屋形船で隅田川を楽しむ

20150221

19日(木)に歴史クラブの行事で楽しんできました。
新木場まで電車に行き、そこに屋形船の業者が送迎バスで迎えに来てくれました。

着いてから乗船までちょっと時間があったので橋の上から係留されている屋形船を眺めました。
向うから二番目に繋がれているのが、私たちが乗った屋形船です。
150220yakata01.jpg


屋形船(やかたぶね)とは、和船の一種で、主に船上で宴会や食事をして楽しむ、屋根と座敷が備えられた船のこと。楼船(ろうせん)ともいう。
平安時代からその原形はあり、貴族の遊びなどに使用されていた。河川整備が進んだ江戸時代に栄え、大名や豪商などに花見や月見、花火などの遊びに愛用された。特に隅田川の屋形船は金銀漆の装飾で飾り豪華であった。延宝年間(1680年頃)までが全盛期で、天和2年(1682年)の大船建造の禁により衰退し始めたという。
明治維新の後も引き続き親しまれたが、第二次世界大戦での敗戦後に「文化の移り変わり」「河川の劣化」(水質汚濁)などで勢いを失っていった。
昭和時代末期のバブル景気や水質の改善や、河川での観光などに屋形船を利用するなど、見直されつつある。
(Wikipediaから)

今回私たちは、ここから隅田川に出て、「さくら橋」の手前まで上がっていき、引き返してくるコースです。
この図は、別の業者のサイトからいただいた図ですが、右の方から「中央大橋」の上に出て、上にさかのぼっていくわけです。
150220yakata02.jpg


乗り込みます。
150220yakata03.jpg


私たちは24名、それに大学生のグループ10名くらいと乗り合わせて、和気あいあいと楽しみました。

辰巳国際水泳場の横を通ります。
150220yakata04.jpg


水路の脇に、高層マンションがにょきにょき建っている。
150220yakata05.jpg


150220yakata06.jpg


東京海洋大学の「明治丸」の横を通る。
150220yakata07.jpg


「中央大橋」かっこいいですね。
ここから隅田川です。
150220yakata08.jpg


船内は、「もんじゃ焼き」を楽しんでいます。

もんじゃ焼きの起源は、安土桃山時代に千利休が作らせていた「麩の焼き」であるといわれている。その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼」が生まれる。この食べ物は東京・大阪で大流行し、明治時代には「もんじゃ焼き」「どんどん焼き」が生まれた。1819年刊の『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことが分かっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」これが「もんじゃ焼き」となったとの説と、豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」と呼ばれる男に由来する説とがある。東京都台東区浅草近辺が発祥地とされる事が多いようである。過去に盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈である東武伊勢崎線、旧奥州街道である国道4号などの集積地であるこの付近を基点に、関東の他の地域に伝播したと言われている(異説もあり。群馬のもんじゃ焼き参照。)。後に、このもんじゃが変化して「お好み焼き」「どんどん焼き」が出来上がった。
150220yakata09.jpg


150220yakata10.jpg


150220yakata11.jpg


だいぶ上がってきて、小名木川にかかる「萬年橋」です。
150220yakata12.jpg


その横の「芭蕉像」
150220yakata13.jpg


隅田川テラスには、色々な浮世絵などの壁画があって楽しませてくれます。
150220yakata14.jpg


スカイツリーが見えるところまで上がってきた。
150220yakata15.jpg


スカイツリーと東武のロマンスカー。
150220yakata16.jpg


スカイツリー、屋形船、乗っている屋形船のちょうちん。
150220yakata17.jpg


「さくら橋」の手前まで上がってきました。
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に創架が始まり、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ。形状は平面のX字形の特異な形をしている。
150220yakata18.jpg


150220yakata19.jpg


2012年4月24日に、やはり歴史クラブの行事で「隅田川ウォーク」をしたときに撮った写真です。
150220yakata20.jpg


ここから下りはじめたので、窓際に陣取って、通過する橋を全部撮りました。

「言問橋」
150220yakata21.jpg


150220yakata22.jpg


国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。
関東大震災の震災復興事業として計画された橋。両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋である。川端康成は小説『浅草紅団』(先進社、1930年)[1]の中で、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、「ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。」と記している。

ちなみに、「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。
有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。

次いで、東武の線路橋を通り過ぎるときに、面白い写真を撮りましたよ(嬉)

「東武の線路橋」
アサヒビールのビルの鏡面ガラスに色々なものが写る。
150220yakata23.jpg


東武のロマンスカー
150220yakata24.jpg


源森川水門
150220yakata25.jpg


150220yakata26.jpg


こんどはアサヒビールビルの鏡面ガラスにスカイツリーが写る。
150220yakata27.jpg


スカイツリーとアサヒビールビル
150220yakata28.jpg


屋形船もやってきた(笑)
150220yakata29.jpg


ここで江戸時代のスカイツリーを載せておこう。

広重「両国回向院元柳橋」
富士山と三角形の関係を考察しています。
これに現在のスカイツリーを描きこんだ風呂敷がお土産として好評のようです。
150220yakata30.jpg


歌川国芳の「東都三ツ股の図」。
天保2(1831)年ごろの作とされ、隅田川にシジミ取りの舟が浮かび、手前には舟底をいぶす2人の職人が描かれている。絵の左奥は対岸の江戸・深川辺りで、他の建物を圧するような細長い構造物が二つ見える。左側の低い方は当時存在した火の見櫓(やぐら)とされ、その右の巨大な組み立て式の塔は実在しなかったという。これをスカイツリーの予言だ、とよく取り上げられます。
150220yakata31.jpg


「吾妻橋」
東京都道463号上野月島線吾妻橋支線(雷門通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および花川戸一丁目を分かち、東岸は墨田区吾妻橋一丁目。橋東岸の墨田区の町名でもあり、一丁目から三丁目まで存在する。
東武伊勢崎線・東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線の浅草駅はこの橋の西岸にあり、東岸約500メートル先にこの橋の名を冠した本所吾妻橋駅(都営浅草線)がある。

また、東京都観光汽船の桟橋である浅草ステーションが橋の西詰に設けられている。ここから浜離宮を経由して東京港日の出桟橋まで運航されている隅田川ラインと称する航路が出発している。この為、隅田川下りの拠点の一つとしても著名な地点でもある。

創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものである。
長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが行われたようである。

広重「吾妻橋金龍山遠望」
左手に吾妻橋と富士 右手に浅草寺が描かれているので、現在のさくら橋あたりから描かれた構図だとわかる。
手前には 船が大きく描かれているが、幕末ともなると このような船遊びが庶民の間で流行したとある。
150220yakata32.jpg


現在の「「吾妻橋」
150220yakata33.jpg


150220yakata34.jpg


「駒形橋」
1927年(昭和2年)に竣工。
東京都道463号上野月島線(浅草通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形一丁目と吾妻橋一丁目を分かつ。橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因む。

関東大震災後の復興計画により現在の橋がはじめて架橋された。それまでは「駒形の渡し」があった場所である。
150220yakata35.jpg


150220yakata36.jpg


屋形船、超近代的な観光船にマクられる(笑)
150220yakata37.jpg


「厩橋」
東京都道453号本郷亀戸線(春日通り)を通す。西岸は台東区蔵前二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区本所一丁目。
橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなむ。
もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所である。
1872年(明治5年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されることとなる。 1874年(明治7年)10月6日完成。長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋が架けられたと伝えられる。現在よりも約100mほど下流の位置にあった。
150220yakata38.jpg


150220yakata39.jpg


「蔵前橋」
東京都道315号御徒町小岩線(蔵前橋通り)を通す。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。橋名は「蔵前通り」にちなみ、また橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されている。1954年(昭和29年)9月~1984年(昭和59年)12月まで東詰に蔵前国技館があり、高欄には力士などのレリーフが施されている。

関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所である。
150220yakata40.jpg


150220yakata41.jpg


「蔵前専用橋」
NTT東日本蔵前通信ビルと対岸を結ぶ。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。名称は「NTT蔵前専用橋」とも。当初は旧電電公社時代に作られたこともあり、「電電蔵前専用橋」とも呼ばれた。

日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋で、水道橋も兼ねる。特徴として洞道内部の夏期の高温時対策のために換気用の窓が設置されている。橋上には立ち入りすることはできない。
蔵前橋の南側に近接しており、白い箱形の躯体で、橋からの景観を損ねるという意見も見られる。
150220yakata42.jpg


150220yakata43.jpg


壁画でいいのがあった。
150220yakata44.jpg


150220yakata45.jpg


国技館
150220yakata46.jpg


「JR総武線の線路橋」
150220yakata47.jpg


「両国橋」
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。両国広小路の項も参照のこと。

広重「両国橋大川ばた」
隅田川は場所によって名をかえ、浅草川とか今戸川とか呼ばれることもあったが、両国橋より下流は大川と呼ばれた。
そのなかで 大川端とは両国橋下流の右岸、つまり日本橋側のことをいった。絵の中で橋はゆるい弧を描き、手前に両国広小路の賑わいが描かれている。
150220yakata48.jpg


現在の橋は、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す。
西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。
現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。
150220yakata49.jpg



そして、「首都高速6号向島線」の橋が、川の上で分岐しているので見事なカーブの橋があるのだが、これを撮った写真が見事にピンボケ。
残念。
このころから、カメラのピンボケがひどくなった。


「新大橋」
東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。
橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
新大橋は非常に何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。

広重の「大橋安宅の夕立」
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。
150220yakata50.jpg


現在の新大橋
150220yakata51.jpg


「清洲橋」
東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋(英語版、ドイツ語版)の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。
もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。
150220yakata52.jpg


150220yakata53.jpg


「隅田川大橋」
隅田川大橋(すみだがわおおはし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道475号永代葛西橋線(葛西橋通り/水天宮通り)を通す。西岸は中央区日本橋箱崎町、東岸は江東区佐賀1丁目。首都高速9号深川線の高架橋と一体化されて建設されており、中央区側で同高速箱崎ジャンクションを、江東区側で福住出入口をそれぞれ構造体に含む。また、地下には東京メトロ半蔵門線が通っている。

隅田川唯一の二層式のこの橋は、首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が、完成の翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通した。建設当時の風潮によるものか、機能性重視の設計デザインになっていることもあり、景観的に好ましくないとしての声も少なくない。
当橋は二層式のため、本来対に設計された永代橋・清洲橋を仕切るかのように、双方から見通せなくなっている。
隅田川にかかる橋梁のなかでも比較的新規に建設されたため高架部も高めに設計されており、そこからの眺めがよいものとなっている。

撮った写真が見事にピンボケでした。たぶんマニュアルフォーカスのボタンを押してしまったのでしょう。
最近眼が疲れ易いので、自分の眼のほうがおかしくなったのかな、なんて考えていました(笑)
この写真は、Wikipediaに載っていた写真です。
150220yakata54.jpg


「永代橋」
東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。地下に東京メトロ東西線が通る。夕刻から22時まで青白くライトアップされる。

永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。

第5代将軍・徳川綱吉の50歳の誕生日を記念して架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。

元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。

広重「永代橋佃島」
150220yakata55.jpg


現在の永代橋
ここもピンボケの写真だったので、Wikipediaに載っていた写真を載せておきます。
150220yakata56.jpg


一度、隅田川にかかる橋を全部撮りたいと思っていたので、満足した気持ちで下船。
残りの橋は、追々追加していきます。
お疲れ様でした。
150220yakata57.jpg



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

コメント

No title

四季歩さん
隅田川に架かる橋はどれも美しいですね。
橋とか水門とか男性には特に人気がありそうですね。(うちの息子も然り)
屋形船も皆さん楽しそう^^
四季歩さんはカメラマンだからいつも映っていないけど、たまには他の人に撮ってもらって姿を見せてくださいよ。私くらいにしかばれないからきっと大丈夫よ(笑)

No title

四季歩さん、こんにちは

屋形船ですか、いいですねえ! 私は未だに一度も乗ったことがありません。ですから、隅田川は堤防つたいや橋からしか見たことがありません。

蔵前橋のすぐ側で、川から見て西側にあった蔵前国技館(現在の蔵前2-1辺り)は何回か、見たことがありますが、覚えているのは白い大きな建物だったと言うことだけです。若乃花だったかが、優勝すると、優勝パレードが行われ、優勝力士が乗ったオープンカーが蔵前橋通りを西方向に進んで行ったので、何回か、見たことがあります。また、昭和天皇も昭和通りを通って蔵前国技館に行っていました。

私は下町生まれですが、「もんじゃ焼き」と言うのは、大人になってから知りました。私の家の側には「お好み焼き」の店はありましたが。


コメントありがとうございます

Jさん
息子さんも、写真を撮るのがお好きなようですね。
今でも一緒に出掛けておられますか?
私は、自分の写真はあまり残ってないですね。
この間、母親が亡くなったときに遺影にする写真を
探している時に、年に1、2枚はちゃんとした写真を
残さないとなあ、なんて思いましたが(笑)


matsumoさん
私は、蔵前国技館を知らないです。
同じ隅田川の景色を眺めていても、歴史を知っている
人にとっては、違う景色に見えますよね。
お好み焼きは好きなほうですが、
もんじゃは、今回初体験でした。
また良いものだなと思いましたね。
非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop