狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧入間川村(1)

20141107

歴史クラブで、7月8日からスタートしたPグループのテーマは、「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代に昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)で文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌ですが、これに載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。

月一回の例会で、「新編武蔵風土記稿」を読み進んできましたが、今回初めて、10月28日に「旧入間川村」を舞台に、比較現地調査を行いました。
参考にしたのは、「新編武蔵風土記稿」と明治14年測量の「フランス式測量地図」です。

明治10年の西南戦争で戦闘用の地図に不足し、地図の必要性を痛感した参謀局は、明治13年に第一軍管区地方(関東地方)でフランスの地図図式に基づく2万分1迅速測図の測量事業を開始し、明治15年にその事業を終了しました。しかしながら、その後、地図作成を含む軍制全般がドイツ方式に移行されたため、「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」もドイツ方式の一色刷に書き直されました。その後の日本の地図は、ドイツ方式に拠っています。
「フランス式測量地図」は、倉庫で長い眠りについていた、この『第一軍管区地方2万分1迅速測図原図』を平成3年3月に復刻したものです。

江戸時代の地理を知ろうとするとき、江戸(東京)では絵図が作成され残されていますが、埼玉県となると使用に耐えうる絵図があまり無く、明治初期に作成された「フランス式測量地図」で、江戸末期の地理は解かるということで、大変ありがたいものです。

私たちが読んでいる「新編武蔵風土記稿」は、雄山閣版で、次のようなものです。
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二つ目の左下に、今回の最初の訪問地「石無坂」の記述があります。

「フランス式測量地図」はこのようなもの。
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当日、駅前からバスで少し乗って「住宅前」で降り、石無坂の途中にある庚申塔からスタートしました。
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【庚申塔と石無坂(いしなさか、いしんざか)】
お堂に入っているのが、六臂の青面金剛立像:寛政元年(1789)入間川村、願主惣村中、同行者是休です。
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文字塔の庚申塔::安政二年(1855)入間川村、願主が石田庄吉と原田幸吉。
文字塔左側面に「塔の向を直し其の後火災の 難なく奇異の旲験人の 伝虞なり」と彫られている。
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それから石無坂を下り、途中入間川富士浅間神社に寄ったが、説明の都合で後に回し、石無坂の起点まで下った。

石無坂:上諏訪から稲荷山にかかる坂で、扇町屋に至る八王子道の一つである。
この坂の左側の山林中に加治廣忠(武蔵七党の丹党の一族)の墓があったと伝わる。
語源:石の坂 → 石無坂
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真っ直ぐ行くと石心会病院、左が石無坂で稲荷山公園経由で入間市に向かいます。
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交差点に立つ坂標
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交差点に、風情ある古い商家の建物あり。
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【入間川富士浅間神社】
石無坂を戻っていくと、左手にあります。
資料では「三面六臂馬頭観音立像:寛政五年(1793)」があるようだが、写真は撮っていない。

富士塚は廃され、寄せ集めて祀ってあります。
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堂宇には、祭神の木花咲耶姫丸彫立像が祀られている。
台座に「日立講」の講紋があり。
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「大祖参神霊」碑
扶桑教の主斎神 「大祖参神おおみおやのかみ(天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産大神)」である。
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「小御嶽神社」碑
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いろいろな石碑が集められている。
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大山講碑と思われる「山神大山祇尊」碑もある。
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それから慈眼寺に向かいました。
その道筋で、現在と違っているところがあります。
明治14年測量の「フランス式測量地図」で、「A」の靑文字のところが八幡神社です。
あの急な石段が書かれていて、上下に鳥居が書かれています(下は赤く鳥居が書かれている)。
その横の道が、上の「B」の文字の下で枝分かれしています。「B」の文字のところが慈眼寺です。
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細いほうが中の坂で、江戸に通じる細道です。
太いほうが、「藤沢道」で慈眼寺の墓域を通っていきます。

現在の道
左が、かっての「中の坂」の細道ですが、現在は市役所前に通じる広い道。
右が、かっての藤沢道。
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【慈眼寺の墓地】
慈眼寺については、参加者の皆わかっているので、これまで見てなかった墓地の中にある石仏を教えてもらいました。

宝永7年(1710)建立の六地蔵
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墓地にころがっていた板碑
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【八幡神社】
先ほど、明治14年測量の「フランス式測量地図」で、八幡神社の急な石段の話をしましたが、現在のこの石段は享保12年(1727)に作られたものです。
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八幡神社については皆知っているので、境内社のなかで、流転の果てにここ八幡神社に落ち着いたお宮を説明しておく。

「琴平神宮」 
祭神:崇神天皇、由緒:鎮座は約三百年前で、成圓寺境内天王山にあった。
東小学校南高台が天王山とも云い、傍に旧成圓寺住職墓地があることから、成園寺は牛頭天王社(八雲神社)とこの琴平社を含めた、広大な敷地を持っていたと思われる。
成圓寺については、後述します。
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「八雲神社」
祭神:素戔嗚尊、由緒:旧地は瀧祇園で天王様として村の鎮守と伝わる。いつの頃からか成園寺に遷座し、その後、昭和になって八幡神社境内に遷座した。社殿は文政7年(1824)5月の建立である。
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皆一生懸命覗き込んでいたが、暗くて見えなかったと思う。
「入間川の天王様」のときに開いていて、撮ってあるので公開しよう。
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牛頭天王のお姿
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「大鷺神社」
祭神:保食(うけもち)命、明治四年市場が出来た。この市の守護神として、明治5年(1872)に建立された。最初は大通り、大正の終わり頃に入間川3丁目に移され、その後に八幡神社裏の旧鎌倉道といわれた道の土手上に祀られ、今は八幡神社境内に遷座。
「高良神社」
祭神:武内宿爾、由緒:寛政四年建立、各地の八幡社の境内に祀られる。医療、甲冑製作等を指導したと伝わる。
「甚兵衛大権現」
祭神:不明、由緒:滝祇園の中島氏の畑にあった。安政2年12月18日奉斎し、昭和33年8月遷座
「痘(もがさ)神社」
祭神:和津良比之宇斯命、由緒:天保年間に流行った天然痘に罷った母子が全快を祈って寄進したもの
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八幡神社を出て子ノ神社に向かいます。
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入間川村を通る3本の旧鎌倉道枝道の-つに入ります。
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【子ノ神社】
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祭神:大國主命、由緒:明治32年3月社殿再建寄付者芳名帳によれば、現在地に元亀3年(1572)の建立…・其後應永11年(1404)理由が判らないが旧慈眼寺境内に遷座とある。 

社殿
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失われた御神体の懸佛に刻まれた銘文を元亀と読み違えたか、時代の前後を間違えたか應永の100年ほど前の14世紀初め頃には、元□が付く年号がいくつか存在する。
旧慈眼寺境内にあった頃、應永23年(1416)銘鰐口があると、風土記稿が伝える。その後、寺火災の際に盗難にあって今は無い。
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この神社の遷座:言い伝えを含め、次の通り
現子ノ神辺り → 鷹永11年 旧慈眼寺 → 慶應元年(1865)旧慈眼寺火災 
→ 明治元年(1867)焼失 諏訪神社境内 → 社殿改築時に某氏持去 → 某氏悪疫に罷り 奥冨某家 
→ 奥富某家悪疫に罷り 諏訪神社仮宮 → 明治14年現在地に社殿再建、32年再々建

境内社:出雲神社(石嗣)
鰐口などこの神社の歴史を刻んである。
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【水神】
祭神:水神
柏原街道の現イオンの堤防脇(旧久星酒造裏)で国道16号線沿いにあり。
由緒:明治43年8月の関東大水害の際に入間川のこの辺りも破壊の危機に瀕したが、堤防近くの久星酒造が大量の米俵(お米が詰まったまま)を提供、これを堤防に積み、幸運にも被害を免れた。
水神に祈願して水害をなくすため、翌明治44年6月にこの水神碑を建立した。

*明治43年8月の関東大水害:利根川水系や入間川が属す荒川水系流域に多大な被害を及ぼした。各地に破堤修復碑、九頭龍大神、水神、切れ沼などがある。
また、大規模な河道の付替、横堤の建設や背割埴による合流点延伸などを行っている。

いつも買い物に来るイオン裏の駐車場の奥、16号線沿いである。
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旧堤防、現在は国道16号線
市民会館入り口の交差点からやってきて、
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坂を上りきれば、左折してイオンの前。
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水神碑
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

いやあ、新たなテーマが始まったのですか! 私とは異なり、お忙しいそうですね!

なるほど、明治時代の地図作製の当初は1/20000だったのですか。でも、色が付いているところをみると、旧1/50000地図よりは、見やすい感じですね。

神社や石仏等に行かれているので、その地図に載っているのだと思って探してしまいましたが(笑)、風土記稿に載っている地名やお寺等に行かれると言うことだったのですね。

それにしても、江戸時代は、今は祠の中に入っている石仏等は、今とは違った場所に、露天のまま、安置されていたのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
今回から、かなり利用頻度があがるであろう
「フランス式測量地図」は、まったく色がついているのが
いいですね。
ほんとに貴重なものだと思います。

石仏は、最近になって保護が進みましたが、
野ざらしが普通ですね。
石仏も、小さいお宮も、ほんとによく動かされていますね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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