狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧入間川村(2)

20141114

歴史クラブPグループのテーマ「新編武蔵風土記稿を訪ねる」で、10月28日に「旧入間川村」を舞台に、比較現地調査を行った続きの記事です。

参考にした「新編武蔵風土記稿」と明治14年測量の「フランス式測量地図」については、前記事を参照してください。

【菅原橋】
イオン駐車場奥、国道16号線脇の水神碑から、「菅原橋」にやってきました。
真っ直ぐ行けば駅の方に、右に行けば八幡神社方面の県道に、左に行けば市民会館です。
当時は、後述のとおり、幅9尺だった。
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「フランス式測量地図」で「C点」です。
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菅原橋は入間川村の石橋として郡村誌に記載があります。
「所澤道に属し村の北方赤間川の上流に架す。長三間幅九尺石造」

入間川村の石橋は調査結果によると、6箇所に有った。
石橋の規模など:江戸時代の武蔵国(内、埼玉県)の石橋は、全て桁橋である。
西国、特に九州によくある石造りのアーチ橋は皆無である。
強度と重量の関係で我々が思うよりずっと小さく、平均が長さ9尺、幅が6尺である。
桁石の最大長は約9尺:石材の強度と加工の限界からか、これを超える長さのものは、資料や現物からも見当たらなかった。
最長の石橋:橋脚となる石柱を真ん中に置いた三間のものが最長であった。但し、郡村誌には、長十間幅一丈の石橋が二つほど記載されている。
菅原橋の規模:入間川村の中心部の柏原街道に懸かる重要な橋であるため、石橋としては長三間と最大の部類に入る。

案内役の池田さんから、埼玉県内に現存する石橋の写真を見せていただいた。
何でも知っている池田さんには、実に敬服の至りです。

横からの菅原橋。
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橋上から赤間川を。
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赤間川:江戸時代の赤間川は菅原橋の下で分水石により内堀(現在の流れ)と外堀(左に分流)に分岐している。
外堀:明治14年地図では外堀の流れのみが認められる。分水石から、大きく東北に湾曲し旧堤防に沿って初めは堤外(入間川寄り)に流れ、市民会館北約50mで堤内に変わり、暫く堤防右に沿った後に田圃内を湾流し現在の流れになる。

「新編武蔵風土記稿」の記述
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【石橋供養塔】 菅原橋、赤間川
石橋供養塔:高さ87cm、幅36cm、台座高さ34cm、幅71cm
菅一自治会間前にあり、正面上部に浮彫馬頭観音坐像を刻む。右側面に「小沢忠右衛門」や「講中」などの文字を刻む。
安永10年(1781)3月に造立された。
かってはここから百mほど西南の赤間川にかかる菅原橋の直ぐ下流左岸袂(柏原街道右側)にあった。東北に面して立っていたが、橋の拡幅工事により現在地に移転した。
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赤間川に沿ってちょっと歩いて「D点」に。
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明治14年地図では大きく東北に湾曲していますが、下の写真のとおり現在はそのまま直進しています。(右端に見えているのが、今の赤間川)
直進している道は市民会館に出ます。
左に入っていく道が、旧堤防でエグサステニスコート前を通る道。
その道の左側の側溝が、明治14年地図での赤間川の名残です。
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明治14年地図での赤間川の名残
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【霞野坂】
現在の赤間川に沿って「E点」まで来ました。
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Eの字の場所が、現在市民会館がある場所です。
ここから、Tの字に町の方に上がっていく点線の細い道がありますが、現在の「霞野坂」です。
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現在、国道16号線から入って市民会館の前を通り、駅西口に通じる重要な道は、明治中期までは踏跡程度でした。

【滝祇園】
「霞野坂」の上り口の左側、現在の市民会館南東のハケ(低地)一帯が「滝祇園」という地名でした。
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「新編武蔵風土記稿」に「滝祇園」が載っています。
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ここで、牛頭天王社牛頭天王があったところを瀧祇園と云ったことがわかります。
その後に成圓寺境内に遷座。
明治14年地図で、成圓寺のあった場所に「鳥居:牛頭天王」がある。
下図で「F点」の上に鳥居がある。
郡村誌に:「平社 社地東西五十間 南北十九間 面積九百七十四坪 七合村の中央に有り…‥」
成圓寺を合わせたものか判らぬが、徳林寺や慈眼寺と粗同じ面積である。

そして、明治初めに成圓寺が廃寺となり八幡社境内に遷座した。
下図で、最初「E点」の南東にあったものが、「F点」の鳥居の場所に移り、更に「G点」の八幡神社境内に移り、現在は「八坂神社」となっている。
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【天満天神社】
一番街にある、「天満天神社」が「新編武蔵風土記稿」に載る天神社である。
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境内の由緒書きにも、その説明がある。
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「天満天神社」にきちんと参拝したのは初めてだった。
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【徳林寺】
山門の前あたりが、「新編武蔵風土記稿」に載る小名「根曲輪」という地名だった。
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「新編武蔵風土記稿」に載る「徳林寺」
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徳林寺の写真は省略するが、「新編武蔵風土記稿」で開基とされる「小沢主税」のお墓が徳林寺墓地の一番高みにある小沢家墓地にあるのを今回知った。
真ん中が「小沢主税」のお墓碑
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【綿貫家墓所】
綿貫家は江戸時代栄えた豪商で、「西の鴻池・東の綿貫」と言われたほど。しかし、幕府の要人などに巨額の貸し付けをしていたため、徳川幕府の崩壊と運命を共にし没落した。
狭山市駅西口開発の為、駅前から当不動尊に移転されたそうで、案内役の池田さんから過去の墓地の姿を写真などで説明を受けた。

現在の墓所
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最も古い墓標
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【福徳院不動堂】
当不動尊は綿貫家代々の守本尊とされており、二代目孫兵衛は篤く信仰し成田山に多額の寄進を行うほどで、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け不動明王の尊像を造り開眼のうえ綿貫家に授与したと伝えられている。
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たまたま、何かの工事をしていて中を見ることが出来、初めて本尊を拝観した。
新しい本尊と、その前に小ぶりの不動明王が安置されている。
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成田不動尊の大護摩法要の浄灰で作られたという最初の本尊は、本堂の真上の天井裏に安置されているとのことなので、手前の小ぶりな像はその模像であろうか。

【成圓寺跡地と祇園坂】
「新編武蔵風土記稿」記述
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明治14年地図では、「F点」にあった。
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消え去った理由:
比較的大きな寺であるが、修験でありかつ修験は檀家を持っていなかったこと、大旦那である綿貫家が没落したこと、が主な理由と考えられる。

中央図書館の建物の横から見える高台の上が成圓寺の跡地。下の道が以前は「祇園坂」だったが、現在は西口開発で変わってしまった。
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高台の上が成圓寺の跡地で、下はもと「祇園坂」、今は西口市民広場。
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「新編武蔵風土記稿」に見る「祇園坂」の記述。
牛頭天王の社の流転については、先述のとおり。
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【旧成圓寺歴代住職墓所】
所在地は入間川2の6の22付近。「入間川東小」近くにある第2甲田ビル西隣の墓地最奥にある。
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この場所は、旧成圓寺最後の住職で八幡神社の宮司になった青田義寛家の墓所(現八幡神社宮司家)である。

高さ2メートル弱の宝篋印塔様墓石二基が並立している。
向かって右が延宝5年(1677)造立で、向かって左が天正9年(1581)造立である。
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ここでは、向かって左の墓石を紹介しておきます。
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概 要
・高2メートル強の宝篋印塔 向石塔と並立、南を向く。
・上から順に、宝珠・上請花・五輪・中請花・伏鉢・下請花・露盤・笠石・斗形・塔身・返花坐・基礎・台坐
・正面に金剛界五仏の種子を刻む。 但し、下請花に有ったであろう種子「ウン」は剥落により失われている。
 「宝篋印塔様墓石」の範疇に入る形をしているが、この種子の存在で宝篋印塔と判った。
 外見が宝篋印塔様墓石の「宝篋印塔」は、狭山市域では此の塔が唯一のものである。
・狭山市域最古の宝篋印塔である。
・剥落、破損が塔身下部と基礎上部にある。 「塔身」、「基礎」と「台坐」の摩耗が激しい。

由来など
・此の塔も向右塔同様、詳細不明であるが、塔身の銘文と墓誌、八幡神社縁起などから次の事柄が確認できる。
成園寺再興開基と請われる俊圓が、陵夷を補修し、成圓寺再興を果たした天正五年春から「数えで」五年目に当る天正九年春二月に、俊圓が亡くなった。
そして、その(去)春二月の後にこの宝篋印塔(墓?供養塔?) を造立した。

上から
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西武線の踏切を渡って、最後の目的地に行きます。
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【綿貫家東西碑】
この碑は、当初山下稲荷(謙受堂裏)にあり、その後市場の某氏宅、それから某氏関係施設。
現在は東口再開発真っ只中の工事事務所前に置かれている。
風聞では、中央図書館敷地内に置かれる予定とか。
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資料では下図のように彫られているそうで、現在は「東」の面のみ見ることができた。
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これで、今回の予定を全て終了し解散となりました。

今回は、案内役の池田さんが手持ちの貴重な資料を惜しげもなく提供してくださった。
本当に貴重なもので、浅学の私などは、ただただ驚愕するばかりでした。
いつもの事なのだが、いくら感謝してもし足りない気持ちでいっぱいです。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

推理小説を読むと、よく、郷土史家の方が出てきますが、実際にいらっしゃるのですね!! 

私が現在、住んでいる場所には、区役所等が作った郷土史が出ていますが、まともに読んだことはありません。強いていれば、石仏巡り関係のものを読んだ位です。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
郷土史家と言えるかどうかとか、レベルは別にして、
ほんとに沢山居ますよ。
良いことだと思います。
住んでいるところに愛着がわくというのは、
そこを知らないとわいてきませんから。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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