江戸の経済官僚/佐藤雅美
20140707

この作家は、緻密な時代考証による社会制度や風俗を正確に描写し、とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく、これらの題材を種々おりまぜた多彩な作品を発表している。 デビュー初期には、歴史的な題材を経済面から考証した歴史経済分野の作品を発表していた。この時期の代表作は第4回新田次郎文学賞を受賞した『大君の通貨』がある。
私には、とても新鮮な話だった。
いままで経済面からの江戸時代を考えたことが無かったから。
頭に残っていることを、ちょっと抜き書きしてみても以下のようである。
家光の時代は、空前のゴールドラッシュであった。
全国の金山、銀山が徳川家のものになったから。
使いに使いまくった。そのために江戸の町はあんなにも発展した。
しかし、五代将軍綱吉の代には、もはや幕府の金庫は空っぽになっていたという。
華やかな印象のある元禄の時代に、である。
幕府は、開府の際に大きなミスを犯した。
天下を治めるというのに、支配地からの租税徴収のみで、全国からの税収などが無かった。だから天下を治めるというのは過剰サービスもいいところだ。
何事も無ければいいが、大地震とか干ばつとか大河の反乱とか、幕府が采配しなければならない災害が起こる。
それで代わりに公的費用を諸大名に負担させる「御手伝普請」というものがあった。
これが、大藩からとか、順番に、とかのルールが無かった。
「油断していた」藩がやられた(笑)
この本では薩摩藩が例として取り上げられている。
宝暦3年(1753)に「美濃・伊勢・尾張川川普請」によって、66万両の累積赤字。
寛政元年(1789)京都の大火で御所などが全焼。京都造営の上納金4年間で20万両。
このときは、田沼と仲がよかった藩主が田沼の目の敵、後任の松平定信に睨まれたから。
田沼をテコに将軍家と血縁を深めたことが、逆にマイナスに働いてしまった。
天保6年(1835)には累積赤字が500万両といい、薩摩藩の収入と借金の利息額が同じになったという。
飲まず食わずで、やっと利息が払える。参勤交代の免除を幕府に願い出という。
それで、薩摩藩はどうやって立て直したのか・・・・・・
田沼が失脚したのは、「日本惣戸税」を打ち出したからだという。
本来は、徳川幕府スタート時点で、こうすべきだったのだ。
しかし、これは徳川御三家を筆頭に諸大名にとっては「青天の霹靂」である。どこも赤字で苦しんでいるのに、税収が減っては、各大名はもっと苦しくなる。
旗本御家人が貧乏だったのは周知の事実だが、内職が当たり前。
そして不動産賃貸の収入が大きかった。
配領地の半分以上を貸して、自分たちはその裏手に暮らす。
勝海舟の父親、勝小吉は小碌だが、四谷御箪笥組に属していた。四谷御箪笥町に276坪の屋敷地を与えられていた。しかし小吉の歴史には、ここが出てこない。
ここは他人に貸して、本所に借地借家して暮らしていた、ということらしい。
その差額とか道場の収入で勝海舟を教育などしたというわけである。
涙ぐましい努力である。
読んでいて、目からウロコの話が続いた。
貨幣の改鋳の話も多くて、紹介しなかったが、なるほどと唸る話が沢山あった。
とても面白く、参考になった。
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
なるほど、経済面から江戸時代をみると言うものですか。私も考えたことはありませんね。
しかしながら、大名制度と言うのは元々、大名にその地域を任せると言うことですから、全国から租税を取ると言う考えは無理だと思います。それは、現在から考えるとと言うことですね。
私に言わせれば、農民だけでなく、証人や職人達からお金を取る仕組みを作るべきだったと思います。勿論、その頃でも大商人達からは時々、冥加金だったか、そのような名前でお金を集めていたと思いますが。
なるほど、経済面から江戸時代をみると言うものですか。私も考えたことはありませんね。
しかしながら、大名制度と言うのは元々、大名にその地域を任せると言うことですから、全国から租税を取ると言う考えは無理だと思います。それは、現在から考えるとと言うことですね。
私に言わせれば、農民だけでなく、証人や職人達からお金を取る仕組みを作るべきだったと思います。勿論、その頃でも大商人達からは時々、冥加金だったか、そのような名前でお金を集めていたと思いますが。
matsumo さん
コメントありがとうございます。
本当に、商人から租税を取らなかったのは、
大きいですよね。
その商人に首根っこを押さえられてしまって(笑)
本当に、商人から租税を取らなかったのは、
大きいですよね。
その商人に首根っこを押さえられてしまって(笑)