虎柏神社(延喜式内論社)/東京都青梅市
20140724
所在地:東京都青梅市根ヶ布1-316
12日(土)に、個人的に取り組んでいる武蔵国式内社めぐりで、武蔵御嶽神社、青渭神社の次にお参りしたのが虎柏(とらかしわ)神社です。
青渭神社を出発して、青梅の中心街を過ぎて東青梅の駅の近くから「成木街道」に入ったのだが、ナビに「虎柏神社」が載っているのに入り口が判然としなくて、何度も行ったり来たり・・・・・
ようやく参道の開始地点にたどり着いた。

参道は誰も通っていないらしくて、横に舗装された道がある。

式内社(論社)(小社)・旧郷社
創建時期は不詳であるが崇神天皇の御代に神戸を寄進されたと伝えられ、いわゆる延喜式内社に比定される古社である。
天慶3年(940年)に六孫王・源経基が諏訪大社より諏訪上下神を勧請し、永正年間(1504年 - 1521年)勝沼城主、三田氏宗により再興されたと伝えられ、享保12年(1727年)の「武蔵国多摩郡小曽木郷惣社縁起」には、天正16年(1588年)浅野長政が除疫神(牛頭天王)を勧請したと伝えられている。これが八雲神社である。天正18年(1590年)には正殿に諏訪上下神、東の相殿に虎柏神、西の相殿に除疫神を定め、小曽木郷の総社を号したと記されており、江戸時代は諏訪明神、諏訪宮と称し、今でもお諏訪様と通称される。最寄りバス停の名称は現在でも「諏訪神社」である。
天正19年(1591年)には徳川氏より、朱印地三石を下賜され、朱印高は幕末まで変わることはなかった。明治3年(1870年)、それまで脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。明治6年(1873年)郷社に列する。
『延喜式神名帳』には虎柏神社となっており、同じく論社に調布市の虎狛(こはく)神社がある。
これは神名帳に届ける際、狛の字を柏に写し間違えたのだという説、もともと虎柏だったとする説の両方があるようである。
延喜式名社を廻っているとこういう話によく出くわす。昔は活字ではなくて筆記だったのだから、それが達筆すぎたら間違いは当然起こる(笑)
いずれにしても源経基や浅野長政が登場するのだから、大したものである。
参道

参道を上りかかると、「諏訪國之碑」がある。諏訪上下神を勧請したからであろう。


今度は、「高峯神社旧参道」の碑があります。この神社が、山の上にあるのでしょう。旧参道らしき踏み跡は途中で崖崩れ消失のようです。


参道が右に折れるところで、枝下ろしの最中。少し前の豪雨で大きな枝が傷んだのでしょう。

ちょうどそこの左手に鳥居が立っています。これが「高峯神社」の鳥居です。つまり、ここが新参道の入り口のようです。

クレーン車を通り過ぎて見た参道

手水舎


一段上に社殿があります。

大正13年奉納の狛犬。



拝殿は、向背、虹梁ともにシンプルな形式。




ご祭神は、
正殿(虎柏神社)が大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)。
東相殿(諏訪上下神社)が建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
西相殿(八雲神社)が素盞嗚尊(すさのおのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。
神紋は「丸に違い鷹の羽」であり、これは浅野長政の家紋である。

本殿は享保19年(1734年)の再建で、三間社切妻造だが、覆殿の中にあって外から見ることは難しい。説明板によると東京都内では数少ない三間社の遺構の一つで、建築年代も三間社としては古い時期に属し装飾的要素も控えめで全体的に古式を伝える貴重なもの、とあった。

何とか少ない隙間からやっと撮れたのが、これ。茅葺の屋根と云い、垂木といい、素朴な感じだ。

境内社に移ります。
珍しいのが東と西にそれぞれ「朝日の仮屋」と「夕日の仮屋」がある。
ここで、朝日と夕日を遥拝したのだろう。
「朝日の仮屋」

「夕日の仮屋」

「藤原神社」

「稲荷神社」

境内から上がっていく道があり、ちょっと上がった所に「平松の跡」とある。


細い尾根を100mくらい歩いていく。


ちょっと広まったところがあり、石碑が立っていた。
「囲三丈」というから、笠のように枝が広がり、径9mほどの松があったらしい。
伝承に基づいて、どんな姿だったか図でも添えてくれていると、有難かったな・・・・・


これで、この日の靑梅に存在する式内社三社をめぐる旅は終了しました。
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12日(土)に、個人的に取り組んでいる武蔵国式内社めぐりで、武蔵御嶽神社、青渭神社の次にお参りしたのが虎柏(とらかしわ)神社です。
青渭神社を出発して、青梅の中心街を過ぎて東青梅の駅の近くから「成木街道」に入ったのだが、ナビに「虎柏神社」が載っているのに入り口が判然としなくて、何度も行ったり来たり・・・・・
ようやく参道の開始地点にたどり着いた。

参道は誰も通っていないらしくて、横に舗装された道がある。

式内社(論社)(小社)・旧郷社
創建時期は不詳であるが崇神天皇の御代に神戸を寄進されたと伝えられ、いわゆる延喜式内社に比定される古社である。
天慶3年(940年)に六孫王・源経基が諏訪大社より諏訪上下神を勧請し、永正年間(1504年 - 1521年)勝沼城主、三田氏宗により再興されたと伝えられ、享保12年(1727年)の「武蔵国多摩郡小曽木郷惣社縁起」には、天正16年(1588年)浅野長政が除疫神(牛頭天王)を勧請したと伝えられている。これが八雲神社である。天正18年(1590年)には正殿に諏訪上下神、東の相殿に虎柏神、西の相殿に除疫神を定め、小曽木郷の総社を号したと記されており、江戸時代は諏訪明神、諏訪宮と称し、今でもお諏訪様と通称される。最寄りバス停の名称は現在でも「諏訪神社」である。
天正19年(1591年)には徳川氏より、朱印地三石を下賜され、朱印高は幕末まで変わることはなかった。明治3年(1870年)、それまで脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。明治6年(1873年)郷社に列する。
『延喜式神名帳』には虎柏神社となっており、同じく論社に調布市の虎狛(こはく)神社がある。
これは神名帳に届ける際、狛の字を柏に写し間違えたのだという説、もともと虎柏だったとする説の両方があるようである。
延喜式名社を廻っているとこういう話によく出くわす。昔は活字ではなくて筆記だったのだから、それが達筆すぎたら間違いは当然起こる(笑)
いずれにしても源経基や浅野長政が登場するのだから、大したものである。
参道

参道を上りかかると、「諏訪國之碑」がある。諏訪上下神を勧請したからであろう。


今度は、「高峯神社旧参道」の碑があります。この神社が、山の上にあるのでしょう。旧参道らしき踏み跡は途中で崖崩れ消失のようです。


参道が右に折れるところで、枝下ろしの最中。少し前の豪雨で大きな枝が傷んだのでしょう。

ちょうどそこの左手に鳥居が立っています。これが「高峯神社」の鳥居です。つまり、ここが新参道の入り口のようです。

クレーン車を通り過ぎて見た参道

手水舎


一段上に社殿があります。

大正13年奉納の狛犬。



拝殿は、向背、虹梁ともにシンプルな形式。




ご祭神は、
正殿(虎柏神社)が大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)。
東相殿(諏訪上下神社)が建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
西相殿(八雲神社)が素盞嗚尊(すさのおのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。
神紋は「丸に違い鷹の羽」であり、これは浅野長政の家紋である。

本殿は享保19年(1734年)の再建で、三間社切妻造だが、覆殿の中にあって外から見ることは難しい。説明板によると東京都内では数少ない三間社の遺構の一つで、建築年代も三間社としては古い時期に属し装飾的要素も控えめで全体的に古式を伝える貴重なもの、とあった。

何とか少ない隙間からやっと撮れたのが、これ。茅葺の屋根と云い、垂木といい、素朴な感じだ。

境内社に移ります。
珍しいのが東と西にそれぞれ「朝日の仮屋」と「夕日の仮屋」がある。
ここで、朝日と夕日を遥拝したのだろう。
「朝日の仮屋」

「夕日の仮屋」

「藤原神社」

「稲荷神社」

境内から上がっていく道があり、ちょっと上がった所に「平松の跡」とある。


細い尾根を100mくらい歩いていく。


ちょっと広まったところがあり、石碑が立っていた。
「囲三丈」というから、笠のように枝が広がり、径9mほどの松があったらしい。
伝承に基づいて、どんな姿だったか図でも添えてくれていると、有難かったな・・・・・


これで、この日の靑梅に存在する式内社三社をめぐる旅は終了しました。
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
いやあ、暑いですね! 都内も35.5℃だそうですし。
さて、「奥多摩」の登山地図を出して、調べたのですが、「成木街道」はあったのですが、「虎柏神社」は見つかりませんでした。このため、YAHOO Japanの地図で調べて、ようやくわかりました。
写真を見せていただくと、山の中の人っ子1人いない神社と言う感じですね。多分、人が集まるのは正月と祭りの時だけなのでしょうね。
それにしても、今は木の枝下しって、クレーンみたいので行っているのですね。
いやあ、暑いですね! 都内も35.5℃だそうですし。
さて、「奥多摩」の登山地図を出して、調べたのですが、「成木街道」はあったのですが、「虎柏神社」は見つかりませんでした。このため、YAHOO Japanの地図で調べて、ようやくわかりました。
写真を見せていただくと、山の中の人っ子1人いない神社と言う感じですね。多分、人が集まるのは正月と祭りの時だけなのでしょうね。
それにしても、今は木の枝下しって、クレーンみたいので行っているのですね。
matsumo さん
コメントありがとうございます。
そうですね。
近くの子供なんかが遊んでいる「鎮守の森」という感じではなく、
周囲にたくさん民家はあるのですが、そこから山に登るという感じ、
ですね。
クレーンを使うのは、やはり今は安全第一というところでしょうか。
そうですね。
近くの子供なんかが遊んでいる「鎮守の森」という感じではなく、
周囲にたくさん民家はあるのですが、そこから山に登るという感じ、
ですね。
クレーンを使うのは、やはり今は安全第一というところでしょうか。