坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)/日本の神々の話

20141006

平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
人物
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫であり、田村麻呂の祖父の犬養、父苅田麻呂ともに武をもって知られた。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。

征夷大将軍として蝦夷との闘いで有名なのは、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこでアテルイ(阿弖利為、阿弖流為)とモレ(盤具公母礼)ら五百余人の降伏を容れたこと。
しかし田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、二人を処刑したのである。

田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があって定かでない。他には806年(大同元年)に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している。

弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。墓所は京都市山科区の西野山古墓と推定される、また山科区勧修小学校の北側に「坂上田村麻呂の墓」との石碑があり周辺は公園として整備されている。そのほか東山ドライブウェイの展望台側に青蓮院将軍塚大日堂が有る。

後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ様々な物語を生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま、説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)や大嶽王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、能『田村』、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。

田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。長野県長野市若穂地区の清水寺(せいすいじ)には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。

この辺の田村麻呂伝説としては、嵐山の「縁切り橋」がある。
大蔵館跡、源義賢の墓の辺から鎌倉街道を笛吹峠に向かうと、将軍沢という地名があるが、そこにかかっている小さな橋である。
征夷大将軍の坂上田村麻呂が、軍勢を引きいて、ここ嵐山町に滞在、岩殿の悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ、将軍の奥方が京都から心配のあまり訪ねてきた。しかし、坂上田村麻呂は「上の命令で、征夷大将軍として派遣されている私に、妻が尋ねるとは何ごとだ。逢わぬぞ」と大声で怒鳴った。いくら家来がとりなしても許さなかった。
 翌朝、奥方は京へ帰る出発のためこの地へ来た。将軍はこの坂下まで来て、「大命を受けて出陣しているのに追って来るとは何ごとだ。今より縁を切る。早々に立ち去れ。」と宣言した。

田村麻呂を祀る神社は、各地の田村神社、筑紫神社(福岡県筑紫野市)、松尾神社 (宝塚市)創建当初は坂上田村麻呂であった。

画像
坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)
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清水寺縁起
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

私の認識だと、坂上田村麻呂って蝦夷征伐した将軍としか知らなかったのですが、鬼退治の伝説があったのですか! でも、その伝説、坂田金時のものと似ていますね。

また、祭られていることも知りませんでした。まあ、菅原道真とは異なり、祟るわけではないのですが、日本の神様には実在の人物で、祟らない人も沢山、いることから、不思議ではないですが。

将軍塚大日堂は1回だけ行ったことがあります。勿論、歩きで、清水寺の裏山の辺りを通って、行きましたが、天気が良くない日だったので、展望は今二でした。

それにしても、この頃の蝦夷って、アイヌだったのか、いわゆる日本人だったのか、どちらだったのでしょうね。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
日本列島への流入は、北から、半島から、中国大陸から、
南方からとありますからね。
蝦夷と云っても、色々あったでしょうね。
その辺は、私はまだ調べていません。

話は変わりますが、役小角にしても、大和地方で征服された
奴隷階級の出身らしいですね。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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