楯縫神社(延喜式内社)/茨城県稲敷郡美浦村
20140704
所在地:茨城県稲敷郡美浦村郷中2988番地
6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
鹿島神宮からバスで移動し、こちらの神社にお参りしました。
参道が長いというので、バスが奥の方に行ってしまい、一の鳥居を確認できないことも多いので心配していましたが、県道の脇に一の鳥居があり、そこにバスを停めることになったので、よかった。

社号標
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)、古名は信太(しだ)郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。
美浦村信太にも同名の楯縫神社(扁額に信太郡惣社としている)がある。

由緒ですが、社伝と別伝があります。
社伝:
主祭神:普都主命
磐筒男・磐筒女、二神之御子で武甕槌命と共に高天原より降って此の国を平定し給う時に自ら齋主神となって神祇を祀り給うた。その為後世戦陣の門出には命を祀るが例となった。昔古大神葦原を平定し復命の時此の地に暫時留り賜へ楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と稱していたが同年七月三日城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内神代大杉 五丈八尺余の霊木の繁り生う地なるが故に大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古には鹿島神事と申して氏子中、吉日良辰を卜い定めて惣氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集合いたし御雷大神、普都主大神の神輿を供奉し霞ヶ浦を渡御竹来二の宮阿彌神社へ送り奉る古式祭が行われた。往古は御神領五十三町歩余ありしが興国年中(西一三四〇)高師冬以賊軍をもって信太の荘を責取らんが為、土人屋代信経と云う者を嚮道として信太の荘を侵し此の時神領不残椋奪され無禄となる。
勧請年歴 人皇参捨四代推古天皇の十六年宮造り607 大同二年再建807 文明八年再建1476 天正十七年藤原利勝 拝殿寄進1589 嘉永七年再建1854
別伝:
新編常陸国誌(江戸時代後期の国学者である中山信名という人が編纂)は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。
稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。
思うに、これらの神社を祀った人々は元は出雲の出身だった可能性が高い。というのも出雲にはかつて楯縫郡という地名があり、『出雲国風土記』に「布都怒志命、天石楯縫ひ直し給ひき。故、楯縫と云ふ」とその名の由緒が見える古い地名なのである。そしてここには現在の当社の祭神、経津主神(フツヌシ)も出てくることも注目できよう。
そして彦狭知命は、後で説明のように工匠の守護神として知られ、土木、建築技術者から崇敬を集めています。
こうしてみると、当社を最初に祀った人々は①タケミカヅチやフツヌシを奉じる氏族(=中臣氏(藤原氏))とも、②出雲系の部民、職人集団で、①の東国征服に力を貸した者たちだったとも推測ができると思う。
*中臣氏(⇒藤原氏)は天児屋根命を祖とするが、タケミカヅチとフツヌシ二神を守護神とし、河内に本拠を持ち、この一帯(鹿島神宮、香取神宮に代表される地域)にも一族が勢力を持っていた。
大鳥居(石造八幡鳥居)


参道は、深い木立の中100m以上ある長いものです。

途中、両部鳥居の二の鳥居があります。

また参道が続きます。

手水舎

社殿の前にきました。

拝殿



本殿
天正17年(1589)造立、近藤利勝(当地の領主、近藤式部大輔藤原利勝)の寄進と伝えられている。




主祭神:普都主命(社伝)、彦狭知命とする別伝もある。
配祀神:大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命
普都主命は経津主神 (ふつぬしのかみ)とも呼ばれ、はっきりしない神で色々な説があります。
長くなるので、ここでは省略します。Wikipediaなどで確認してください。
私は、建御雷之男神が出雲の浜で大国主命に国譲りを迫った際波頭に突き立てた剣、神武天皇の東征の際に熊野で神武天皇が正気を失って倒れた時に天照大御神と高木の神の要請で建御雷之男神が高倉下に託して神武天皇に与えた剣「布都御魂(ふつのみたま)」を神格化したとする説が好きです。
彦狭知命 (ひこさしりのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際、手置帆負神とともに天御量(あめのみはかり)を使って木材を集め、瑞殿(みずのみあらか)を造営しました。
神武天皇の橿原造営の際には、彦狭知命と手置帆負神の子孫が斎斧(いみおの)や斎すき(いみすき)を使って、正殿の造営を行ったとされています。
一方『日本書紀』には、彦狭知命は、祭祀に用いる神聖な盾を奉製する「作盾者(たてぬい)」の役割を与えられると記されています。
一般的に上棟祭では、家屋を守護する神様である屋船久久遅命と屋船豊于気姫命、工匠の神様である手置帆負命と彦狭知命、そして地域の神様である産土神を祀ります。
神紋は、「右三つ巴」と「十五弁八重菊」でした。「十五弁八重菊」は初めてです。

ここには、木製の狛犬があるということで、特にお願いして見せていただきました。
拝殿に上がらせていただきました。

社額

狛犬は、ここに居ました。

一の鳥居のところにあった狛犬の説明を載せておきます。

向かって右側の阿形の獅子



向かって左側の吽形の狛犬



お神輿も安置されていた。

社殿の前に杉の大きな樹があった。


・境内北の方に、地名の由来となる杉の巨木の根幹(径六メートル余)があるとの情報があったが、これはわからなかった。
本殿を寄進した近藤氏の居城「木原城」が、ここより霞ヶ浦寄りにあるが、今は城址だけだが、城好きの人にはたまらないそうだ。
通常の城郭は、一番高い所に本丸を設ける。
ところが木原城は、一番低いところに本丸があったというのだ。
しかし、本丸裏手の水路を使って容易に霞ヶ浦に出られる。つまり脱出が容易な城で、現に二度落城したが、すぐにまた取り返したそうである(笑)
続いて、この日の最後の目的地「阿彌神社」に向かいました。
(続く)
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6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
鹿島神宮からバスで移動し、こちらの神社にお参りしました。
参道が長いというので、バスが奥の方に行ってしまい、一の鳥居を確認できないことも多いので心配していましたが、県道の脇に一の鳥居があり、そこにバスを停めることになったので、よかった。

社号標
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)、古名は信太(しだ)郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。
美浦村信太にも同名の楯縫神社(扁額に信太郡惣社としている)がある。

由緒ですが、社伝と別伝があります。
社伝:
主祭神:普都主命
磐筒男・磐筒女、二神之御子で武甕槌命と共に高天原より降って此の国を平定し給う時に自ら齋主神となって神祇を祀り給うた。その為後世戦陣の門出には命を祀るが例となった。昔古大神葦原を平定し復命の時此の地に暫時留り賜へ楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と稱していたが同年七月三日城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内神代大杉 五丈八尺余の霊木の繁り生う地なるが故に大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古には鹿島神事と申して氏子中、吉日良辰を卜い定めて惣氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集合いたし御雷大神、普都主大神の神輿を供奉し霞ヶ浦を渡御竹来二の宮阿彌神社へ送り奉る古式祭が行われた。往古は御神領五十三町歩余ありしが興国年中(西一三四〇)高師冬以賊軍をもって信太の荘を責取らんが為、土人屋代信経と云う者を嚮道として信太の荘を侵し此の時神領不残椋奪され無禄となる。
勧請年歴 人皇参捨四代推古天皇の十六年宮造り607 大同二年再建807 文明八年再建1476 天正十七年藤原利勝 拝殿寄進1589 嘉永七年再建1854
別伝:
新編常陸国誌(江戸時代後期の国学者である中山信名という人が編纂)は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。
稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。
思うに、これらの神社を祀った人々は元は出雲の出身だった可能性が高い。というのも出雲にはかつて楯縫郡という地名があり、『出雲国風土記』に「布都怒志命、天石楯縫ひ直し給ひき。故、楯縫と云ふ」とその名の由緒が見える古い地名なのである。そしてここには現在の当社の祭神、経津主神(フツヌシ)も出てくることも注目できよう。
そして彦狭知命は、後で説明のように工匠の守護神として知られ、土木、建築技術者から崇敬を集めています。
こうしてみると、当社を最初に祀った人々は①タケミカヅチやフツヌシを奉じる氏族(=中臣氏(藤原氏))とも、②出雲系の部民、職人集団で、①の東国征服に力を貸した者たちだったとも推測ができると思う。
*中臣氏(⇒藤原氏)は天児屋根命を祖とするが、タケミカヅチとフツヌシ二神を守護神とし、河内に本拠を持ち、この一帯(鹿島神宮、香取神宮に代表される地域)にも一族が勢力を持っていた。
大鳥居(石造八幡鳥居)


参道は、深い木立の中100m以上ある長いものです。

途中、両部鳥居の二の鳥居があります。

また参道が続きます。

手水舎

社殿の前にきました。

拝殿



本殿
天正17年(1589)造立、近藤利勝(当地の領主、近藤式部大輔藤原利勝)の寄進と伝えられている。




主祭神:普都主命(社伝)、彦狭知命とする別伝もある。
配祀神:大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命
普都主命は経津主神 (ふつぬしのかみ)とも呼ばれ、はっきりしない神で色々な説があります。
長くなるので、ここでは省略します。Wikipediaなどで確認してください。
私は、建御雷之男神が出雲の浜で大国主命に国譲りを迫った際波頭に突き立てた剣、神武天皇の東征の際に熊野で神武天皇が正気を失って倒れた時に天照大御神と高木の神の要請で建御雷之男神が高倉下に託して神武天皇に与えた剣「布都御魂(ふつのみたま)」を神格化したとする説が好きです。
彦狭知命 (ひこさしりのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際、手置帆負神とともに天御量(あめのみはかり)を使って木材を集め、瑞殿(みずのみあらか)を造営しました。
神武天皇の橿原造営の際には、彦狭知命と手置帆負神の子孫が斎斧(いみおの)や斎すき(いみすき)を使って、正殿の造営を行ったとされています。
一方『日本書紀』には、彦狭知命は、祭祀に用いる神聖な盾を奉製する「作盾者(たてぬい)」の役割を与えられると記されています。
一般的に上棟祭では、家屋を守護する神様である屋船久久遅命と屋船豊于気姫命、工匠の神様である手置帆負命と彦狭知命、そして地域の神様である産土神を祀ります。
神紋は、「右三つ巴」と「十五弁八重菊」でした。「十五弁八重菊」は初めてです。

ここには、木製の狛犬があるということで、特にお願いして見せていただきました。
拝殿に上がらせていただきました。

社額

狛犬は、ここに居ました。

一の鳥居のところにあった狛犬の説明を載せておきます。

向かって右側の阿形の獅子



向かって左側の吽形の狛犬



お神輿も安置されていた。

社殿の前に杉の大きな樹があった。


・境内北の方に、地名の由来となる杉の巨木の根幹(径六メートル余)があるとの情報があったが、これはわからなかった。
本殿を寄進した近藤氏の居城「木原城」が、ここより霞ヶ浦寄りにあるが、今は城址だけだが、城好きの人にはたまらないそうだ。
通常の城郭は、一番高い所に本丸を設ける。
ところが木原城は、一番低いところに本丸があったというのだ。
しかし、本丸裏手の水路を使って容易に霞ヶ浦に出られる。つまり脱出が容易な城で、現に二度落城したが、すぐにまた取り返したそうである(笑)
続いて、この日の最後の目的地「阿彌神社」に向かいました。
(続く)
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稲敷郡美浦村エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
なるほど、最初の頃の狛犬は神社の中にあったのですか。それならば、木像と言うのもよくわかります。
口を閉じている狛犬のユーモラスな感じでいいですが、口を開けた方は更に素晴らしいと思います。
なるほど、最初の頃の狛犬は神社の中にあったのですか。それならば、木像と言うのもよくわかります。
口を閉じている狛犬のユーモラスな感じでいいですが、口を開けた方は更に素晴らしいと思います。
matsumo さん
コメントありがとうございます。
狛犬は奥が深いですね。
そのうちに、集めた写真を整理して、
一つのカテゴリーで見てもらうのもいいですね。
狛犬は奥が深いですね。
そのうちに、集めた写真を整理して、
一つのカテゴリーで見てもらうのもいいですね。