一夢庵風流記/隆慶一郎

20140623

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以前、「花の慶次」という漫画を拾い読みしたときに、前田慶次郎という前田利家の甥が居ることを知った。
それ以降、なかなかの風流人とも、なかなかの「いくさ人」だとも断片的に知ったことがある。
それで、この本を読んで見た。
私は、隆慶一郎という作家の本は初めてだった。
読んで見たら「伝奇ロマン」ものだった。
こういう本は嫌いではない。好きな方だ。

ただ、動機が前田慶次郎を知りたいと思い読んだので、事実のほうもきちんと把握しておきたいと思って、この本を読んでから、Wikipediaに載っていることと比較してみた。
だから内容の紹介と一緒に、事実的なものも述べておく。

舞台は戦国時代末期。織田信長に仕え「槍の又左」と呼ばれた前田利家には兄利久がいた。その兄の養子が本作の主人公前田慶次郎(前田利益)である。愛馬・松風との出会い、親友・直江兼続との出会い、朝鮮斥候の任務などを中心に、天下御免の傾奇者として知られた前田慶次郎の活躍を描く。

前田慶次郎利益(利太とも書く)は滝川左近将監一益の従兄弟(甥ともいう)滝川儀太夫益氏の子である。尾張荒子城主・前田利久の養子になり、当然その跡目を継ぐはずだったが、織田信長の命により荒子城の主は前田利家に譲られることになった。
慶次郎は人生の出発点でけつまずいたことになる。これが彼を「無念の人」とし、後の傾奇者としての人格形成に大きな影響を及ぼしたであろうことは、想像に難くない。
これは、織田信長が旧守勢力林佐渡守の勢力を削ごうとして、子飼いの利家を無理押ししたせいだ。
信長の行政手腕の一コマである。

前田慶次郎の名前は複雑である。複雑な人生を送ったことを物語っている。
Wikipediaによれば、通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次など。諱は利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。現在の歴史本などでは利益、又は利太と表記する事が多いが、本人自筆のものでは啓二郎(前田慶次道中日記)、慶次(倉賀野綱秀宛書状)、利貞(亀岡文殊奉納詩歌、本人旧蔵とされる徳利)のみ。本人自筆の物以外での当時の史料として伝わっているものは、慶二(前田利家からの書状)、利卓(野崎知通の遺書)。利益、利太、利大の表記に関しては二次史料以降のものに記述が見られる。また浪人時代は「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。『鷹筑波』『源氏竟宴之記』によると「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

天正9年(1581年)頃、信長の元で累進し能登国一国を領する大名となった利家を頼り仕える事になる。利家から利久・利益親子には7千石が与えられた(その内利久2千石、利益5千石)。

四年後、養父の利久が死に、慶次郎と前田家のつながりがほとんど切れた。
慶次郎は秀吉の九州遠征に参加を許されなかった。慶次郎のあまりの剽悍ぶりが前田家中で評判が悪かった。馬小屋では甲高いいななきの声が起きた。慶次郎が伴侶のように愛している松風という悍馬の声である。
家老の奥村助右衛門が慶次郎を訪ねてきた。慶次郎は金沢を離れるつもりになっていた。それを察した奥村は利家と別れの茶会を持てという。
そこで起こるのが「水風呂事件」
Wikiの逸話集から。
慶次郎(利益)は利家に「これまでは心配かけてしまい申し訳ありませんでした、これからは心を入れ替え真面目に生きるつもりでございます、茶を一服もてなしたいので自宅に来て頂きたいと思います。」と申し入れた。利家は慶次郎が改心したと喜び、慶次郎の家を訪ねると利益は「今日は寒かったので、茶の前にお風呂はどうでしょうか?」と利家に勧めた。利家は「それは何よりのご馳走だ」と承諾し慶次郎と風呂場へ向かった。利家が衣を脱いでいると、先に慶次郎が「丁度良い湯加減です」と言いその場を去った。利家がそれを聞き湯船に入ると氷のような冷水であった。これには温厚な利家も怒り「馬鹿者に欺かれたわ、引き連れて来い」と供侍へ怒鳴ったが、慶次郎は愛馬松風(利家の愛馬「谷風」ともいう)へ乗って無事に国を去った。利益の逸話の類で最も有名なのが、この水風呂の逸話であるが、初出は江戸時代後期の随筆集「翁草」であり信憑性は低い。また翁草では「利家が浴室にむかうと」との記述であったが、後年「常山紀談」などで「湯船に入ると」に脚色されている。

金沢を出奔した慶次郎は京都で浪人生活を送る。
天正十六年、慶次郎は遊び暮らしたようだ。慶次郎の遊びは風雅の道である。記録によると、一条関白兼冬、西園寺右大臣公朝の屋敷に出入りし、三条大納言公光について、源氏物語と伊勢物語の講釈を聞き、その伝授を受けたといわれる。茶を千宗易に学び、和歌・連歌、乱舞・猿楽、笛・太鼓まで一流の腕だったと「上杉将士書上」にある。

傾奇者の間で有名になってしまった慶次郎。決闘を挑む輩が後を絶たない。こうした中での事件がきっかけで、慶次郎は直江兼続と知り合うことになる。そして、慶次郎はすっかり直江兼続に惚れ込んでしまった。三日とあけずに訪問するようになった。

上杉が佐渡を討伐する軍を動かすと聞いて、慶次郎は越後まで押しかけた。押しかけの助っ人である。
この佐渡の合戦から一年経って、慶次郎は京に戻っていた。そして、秀吉による北条攻めが始まろうとしていた。
北条をたいらげ、天下は秀吉のものになった。
太平の世になるはずだったが、秀吉は明征服を標榜し始める。そのため、朝鮮との交渉が始まった。そして、その朝鮮の実情を知るために慶次郎が送り込まれることになった。
慶次郎は自分を狙う刺客・金悟洞を捨丸の時同様に手なずけ、神谷宗湛がつけてくれた案内人弥助とともに朝鮮を見て回った。

そこで、この小説の白眉、朝鮮の美姫と知り合う。
滅びてしまった伽耶の姫であり、伽耶琴の名手であり、すこぶる美人である。
相愛の仲となり日本に連れ帰る。

WIKIに載っているが、関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を自ら日記に記している(前田慶次道中日記)が、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせる。道中日記の記述から、少なくとも三人の朝鮮人を召使いとして従えていたことが分かる。その親が病にかかってしまったため、菩提山城の城主(竹中重門か)に書状を送って預け、子二人と旅を続けた。この時利益は「今日まではおなじ岐路を駒に敷き立ち別れけるぞ名残惜しかる」と詠み、別れを悲しんだ。なお、父親が預けられたとされる菩提山城(垂井町)にほど近い養老町には利益に関する伝説が残り、「前田の碑」が建っている。

実際、前田慶次郎が朝鮮に行ったときに現地の人と深い交流があって、事情があり日本に連れ帰った事があったのだ。

ただ、前田利家と「まつ」をもうちょっときちんとした人間に書いて欲しかった。前田慶次郎が「割りを食った」原因の人であるから、この本でこんなふうに書くのも仕方ないかもしれないが・・・・・・・
百二十万石を勝ち得て守った二人なのだから。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

前田慶次郎って、確か、以前に読んだ近衛龍春著「直江山城守兼続(上)(下)」の中でかなり描かれていた記憶があります。後は、先日、読んだ一種の太閤記の中で名前だけ出てきた記憶があります。

でも、私の場合は、太閤記は好きですが、他の武将は興味の外なので、残念ながら、前田慶次郎についても、そう言う武将がいたと言う程度しか知らないです。


matsumo さん

コメントありがとうございます。
matsumoさんは、秀吉一辺倒ですか。

前田慶次郎は傾奇者なので、噂を聞きつけた秀吉に
呼び出されたときに、周りの者を仰天させる
振る舞いがあったようです。
それも二度までも(笑)
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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