西山の里/関八州式内社めぐり・番外

20141221

所在地:茨城県常陸太田市新宿町576

この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日の「関八州式内社めぐり」で「天志良波神社」から「薩都神社」に移動する途中、訪れました。
徳川光圀公の隠居処であった西山荘の入口にある休憩施設「董源」、西山荘と桃源を結ぶおよそ8,000平方メートルの園地、助さん住居跡、西山荘があります。

案内図
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紅葉を楽しみました。
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助さん旧居跡への遊歩道
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【助さん旧居跡】
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西山荘に向かいます。
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【西山荘碑】
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【朱 舜水碑】
朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。
舜水は仕官はしていなかったものの鄭親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権の魯王や、台湾に拠った鄭成功を支援し、永暦13年(1659年)7月の南京攻略戦にも参加している。

舜水は鄭成功が鎖国政策下の日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていたが、南京攻略戦の敗退後、万治2年(1659年)冬に復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命する。万治3年(1660年)には筑後柳河藩の儒者・安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていたが、寛文5年(1665年)6月には常陸水戸藩主の徳川光圀が彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年7月には江戸に移住する。

光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。
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【西山山荘記碑】
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西山山荘記        正二位勳二等徳川昭武篆額』
西山公山荘在常陸国久慈郡西山距太田街十余丁元禄三年公所隠棲也』公之盛徳大業行實一卷詳之詎要贊述乎明治三十三年十一月 勅使就』公墳塋贈正一位 詔曰夙慨皇道隠晦深恐武門驕盈明名分以託志於筆』削辨正邪而致意於勧懲洵是勤王倡首實爲復古指南天眷如斯公遺烈於』是乎大顯也夫身居三家之一官陞三位中納言冨貴榮華何求有不得乎而』高蹈勇退誅茅結廬寄興煙霞養素丘園西山遺事曰山荘尤極幽寂鳶尾草』生茂茅簷蔦蘿蔓紏纏柴門不設垣墻倚山爲圍通路之傍厪結竹籬耳屋高』八尺五寸弱梁長十二尺弱柱皆用圓杉竹椽板廊畿類樵夫之居庭砌一隅』飛泉迸澗潺湲洗耳前後之池種紅白蓮書牕之下栽梅桂玉蘭籬邊移垂柳』四五株近田飼雙鶴前山放一鹿而鶴鹿善馴山外邨徑兩側樹桃數百株小』川流其間柴橋架之名桃源橋公在山荘十歳觸時感物吟詠自遺常語左右』曰昔中納言藤原顯基願無罪而觀配所月我亦慕其風雅矣今距元禄三年』二百十餘年山荘猶存舊規小門老屋僻在于窮山深樹之間若無意而過之』則是山中樵家耳欽慕入門則覺僊隠龍盤之蹟表儉徳以垂訓矣公甞瘞歴』任衣冠於瑞龍山銘碑曰月雖隠瑞龍雲光暫留西山峰満山樹艸至今猶隠』約帯餘光豈可不崇敬乎遠近有志者胥謀建碑山下余恭作之記』
 明治三十八年八月        珂北 野口勝一譔文并書』


協賛者の最後に「常陸山」の名があった。
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、西山荘って常陸太田にあったのですか。私はてっきり、水戸市にあるのと思っていました。そう言えば、確かに、水戸市の案内図には西山荘は見かけたことがなかったです。

それにしても、助さん、格さん、水戸黄門等の漫遊記って、おそらく、講談から生まれたのだと思いますが、明治時代辺りから始まったものなのでしょうか。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
『水戸黄門漫遊記』ができたのは幕末で、
明治になって講談で大ブームになったようです。
それからずっと、ついこの間までテレビで
水戸黄門が続いていましたからね。
すごいことです。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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