瀕したものを川中島決戦の折、武田信玄公より供料を給わり伽藍を再建いたしました。依って武田家が中興開墓となっております。
その後、江戸時代正徳年間(十八世紀初)の火難により善美壮麗を尽くした堂塔伽藍は悉く焼亡し、享保年間(十八世紀初)、十二原から少し山を下った現在地に仮堂を建立し移転いたしました。

仮堂
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国宝が三体あります。
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『千手観音』
頭部から足先までを堅い桂材の一木から彫成した、所謂一木造の典型的な像で正面の遥か彼方を直視するかにみえる姿は、他の菩薩像の動的な表現に比べていかにも静寂で、しかも典雅であり、衣紋の彫り口も他の像に比べると穏やかに品よくまとまっていいます。
製作は九世紀の頃で、信州における現存最古の木造であり、一木造りの仏像では東日本で最も古いほとけさまです。中尊の静けさと、両側の菩薩像の動態とが対比されて、この堂内に平安時代も早い頃の信州の造像活動の粋が示されています。
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『聖観音』
腰下の裳の衣文は、大きなヒダの間に小さいながら鋭い小波を配した、いわゆる翻波式といわれる衣文の刀法を示しています。これは平安初期の造像の一つの特色でもありす。
動きの激しい像容と、この鋭く深い衣紋の意匠とが巧みに一致して、いかにも平安初期の、強く動きの激しい様式的な特色を示しています。
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『地蔵菩薩』
一木造りの本像も、他の清水寺所蔵の古像と共に信州における最古の木彫像です。
いかにも堂々たる量感、動きのある像容、そして彫りの強い衣紋の特色が見受けられます。これらの特色は聖観音像の特色と共通するもので、やはり九世紀〜十世紀初頭の典型を示しています。
清水寺の地蔵菩薩は、錫杖を右手に握るお姿をしています。この姿は、十三世紀(鎌倉時代)からみられる特色であり、十三世紀以前は右手をそっと垂らしているお姿でした。造像当時からこのお姿であれば、錫杖を持ったお姿の地蔵菩薩として、日本最古の像と云われています。
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【真田信重霊屋】
所在地:長野県長野市松代町西条
重要文化財
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真田信重は松代真田家の初代信之の第三子である。この霊屋は慶安元年(一六四八)に信重が死去し、間もなく建立された。三間四方の小堂ながら建立年代が明らかで、内部の装飾などに当時の手法がみられ、地方藩主の霊屋として貴重である。屋内の前机および釣灯籠も慶安の銘があり附指定になった。
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各部の意匠は、堂々として、美しい。
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ここから更に「明徳寺」に行った。
武田の智将といわれた海津城主・高坂弾正忠の墓があり、映画『硫黄島からの手紙』で注目された栗林忠道中将(長野市松代町出身)の墓碑も建立されている。

だが、無情の電池切れである。
電池は、最近動画をよく撮るので、常にスペアを2つ携行している。日帰りであれば余裕シャクシャクであった。
今回は、帰ってから確認したら、ここまで944枚を撮っていた。
分かっていれば、画質をちょっと落としていれば最後まで撮れたと思うのだが(泣)
常に最高画質で撮っているので・・・・・

スマンです。


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コメント

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四季歩さん、こんにちは

スペアを入れて3本の電池持参で、電池切れですか!! ううん、電池はほおっておくとまた、使えるようになることもあるので、もしかして、最初、あるいは次に電気が無くなった電池を入れれば、使えたかも。まあ、私の場合も電池切れと言うことがあるので、その場合、しばらく、待ってからスイッチを入れると、また、何枚かは撮れるのですが。

地下壕は休みでしたか! それは残念でした。あそこ、夏に入ると、ヒンヤリしていて、いいのですが。

真田邸は私にとっては庭が一番でした。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
大本営地下壕は、私はまだ入ったことないので、
入れないのが残念でした。
また来い、ということでしょうね(笑)

真田邸の庭、良かったです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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