霞川の史跡を歩く-2(2)

20150303

2月25日(水)に、歴史クラブの行事で訪ねた、青梅市、入間市の霞川流域の史跡の続きです。

【宝泉寺】
所在地:東京都青梅市藤橋2丁目
前回の記事の最後、「柚保葛(そまのほかつら)神社」の隣にあります。
真言宗豊山派、応永元年(1394)の開基と伝えられる。塩船にある「塩船観音」の末寺として興誠を誇ったようです。
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本尊
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「柚保葛(そまのほかつら)神社のところで紹介した、建武4年(1337)、応安7年(1374)の板碑は宝泉寺のものですね。これをはじめ、23基の板碑があるそうですが、墓地のなかは探しませんでした。


【正福寺】
所在地:東京都青梅市今井2丁目1045番地

入り口に石仏群があり。
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六地蔵(文化2年 1805)
片方が植え込みにさえぎられているのが残念。
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参道の反対側は、綺麗な状態だった。
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山門
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時宗、当麻無量光寺の未。『武蔵野名勝図絵』に「往昔今井四郎左衛門尉経家の子孫、同宗家とVゝう人此地を数代伝領して子孫住せし故、村内正福寺をも開基し、墳墓もその寺中にあり」とある。同書福正寺の条に「本尊阿弥陀、脇士両尊、此仏の足裏に銘文あり応永二年(1395)今井氏為菩提と記せり」とあるが、この仏像は現存しない。
今井氏墓《市史跡》と伝えられる墓所に、応永10年(1403)と応永14年(1407)の宝筐印塔や五輪塔がある。この地域最古の弘安五年(1282)の板碑もある。
正福寺が立つ場所は、かつて七日市場と呼ばれ、江戸時代に宿場が青梅に移されるまでは、この地域の経済的な中心地であった。

「大黒天と薬師如来のお堂」
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大黒天は、かろうじてお顔がわかった。
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薬師如来は、覗ける格子窓からは幕に邪魔されてお顔は見えず。残念。
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珍しい「摩利支天」のお堂があり。
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本堂
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堂内
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本尊
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今井氏墓地
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宝筐印塔と五輪塔
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霞川を渡ります。
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【薬王寺】
所在地:東京都青梅市今井1-2520
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山門前にお地蔵さんがあり、足元に枯れ木から作ったお供え物がGood!!
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山門(鐘楼門)
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七国山薬王寺、真言宗豊山派、本尊:薬師如来、開基は中世と推定される。法相宗の僧良誓〈暦応2年(1339)没〉が奈良から聖徳太子の作と伝わる薬師像を持って来て一堂を建立したのに始まるという説、足利尊氏の開基という説がある。
暦応2年(1339)の板碑が現存する。
慶安2年(1649)に徳川幕府から薬師堂領10石の朱印状が与えられている。現在の薬王寺は、天明年間(1781~89)に衆海法印によって中興され、本堂も再建され、その時から塩船寺(真言宗)の末寺となった。山門は青梅市内で唯一ので、二階に鋼鐘がある。寛政6年(1794)に青梅裏宿の鋳物師・島村照思が鋳造した《市有形文化財》。寺域も《市史跡》。
神仏分離令のため、100余戸の檀徒がわずか7戸となって寺の存立も危うくなったが、その後の復旧の努力によって、大正15年に大改築がなされ現荏に至っている。明和3年(1766)の石橋供養塔などの石仏・板碑がある。
西側の丘に七国山不動堂があり、2月3日の節分の日には、本堂前から松明を担いで登り、護摩に点火する。

本堂
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梅が咲き始めていた。
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前の斜面にはつつじが多く、咲いたら見事でしょう。
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墓地に行って、暦応2年(1339)の板碑を探した。
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見つかりました。
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他にも、板碑が点在していました。
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明和3年(1766)の石橋供養塔
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ご詠歌が刻んである。
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西側の丘に上がり、七国山不動堂を見に行きます。
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不動堂の前に「倶利伽羅龍」があり。
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不動堂
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高い所にのぞき窓があり、そこから内部が見えた。
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しかし、そこからでは不動尊は足しか見えず。閉まっている扉の隙間からかろうじて見えた。
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横の弁才天
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獅子が左右に侍っている。
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まん丸い石が奉納されていた。
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【今井城跡】
所在地:東京都青梅市今井
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今井氏数代の居館と伝わるが、今井城の歴史については正確なことは一切わかっていない。
1967年の発掘調査で、祭祀の場を設け供養が続けられた場所(墓地)が破壊され、土塁の中へ埋め込まれていたことが判明した。正和元年(1312)から大永2年(1522)の銘がある板碑も約40基出土した。このことから、今井城は1522年以降に造築されたと推定される。さらに、“現在の城の前にもう一つ古い城があったが、今井地域の支配権が交代して城主が代わり、現在の城が造築された”という説がある。

今井城は、加治丘陵の南縁にあって、霞川に沿った低地を望む舌状台地上に築かれている。現在確認できる遺構は、東西方向に横たわる舌状台地を南北方向の空堀で分断し、その先端部分の東西約120メートル、南北約90メートルの範囲にあります。
 城の純張りは、大きく三つの曲輪からできています。東端に位置する曲輪1は、東西約40メートル、南北約50メートルの長方形で、南東部分を除いて、土塁で囲まれています。ほかの二つの曲輪が土塁で囲まれていないことからみても、ここが今井城の軍事的な中心曲輪で、近世の城郭でいう本丸に相当します。
 曲輪2は、東西約20メートル、南北約40メートルの変形した台形で、曲輪1の西方に空堀を隔ててあります。
そして、曲輪の南端は、細長く束に張りだし、曲輪1を包み込むような形になっていて、南の低地部から曲輪1へ近づきにくいような構造になっています。
 曲輪3は、東西約65メートル、南北は最大で約20メートルの東西に細長い曲輪で、曲輪1の北方に空堀を隔ててあります。この曲輪は、北からの侵入に対して備えたもので、曲輪1の空堀側に面して土塁が築かれているのも、曲輪3に敵が侵入しても、ただちに曲輪1に敵が攻撃を仕掛けられないための備えと考えられます。
 各曲輪間の連絡は、すべて土橋か木橋と考えられ、そぞれ工夫がこらされていたことが発掘で明らかとなっています。たとえば土橋は、上面を低く掘削し、その底に箱形の溝を切って、防御性を高めています。また、空堀のなかを敵が侵入した場合に備えて、障子と呼ばれる仕切りが作られ、曲輪1に近づきにくくするというように、きめ細かな防御機能と、もしも城内での戦闘となっても、城方にとって有利になるような工夫が随所にみられます。
 このように今井城は、規模は小さいとはいえ、非常に見事な縄張りをもった城であって、それがほぼ完全な形で残されていることが貴重です。

曲輪2から入っていきました。
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曲輪2と曲輪1を結ぶ虎口。
両者をつなぐ土橋がかなりの坂になっている。
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横から見た土橋
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土橋の左右の空堀
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曲輪1は広い
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曲輪1の真ん中辺で見上げた空
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曲輪1からの崖
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空堀の中をいく参加者を曲輪3から見下ろす。
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堀に折れを作っていて、けっこう複雑になっている。
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【三柱神社】
鎮座地:東京都青梅市今井1-608

旧格式:無格社、別当寺:真福寺(廃寺)
文明17年(1486)当地の豪族、平山氏によって三宝荒神が祀られ、以後明治まで「荒神様」と呼ばれた。文禄2年(1593)当地の町田市之介が火難除けのため現在の祭神を祀り、寛政元年(1789)に町田嘉右衛門が社殿を造営した。養蚕が盛んだった頃は蚕神として信仰されていた。

三宝荒神は仏教の三宝守護と民俗的な荒神信仰が陰陽道などの影響を受けて結びついたもので、竈神や火の神と同一視されます。極めて神仏習合的な存在です。

鳥居
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手水舎
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石灯篭(天明元年 1781)に「三宝荒神宮」とあり。
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拝殿
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社額「三柱神社」の下に、古い社額「荒神宮」もあり。
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祭神:火産霊命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おくつひこのみこと)、奥津姫命(おくつひめのみこと)

本殿は覆い屋の中でまったく見えない。
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神紋は「丸に抱き沢潟」
平山氏か町田氏の家紋なのだろう。
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【瑞泉院】
所在地:埼玉県入間市大字木蓮寺874

瑞泉院の霊園が「西東京コスモパーク霊園」ということで大々的に開発されていて、その規模に圧倒されました。
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ここに、金子氏一族の宝筐印塔付位牌があります。
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武蔵七党の村山党に属し、保元の乱より壇ノ浦に至る源平合戦に加わり、数々の武功をたてた典型的な武蔵武士である金子十郎家思および一族の墓があり、6基の宝筐印塔と位牌が残る。
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位牌堂
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金子十郎家忠は家範の二男で武芸に秀でており、19歳で保元の乱(1156)に初陣し、平治の乱(1159)では源義平(みなもとのよしひら、1141~1160)に従う17騎の一人として活躍しています。
治承4年(1180)源頼朝挙兵時には村山・金子氏は大庭景親(おおばかげちか、生誕不詳~1180)が率いる平氏討伐軍の一員として頼朝を支持する三浦半島の雄、三浦氏の衣笠城攻撃に加わります。やがて頼朝が下総・上総の主力武士団を編成し武蔵国境に迫り、武蔵に影響力を有する畠山氏・河越氏・江戸氏らに参向を呼びかけます。平氏方として武蔵国通過を阻止する立場でしたが最終的には頼朝に降陣し、金子氏もその頃参向し御家人として忠節を尽くすことになります。
具体的には木曽義仲追討の宇治川合戦を始めとし、平家に対する一ノ谷・屋島の戦いでは源義経に従い弟の近範(ちかのり、生誕不詳~1220)と共に華々しい戦功をあげています。

しかし、建暦3年(1213)頼朝外戚の北条氏と侍所別当の和田義盛(わだよしもり、1147~1213)との争いが起り、すべての御家人を巻込むほどまでに発展し、金子家高は和田氏側に与した結果北条義時(ほうじょうよしとき、1163~1224)に殺害されますが、金子氏の中には所領安堵された者もあって本領の金子郷はそのまま鎌倉・南北朝以降も継続されることになります。

狭山市には、金子氏ゆかりの「東三ツ木の薬師堂」があります。
子孫である金子国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めた。
三ツ木国重が金子領三ツ木に住んでいたところ、国重の守護仏である薬師如来の夢枕お告げにより、狭山市の現在地に移住しお堂に薬師如来を祀り、この地を開拓して故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けた。
明治の郡区町村編制法の施行に伴い、明治12年(1879)に入間の三ツ木を西三ツ木、狭山の三ツ木を東三ツ木と称するようになったわけです。

宝筐印塔と位牌堂から下って来る途中、七重石塔と大きな供養塔があり、その奥に面白い石像がありました。
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神仏習合時代に作られた神像ですね。
「開○折姫命」とある。
頭に鳩か鴉を乗せている。どちらにしても神功皇后がふさわしいのだが、それだと「息長帯比売命」なのだが・・・??
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こちらは「虚空蔵」とあり、虚空蔵菩薩。
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【桂川神社】
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鳥居
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手水舎
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水盤に「真名井神水」とあり、水盤の下に青々とした植生が。
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拝殿
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本殿の覆い屋は隙間なく、本殿は見えない。
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神紋は「左三つ巴」
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雷電社
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拝殿の壁に大山詣での「納め太刀」が掛けてあった。
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「納め太刀」とは:
江戸時代に庶民の間で広まった大山へ願いを書いた木太刀を奉納することです。起源は源頼朝が「武運長久」を祈願したことが始まりとされています。当時は真剣を納めました。それが江戸時代に庶民に広まり、一般的には石尊大権現(阿夫利大神)に木太刀を納め、納めてある別の木太刀、もしくは1年後に再び登拝をして自分たちが前年に納めた木太刀を持ち帰ります。特に山頂までの登拝が許される夏山(旧暦6月27日~7月17日)にはたくさんの参詣があり、浮世絵には木太刀を担いで東海道を往来する人々の姿が描かれ、木太刀と夏山は川柳も詠まれています。

広重「東海道五十三次細見図会 程ケ谷」
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以上で、この日の予定を終了。
「南峰」バス停からバスで入間市駅に戻りました。

(了)


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コメント

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四季歩さん、こんにちは

青梅のお寺って、結構、板碑があるのですね! 全く知りませんでした。私の場合、板碑って、博物館とか、お寺の境内でも本堂の側とかでしか見たことは無かったのですが、考えてみると、板碑は本来、墓場にあるものなのですね! ううん、完全に盲点でした。私の場合、本堂等は撮影しますが、墓場までは基本的に行かないもので。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
墓地は入りにくいですよね。
私たちも、あることがわかっているので入れるんですよね。
それはネットで調べてわかったり、
江戸時代に編まれた「新編武蔵風土記稿」を見て、
その寺の記事に「古碑あり」などと書かれていたりするので。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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