吉田神社(延喜式内社)/茨城県水戸市

20141005

所在地:茨城県水戸市宮内町3193-2

9月26日の「関八州式内社めぐり」で、佐波波地祇神社、五浦六角堂、酒列磯前神社の次にここにお参りしました。

社号標
式内社(名神大社)、常陸国三宮で、旧社格は県社。
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水戸市南部の通称「朝日山」と呼ばれる小高い丘の上に鎮座する。『延書式』神明帳の都賀群七座中、洒列磯前神社とともに明神大社に列せられている。

創建不詳。
『常陽式内鎮座本紀』(寛政9年-1797)、『常陸二十八社考』(寛政11年-1799)によると、第12代景行天皇40年に日本武尊が征夷大将軍となり、東征の際にこの地(朝日山/三角山)で兵を休ませ、これにちなんで社殿が造営されたのが創建であるといわれる。また『常陸国風土記』には日本武尊の那賀群での説話は見当たらず、この伝説上の英雄が吉田神社の祭神とされるようになったのは、平安時代初期頃に官社に列せられてからのことと推測される。
概史
『続日本紀』(六国史の-つ。『日本書紀』に続く第2番目の勅撰正史)は、8世紀以降の東征のもようを以下のように伝えている。
・神亀元年(724)4月‥・海道の紫夷を征するため坂東9国の軍士3万人に騎射を習わせ、絁(あしぎぬ)、綿、布などを陸奥鎮所に運ぼせる。
・神亀2年(725)3月‥・常陸国の百姓、俘賊に焼かれ財物を現した者、9分以上には復3年、4分には2年、2分には1年を給す。
・宝亀7年(776)7月・・・安房、上総、下給、常陸の4国に船50隻を送らせ、陸奥国に置き、不慮に備える。
・延暦7年(788)3月‥・東海、東山、坂東諸国の歩騎5万2800人、来年3月を限り、多賀城に参集させ、常陸国の神財も動員される。
 延長5年(927)成立の『延書式』神明帳に、常陸国都賀郡に「吉田神社 明神大」と記載、常陸国において鹿島神宮(-宮)、静神社(二宮)に次ぎ三宮に位置づけられ、鹿島神宮に次いで式年造営も行われたという。
 中世には、神郡として都賀郡から「吉田郡」が分立したが、吉田社の社嶺は158町で郡の半分に及んだ。この社領は以後荘園としての性格を強め、「吉田庄」とも称された。また、薬王院を神宮寺とし、神階も正一位に達したと伝える。その後は薬王院が天台宗の中心地として隆盛するとともに論争が増え、神威は衰退した。
 江戸時代には水戸藩から篤い崇敬を受け、徳川光圀は寛文6年(1666)に本殿・拝殿ほか多くの社殿を修造し、徳川斉昭は水戸藩総鎮守として天保15年(1844)に『大日本史』と社地として100石を寄進した。
 昭和20年(1945)には、空襲で社殿のすべてが焼失した。昭和23年(1948)に社殿が再建され。その後の改築・修理を経て現在に至る。

一の鳥居
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一の鳥居の前に木柵に囲まれた石造物があり、一応写真を撮ってきて調べてみたら、文化十三年(1816)に奉納された大灯籠です。残念ながら東日本大震災により火袋から上は失われています。
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神橋
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石段が続きます。
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石段上部にある大欅。推定樹齢が三百年。
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また石段を上がる。
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石段の上に二の鳥居
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三の鳥居の前に、左に三角山がある。
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日本武尊御遺跡が「朝日三角山遺跡」として、祭神の日本武尊が休んだという場所が聖別されている。最長の一辺がほぼ30メートルの直角三角形をなし、その鋭角の先端は本殿を指している。かって本殿がこの場所にあったともいわれ、祭祀跡であると思われるが、そこに-歩入ったら出られないという迷信がごく最近まであった。

その左に「朝日三角山由緒の碑」が立っている。
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遺跡
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三の鳥居
随身門まで、かなりの距離があります。
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随身門前の石造灯篭の台が六角形になっている。
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手水舎
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随身門前の、昭和2年建造の狛犬。
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狛犬も震災の被害を受けたようで、写真ではわかりませんが「吽」の狛犬は後ろが欠けていました。欠けている部分を写すのは忍びなかった。
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随身
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内側には、それぞれ御幣が置かれていた。
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拝殿
右側には神楽殿が接続されている。
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鈴緒
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扁額は「常陸 第三宮」と。
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内部
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中の扁額も「第三宮」と。
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祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと『紀』)(倭建命『記』)。第12代景行天皇皇子、子は第14代仲哀天皇。武神、軍神、国土神(農業神)。日本神話の中で武力に優れた英雄の一人。東奔西走し、大和朝廷統一に貢献。最後は能原野(のぼの)で病に倒れ白鳥となった悲劇の英雄。

神紋は「右三つ巴」
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神職・・・『吉田神社事蹟考』は初期の社務を司った氏族を吉美侯(きみこ)氏とし、日本武尊の従兄弟だとしている。吉美侯は公子、君子などと表記され諸説あるが、奈良時代初期頃に帰属した蝦夷であるともいわれ(『類衆国史』)、蝦夷との関係が指摘される。その後吉美侯氏は、長承年間(1132-35年)に中央公家の小槻氏に社務職(領家職)を寄進した。このことは、在庁宮人の介入や土豪から社領を守るためであったとされる。そして、この
小槻氏のもとで、大祝大舎人氏が実権を握っていきます。


拝殿、幣殿、本殿と続きます。
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幣殿から本殿の門にかかる橋
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本殿
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本殿背面
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神楽殿前の枝垂桜が目を引きます。咲いた時の景色は見事でしょう。
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神馬舎
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境内社です。まだ在ったかも知れませんが、確認できたもののみ載せておきます。

随身門の手前右に天満宮を祀ってあります。
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右が国見神社(祭神:彦国見加岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)、左が早歳神社(祭神:両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)。
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右から松尾神社、多賀神社、住吉神社、八幡宮、大国主事代主神社、疱瘡守護神社
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最後に、大洗磯前神社を通る冬至日の出遥拝線上に吉田神社と朝房山(哺時臥くれふし山)があり、さらにそのほぼ延長線上に八瓶山がある。この山は城里町七会(旧・西茨城都七会村)に所在して、345メートルの小山ながら美しい円錐型をなし、さまざまな伝説を秘めている。『聚成笠間誌』によれば、全体は八つの蓮華状の峰からなり、空海が各峰に瓶を置き八大竜王を勧請、雲を呼び雨を降らせ、その様(さま)はさながら布を引いたようだったので、引布山と称されるようになったという。

これで、この日の予定神社を全て廻ることが出来、帰途につきました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

こんな所にも、東日本大震災の傷跡が残っているのですね。あの時は常磐線が何日間も停まってしまいましたから、当然、水戸市にひどい状態だったのだと思います。以前も書きましたが、ちょうどその前日に水戸の偕楽園に行ったばかりで、常磐線が止まってしまったので家に帰れない状態にならずにすみました。

そう言えば、本日、女性皇族と出雲大社の宮司の結婚式が行われたのですが、その解説を観て、結婚式の様子が古事記に書かれていた「イザナキノ命」と「イザナミノ命」が柱を廻る話に似ているような感じがしました。それにしても、出雲大社の宮司が出雲国造とか、天穂日命の子孫とか言う話、初めて知りました。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
天穂日命は天照大御神の第2子です。
古事記では、大国主命を説得するようにと派遣されたが、
心服して3年戻らなかったのですね。
だから大国主命を奉斎するのに相応しいと。
意地悪く考えると、ヤマト朝廷は大国主命の祟りを恐れて、
天照大御神の子を張り付かせた・・・・と(笑)

ですが、出雲国造は昔からの祭儀を厳格に継承しているので、
とても貴重な存在だと思います。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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