明治神宮&新宿・江戸六地蔵など(2)

20141122

17日(月)に歴史クラブ行事で明治神宮の参拝の次に向かったのは「太宗寺」です。
足の弱い方も参加しておられるので、「神宮前」から「新宿三丁目」まで地下鉄で移動しました。

【太宗寺】
浄土宗・太宗寺は1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた、「太宗庵」を始まりとします。時の領主の徳川家重臣・内藤正勝公(内藤家5代)の厚い信望を得るようになりました。
寛永6年、正勝公の逝去の際、葬儀万端を取り仕切った太宗庵主は以降、内藤家との仏縁を一層深めることとなり、寛文8年、内藤家8代・重頼公より寺領として、7396坪の寄進を受け、さらに庵の規模を拡大して寺門に変え、寺号には庵主の名を冠して「太宗寺」とするに至りました。
また当時、大木戸一帯の地が、霞ヶ関と称されていたので「霞関山」を山号にし、尊信者・正勝公の法名「本覚院」を院号に拝受し、「霞関山・本覚院・太宗寺」として誕生しました。
太宗寺の前の道は鎌倉街道中道でした。甲州道中道と鎌倉街道が交差するこの一帯を内藤清成が陣を敷き、天正18年(1590)の徳川家康の入府を安全なものとしました。この功によって内藤家は広大な領地を拝領したのです。
 しかし、昭和20年5月25日の空襲で火災に見舞われ、大きな被害を受けてしまいます。現在は、本堂・不動堂・閻魔堂・墓地などのみが残るだけです。

境内図
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○江戸六地蔵(甲州街道)
境内の入り口に、大きなお地蔵様が鎮座しています。これは、街道沿いに置かれた江戸六地蔵と呼ばれるお地蔵様の一つです。このお地蔵様に旅の安全を願って、旅人は江戸を出発したと伝えられています。
品のある美しい顔立ちの仏様に悪戯っ子の夏目漱石は幼少のころ、よくよじ登って遊んでいました。

漱石は明治4年(1871)、4歳のころ、この付近の妓楼(ぎろう)「伊豆橋」に住んでいました。
   ― 道 草 ― 夏目漱石
「健三は時々薄暗い土間へ下りて、そこからすぐ向こう側の石段を下りるために馬の通る往来を横切った。彼はこうして仏様へよじ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、其先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
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太宗寺の本堂は、ずいぶんとモダンな建物になっていました。
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○閻魔堂
江戸六地蔵の左手に朱の柱の閻魔堂があります。扁額「閻王殿」は第12代将軍徳川家慶の嘉永3年(1850),清国の官使「秋氏」が寄進したものです。
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都内最大5m50cmの閻魔像「内藤新宿の閻魔さま」は、杉並区松ノ木にある華徳院、豊島区西巣鴨の善養院と並んで「江戸三大閻魔」の一つとして信仰されています。江戸庶民の信仰を集め「薮入り」には縁日が出て大いに賑わったといいます。毎年7月15日、16日のお盆には閻魔堂が開扉され、曼荼羅、十王図、涅槃図の公開が行われています。怖い奪衣婆(だつえば)像も横にあります。
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○不動堂
不動堂には江戸時代の作とされる三日月不動明王が安置されています。縁起によると「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで遍く済度せん」と尊像の頂に三日月を載せています。不動明王は武州高尾山に安置するために甲州街道を運搬されて、太宗寺で休憩をとったところ、不動明王が重くなり盤石のごとく微動だにしなくなりました。運搬を任された者は以前に霊夢を観たこともあって、このことから太宗寺こそ鎮座すべき有縁の地であるとして、御堂を建立したと伝えています。
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三日月不動明王
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三日月不動明王の前に、新宿山之手七福神の布袋尊が安置されています。
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○塩かけ地蔵
イボ取りの願かけをしたら、お地蔵さんを被っている塩をいただいて帰り、患部によく塗りこみます。イボが取れたら、塩を倍返しにしてお礼参りをするのです。
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お地蔵さんのお顔もよくわからない。
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○切支舟灯籠 
昭和27年(1952)に内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の 笠・火袋部分も復元し補われています。石質は白みがげ石で、江戸時代中期の製作と推定されてい ます。切支丹灯籠は江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝 したとされ、織部型灯籠(安土桃山~江戸初期の大名・茶人古田織部が好んだ灯籠)の全体の形状 は十字架を、竿部の彫刻はマリア像を象徴し、マリア観音とも呼ばれます。
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○内藤家の墓
墓地の一番奥にあります。
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説明を読んで、唖然としました。
東京都の区画整理事業で、300坪あった、内藤家の57基あったものが、わずか3基にまとめられ、本当に小さな墓地になってしまっていました。
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内藤正勝の墓
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太宗寺を出て、靖国通り沿いにある「正受院」に向かいました。

【正受院】
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○奪衣婆(だつえば)像
奪衣婆とは、三途の川のほとりで、死者の衣類をはぎ取る老婆のことです。江戸市民には子供の虫封じやせき止めに霊験があるとして、高い評判を得ていた像です。
正受院の奪衣婆像は、咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。
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「子育て老婆尊」と書いてありましたね。

○平和の鐘
正受院の梵鐘は、昭和17年(1942年)に太平洋戦争による金属供出のため失われたはずであった。しかし、戦後になってアメリカ合衆国のアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることが判明。昭和37年(1962年)には正受院へ返還された。このため、正受院の梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせている。
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○針塚
横には小見外次郎さん(和裁で唯一の人間国宝になった人だそうです)の胸像。
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【成覺寺】
以下の説明は、下見に行った際にお寺の方から詳細な説明文書をいただき、それに基づき書いています。

成覺寺は、新宿で働いていた遊女の投げ込み寺です。
この宿場町の繁栄の陰にいわゆる飯盛旅龍と呼ばれた遊女屋があり、そこで飯盛女として働かされていた女の人々(宿場女郎)が薄幸のうちに若い命を散らしたあと、投げ込むように葬られた寺が俗に云う投げ込み寺で、宿場町にはどこにもそういう寺がありました。
葬られた遊女の大半を十六歳から二十三歳がしめているといいますから、哀れですね。
ちなみに、吉原には浄閑寺・西方寺、品川は海蔵寺、千住は金蔵寺、板橋は文殊院が挙げられます。
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みな江戸時代の年号が刻まれている。
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○子供合理碑
投げ込み寺のシンボルと云うべきものに子供合理碑があります。子供とは遊女のことをさし、万延元年(1860)地元の旅籠屋仲間が協力し造ったもので、多くの遊女を葬った共葬地(共同墓地)に建てられたいわば遊女たちをまつる供養碑です。
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○旭地蔵について
寛政十二年(1800)造立。
地蔵の下の円柱の台石に男女の戒名十九霊が刻まれてています。建立者は台座左側面の記載から地元の旅龍屋茶屋の有志が建立したことがわかる。この地蔵尊はもと新宿追分の南、玉川上水べりの北岸にあったが明治十二年七月成覚寺に移されてきたもの。
台石に彫られた十九人の戒名を寺の過去帳に照合すると一人戒名を除く七組の人々はすべて心中者だそうです。
旭という名称は暗黒の地獄を旭のごとき慈悲の光で救い取ろうとする祈願が込められていると察せられます。            
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○恋川春町の墓
恋川春町は江戸文学史上有名な金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)に始まる黄表紙を最初に書いた戯作者として最もよく知られた人物で、その多芸多能な側面は画家として浮世絵風の筆致をもって、専ら挿絵画家として多くの黄表紙に作品をのこし、さらに狂歌では酒上不時(さけのうえの ふらち) の号で名を馳せ、亀長の名で俳語を楽しむなどが伝えられ、極めて傑出した文人の一人として語られています。
恋川春町は本名を倉橋寿平といい、駿河小島藩1万石の家臣で百二十石取り、重要な藩政に責任を持つなど立派に活躍しました。
春町は当時の戯作者がそうであったように、普段日常はきちんとした正業(侍)を持ちながら余戯を楽しむところがあり、学問の素養を生かし、それまでの子供相手の異本・青本といった絵本の型に趣向を違え、世の事象を皮肉ったり風刺したり、当世風の酒落や滑稽を主に責任のない遊びの小説をつくつたもので、これが黄表紙として流行をきわめたものであります。

春町の死については寛政元年(1789)一月に著した「鶉鵡返文武二道」 (おうむがえしぶんぶふたみち)が幕府老中松平定信の政治を風刺したとされ出頭を命じられたが病気を理由に応じず、四月に御役御免を願い出て許され、七月に四十六才で没す、と滝沢馬琴の著作に記されています。このことで自殺のうわさもありました。
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春町の辞世 (墓石の左側面)    「生涯苦楽四十六年 則含脱却浩然帰天
   我も万た身はなきものとおもひしが 今はのきははさ此しかり鳧(かも)」
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○白糸塚
白糸塚は江戸から明治大正昭和と芝居や八木節で有名な鈴木主水・白糸ゆかりの供養碑です。
「武江年表」の嘉永五年(1852)に次の通り記されております。
「猿若町市村羽左三門が芝居にて享和の頃青山辺なる鈴木主水という武士、内藤新宿の賎妓白糸と共に情死せしこと俗謡に残りしを狂言にしくみ興行しけるが、殊の外繁昌しければ俳優二代目坂東秀佳内藤新宿北裏通り成覚寺へ白糸の墳墓を営みたり」。
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碑の表面には右に白糸塚、その左に小さく「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と自作の句を供え、嘉永子のとし二代目志うかと彫ってあります。
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これが史実であるか多くの方が調査しましたがはっきりせず、伝説と言うことになっております。しかし武士と遊女の心中という稀有が大衆の耳目を引いたからこそ俗謡に仕立てられており、これと似かよった事件を素材としたと考えられます。成覚寺の過去帳からただ一件、文化十年(1813)十月二日大黒屋での心中があり、戒名から武士と庶民であり、添え書きから二十五騎(町名)の吉田を名乗る与力衆の身内であったと思われます。

鈴木主水口説(くど)き):
花のお江戸の そのかたわらに 世にも珍し 心中話
ところ四ツ谷の 新宿町に 紺ののれんに 桔梗の紋は
音に聞こえし 橋本屋として あまた女郎衆の 白糸こそは
年は十九で 当世が育ち 愛嬌よければ 皆人さまが
我も我もと 名指して上がる わけてお客は どなたと聞けば
春は花咲く 青山辺の 鈴木主水と 言う侍は
女房持ちにて 二人の子供 五つ三つの いたずら盛り
二人子供の あるその中に 今日も明日もと 女郎買いばかり
見るに見かねて 女房のお安 ある日我夫 主水に向かい
私ゃ女房で 妬くのじゃないが 二人の子供は 伊達には持たぬ
十九二十才の 身じゃあるまいに 人に意見を する年頃で
やめておくれよ 女郎買いばかり 金のなる木は 持ちなさるまい
どうせ切れるの 六段目には 連れて逃げるか 心中するか
二つ一つの 思案と見える しかし二人の 子供が不憫
二人子供と わたしの身をば 末はどうする 主水様よ
言えば主水は 腹立ち顔で 何とこしゃくな 女房の意見
己が心で 止まないものを 女房ぐらいの 意見じゃ止まぬ
(以下、延々と続きます)

○塚本明毅の墓碑
明治初期「日本地誌提要」をまとめ、また太陽暦への改暦を建白した人。
篆額は榎本武揚
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これで、今日の予定が全て終了。そのまま靖国通りを歩いていき、西武新宿駅から帰途につきました。

(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

以前は、渋谷に行った時は、明治神宮の森の脇の山手線の線路に近い道路を通って代々木駅、そして、新宿駅と行きましたが、結構な時間がかかる上、道がわかりにくいので、更に、太宗寺でしたら、大変だと思います。地下鉄で正解だと思います。

太宗寺は七福神の関係で何回か行っていますが、やはり、木造の不動堂が一番良いです。他は本堂を含め、違和感を覚えます。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
あの辺は、ほんとに歩き難いですよね。

やはり七福神で行かれていたんですね。
ここの七福神は、まだ歩いてないので、
候補にあげてあります。
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プロフィール

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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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