狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧澤村・田中村・峰村(1)

20141212

12月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は佐藤さんと樋口さん。岸野さん、池田さんがサポートです。

今回のルート
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それに該当する、明治14年測量の「フランス式測量地図」です。
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集合場所は天岑寺山門前。
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<旧澤村>
「新編武蔵風土記稿」の記述
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武蔵風土記によると「徳川家康公の御討入りの時、小笠原太郎左衛門安勝は450石を賜ったが、其の内15石の地を天岑寺へ寄付。今も太郎左衛門が子孫の政次郎が当主として知行せり」と記載されている。政次郎は新編武蔵風土記が編纂された文化・文政時代に小笠原家の9代当主を務めた人物で8代当主廣保の3男。

昭和28年地図
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現在の地図
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【天岑寺】
「新編武蔵風土記稿」の記述
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現在は三社権現と金比羅権現社に加え、澤稲荷も合祀されている。

○金比羅権現社・熊野三社大神・澤稲荷大明神
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社殿
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掲額には「金比羅権現」となっているが、
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中は、ちゃんと三社が並んでいた。
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○月待供養塔(板碑)
数回来て写真を撮っていたが、いつも暗くてよくわからなかったのだが、今回はちょうど陽が差し込んで、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩がよくわかった。
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○岩船地蔵
 享保17年(1732)田中村の安穏寺門前に造立されたが、昭和の中ごろ、天琴寺境内に移された。
施主は、田中村の念彿講中26人と法印俊賢。
狭山市には3基の岩船地蔵があるが、実際に船に乗った地蔵はこの地蔵尊だけである。
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○鐘楼
「鐘は宝永5年の銘なり」(1708年)とあるが、太平洋戦争で供出。
銘文の記録は残っていない。
現在の梵鐘は昭和51年再鋳したもの。市内で一番大きい。

五角形をした鐘楼であり、四角形か、長方形が一般的であるなかで珍しい。
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池の間第一区銘文: 絵が措かれている。
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池の間第二区銘文: 招凡越聖一声々・・・・・・・・・
とわかっているが、ここでは省略。
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池の間第三区銘文: 宮山前梵鐘は昭和十九年時として、余儀なく法器を武器に変えんが為・・・・
とわかっているが、ここでは省略。
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池の間第四区銘文: 絵が描かれている。
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【小笠原家墓地】
ここでは、まず小笠原家の祖について、少々述べておく。
狭山市の小笠原家の祖は、伴野小笠原時長からはじまる。
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これを見て、私はアッと思った。
調べてみると、小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、地名に因んで伴野氏を称したことに始まり、中世、信濃国佐久一帯に勢力を張った、とある。
私は、長野県佐久市に生まれ育ち、結婚するまで「依田」という苗字だった。
依田の家系はこのようになる。
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伴野小笠原時長の兄で「源為公」がいて、その子為実から「依田」を名乗る。この依田為実は、妻が源義賢の妹だった関係から、木曽義仲の蜂起を助けた人物である。
もちろん私の家はこういう家系とは月ほども離れているのだが、やはり気になる(笑)
依田と、狭山市の小笠原家は案外近かったということで、俄然関心が深まった次第である。

私にとって、小笠原といえば「小笠原長時」だった。
依田七家の総領「相木(依田)市兵衛昌朝」が武田信玄の腹心の武将だったということもあって、私は武田信玄の大ファンなのだが、小笠原総領家17代の小笠原長時は、一時信玄の強力なライバルだったのだ。

ちなみに狭山市の小笠原家も使用している家紋「三階菱」だが、この紋も調べたら大したものだ。
三階菱の紋は「王」の字に基づいている。
鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたている。
7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、しかし、はばかりのあることとして、ひそかに王の字をかたどり松笠菱の下太と称して家紋にしたと『寛政重修諸家譜』に記されている。これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。

小笠原家墓地
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初代小笠原安勝の墓
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小笠原安元(安勝の父)の墓
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三階菱の紋もよくわからなくなっている。
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こちらの灯篭の紋はよくわかる。
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この時話題となったのが八代廣保の墓である。
入り口の案内にも「夫妻・妾」となっている。
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たしかに左側面に「妾」の字が。
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この時代は、「妾」という言葉は蔑称ではなかったのかな。

この記事をブログにアップしてから、このグループの先生役の池田さんから説明が漏れたと以下の説明がありました。
(青字の部分)
「妾」という字は、江戸期以前の訓読みは「つま」と読み、れっきとした配偶者を表す「文字」です。
当時としては、ひどい言い方ではないのです。
小笠原家が酷い仕打ちをした訳ではありません。
ご安心下さい。
「めかけ」は「めをかける(女)」で明治以降の言い方です。 勿論、一段も二段も蔑んだ意味を持つ言葉です。
言葉を示すと次の通りです。
「妻」=「妾」で「つま」といい、同格です。そうはいっても、「妾」の子は「妻」の子になります。
「妻」=「妾」、「正室」=「側室」、「正妻」=「側妻」で全て同格です。
また、以上の言葉(漢字)は江戸期以前から文書に現れています。



現在は、34基の墓石がコの字型に整然と並んでいるが、昭和40年代までは墓地の中央部に8代廣保一家の墓石6基が2列に並んでいた。
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当時の写真
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さて、墓地には12代廣善まであるが、その後の小笠原家はどうなったのか?
この日の説明役の佐藤さんは、その面の狭山市での第一人者ということで、色々の説明をしてくださいました。

○幕末の小笠原家と子孫
墓所に3基も墓石を建立した12代当主廣善は養子で、27年間も田中村や澤村を治めたが、幕府が崩壊し明治政府となり旗本制度は無くなった。
以降の小笠原記録が狭山には無い。国会図書館にて、廣善の義弟である銀次郎が、精鋭隊に入隊して将軍慶喜を護衛して駿府へ行ったことが判明した。
徳川幕府が崩壊したので、12代当主廣善と家族は静岡へ移ったと推測される。義弟の銀次郎への家督相続の記録がある。廣善は幕府崩壊後に静岡へ移住した。
銀次郎こと廣直は、勝海舟の命にて精鋭隊を結成した中条景昭のもとに入隊して将軍慶喜を警護して水戸から静岡へ移動した。廣善より家督を相続した廣直は明治2年7月から牧之原開拓士族として牧之原開拓に従事する。1町4反の開墾をしたが夢破れた廣直は、明治16年に開墾を辞めて巡査となり、最後は東京で没した。
14代廣俊は大正13年に没す。
15代当主となった静子は、昭和12年、結婚するために小笠原家を廃家手続きし鈴木姓となる。
小笠原家は347年の歴史を閉じた。

平成26年11月25日、静岡県島田市から連絡あり15代静子氏命日は12月7日と知り横浜市にある長男・孝氏の自宅を訪ねた。孝氏より話を聞き、平塚の晴雲寺で静子氏のお墓参りをした。
「15代小笠原静子は30年前の12月7日に死去」

○昭和三十八年(1963)、静岡県にある金谷原町役場で倉庫の整理をしていたところ、「牧之原開拓士族名簿」や「開拓絵図面」などが発見された。
牧之原に入植した当時の方々が分担した土地・宅地などを示す十六葉の地図並びに印鑑集を発見できた。
翌年の昭和三十九年に金谷郷土史研究会の方たちの努力で、二冊の本が発行された。

発見された名簿の「小笠原銀次郎」
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小笠原家の墓地を後にして、下図のA点にやってきました。
ここに沢村の石仏と神社があります。
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【沢村の石仏】
三叉路のところに、二体の石仏がある。
左が馬頭観音像、右が馬頭観音文字塔。
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馬頭観音像 「浮彫立像 三面六臂」
寛政11年(1799)巳未年正月吉日
施主 澤村中    願主 観音経講中 横田喜平次
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馬頭観世音文字塔には
(右側)天保十二年(1841)七月吉日、(左側)願主  澤村 横田浅衛門
と彫られている。

【澤村にある神社】
○八坂神社
祭神:素箋鳴尊
旧澤村の鎮守。もとは現在地より百メートルくらい東南の地にあったが明治時代に、この地へ移した。
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御神体を入れてある神輿は明治ころ担いだが伝染病が流行したので、それ以来、神輿を担いでない。
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○雷電神社  石嗣
以前は天琴寺の境内にあった。現在は八坂神社の境内社。
通称‥「おしやもじさま」と呼ばれ百日咳や-般の咳に効き目があったと伝わる。
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正面 雷電神社
右側 発起人 澤村 横田安五郎  願主  澤村中
左側 明治十四年巳二月上院 天琴寺廿四世 現瑞代
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 澤村の地は、昭和時代の中ごろまで、低地の周辺は湧水による湿地帯で弛もあり、弁天池と呼ばれ弁財天も祀られていた。
昭和28年の地図には、池がある。(B点)
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 平成の現在、池は宅地造成のため埋められ、周辺には新築の家が次々と建っている。証拠の弁財天は埋められた池の近くに建てられた住宅の生垣の中にひっそりと置かれているそうです。
当日は見ることができなかった。

現在のB点
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

頑張っていらっしゃいますね。

日本の建物って、西洋のように石造りではなく、木造だと言うのに、神社やお寺って、大昔からのものがほとんど場所を変えずに、残っていると言うことは驚異的ですよね。

雷電神社、あの雷電為右衛門と関係あるのかと思って調べてみたのですが、単に雷除けの神様のようで、相撲取りとは関係ないようですね。

妾の字は私も調べてみましたが、当時は「側室」に当たるようですね。

matsumo さん

コメントありがとうございます。
雷に関する神社は多いですね。
あれは、昔の人は恐ろしかったと思います。
まさに、天が怒っているように思ったことと思います。

妻、妾、結局は、子を成す、しかも男子を成した方の勝ち。
基本に女性蔑視があって、家を継ぐ子を成すことが
重要でしたからね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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