狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/上廣瀬村・下広瀬村(2)

20150321

3月10日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」-「上廣瀬村・下広瀬村」の続きです。
禅龍寺から山崎家に向かいます。
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途中富士講「まるろ講」の高橋家敷地にある石碑を見ました。
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「月山 湯殿山 羽黒山 西国 秩父 坂東 巡拝供養塔」です。
凄いですね。
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【広瀬村境界絵図面及び分見野帳】
山崎家門前に説明があります。

山崎家入り口
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山崎家門前
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広瀬村境界絵図面(元禄3年) 山崎滋夫氏所蔵
縦395.0Cm 横331.0Cm
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広瀬村境界絵図面(弘化4年) 山崎滋夫氏所蔵
縦108.0Cm 横232.0Cm
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分見野帳(弘化4年) 山崎滋夫氏所蔵
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【襷坂】
広瀬富士浅間神社前の坂を「襷坂」という。
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名前の由来の道が交差しているところ。
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【西光寺石仏】
西光寺は「新編武蔵風土記稿」に載っている寺だが、明治になり廃寺となっている。
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その所縁の石仏、住職卵塔が霞ケ丘墓地内にある。
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「新編武蔵風土記稿」に載っている「辨天社」がこれであろう。
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【清水宗徳の墓】
清水宗徳は明治の産業近代化の先覚者で、非常にスケールが大きく時流を見極める先見性に優れた狭山市が生んだ大人物です。
宗徳は天保14年(1843)に、上広瀬村で代々名主と広瀬神社の神官を勤める清水家の長男として誕生しました。13歳で梅沢台陽(だいよう)に書道と学問を、22歳の頃には井上頼囲(よりくに)に国学や漢学を学び、そして和歌を修めています。
 文久3年(1863)には父の後を継ぎ20歳で名主となり、上広瀬村の最後の名主として明治維新(1868)を迎えました。 明治維新という時代の変化に合わせて製糸業や鉄道事業にも取り組んで入間郡西部地域の産業振興に努め、政治家として県会議員、衆議院議員としても活躍し、国政や地方の殖産興業に大活躍をしましたが、明治42年(1909)8月17日に67歳でこの世を去りました。

墓の高さは全高369cmです。
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川越鉄道創立委員で、入間馬車鉄道第2代社長です。
入間馬車鉄道は川越鉄道の入間川駅と飯能方面を接続させようと設立された。宗徳は赤字経営が続く同鉄道を再建するため二代目社長に就任し、辣腕をふるって経営改善に取り組み赤字を解消したといいます。
墓石の下の二本のレールは、その業績を讃え、入間馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いてあります。
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墓の前面には広瀬の地が広がっている。
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また、この墓域には神道の墓が集まっていて、参考になります。

【愛宕社】
「新編武蔵風土記稿」に「正覺学院持ち」と載っている。
現在、広瀬富士浅間神社の隣にある。
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【広瀬富士浅間神社(富士塚)】
「新編武蔵風土記稿」には記載されていませんが、狭山市にとって大きな宝です。
現在も富士講が活動しています。
北口本宮富士浅間神社の公式ホームページに、現在も活動している富士講のリストがありますが、埼玉県で9つの富士講が載っていて、「•狭山市 水富丸ろ講」とあったので、とても嬉しかった。

この神社は万延元年(1860)7月に安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講により創建された。
河岸段丘を利用して造られた当神社の富士塚は登り口に石造の立派な鳥居があり、急斜面に設けられた稲妻型の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちょういし)をはじめいくつかの石碑があり、頂上には富士浅間宮と刻まれた石碑が建てられている。
祭神は木花咲耶姫命、彦火火出見尊、大山祗之尊。
富士信仰の基礎が江戸時代に長谷川角行東覚(はせがわかくぎょうとうかく)により確立され、享保年間(1716~36)に食行身禄(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊藤伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東地方一円に同信者の集団である「富士講」が組織されていきました。
富士講の人たちは富士山を模した富士塚を築き、信仰の拠点としました。こうした富士塚は、その頂から富士山を眺望する遥拝所(ようはいじょ)としての役割を担っていると同時に、地域の老人や婦女子にとっては、この塚に登れば富士登山と同様の功徳が得られるありがたい場所でした。
なお、当神社の富士講の「紋」は、丸の中が緋色に塗られて、その緋色の中に「ろ」の字が書かれています。つまり緋色を背にした「ろ」で「ひろせ」を意味するそうです。
また石碑に彫られた文字や神社名を見ると、江戸時代までは浅間宮といったが、明治以降は浅間神社というようになるので、神社の創建時代が分かります。

富士塚の全貌
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上り口の鳥居
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養蚕神社(慶應2年 1866)
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4合目にある浅間宮(明治15年)
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御神木の根元に、〇ろ講の「火の用心」の札があり。
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五合目の丁目石
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「小御嶽大神」碑
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足元に「烏帽子岩」が。
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烏帽子岩
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「入定食行身禄」、「入定書行藤佛」が書いてある。
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頂上の「富士浅間宮」碑
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【庚申塔】
富士塚の中腹にあるお堂に、かって正覚院(しょうがくいん)にあった庚申塔が祀られています。
 この庚申塔は寛政11年(1799)12月に建てられたもので、丸彫りの青面金剛は市内ではこれ一基のみです。六臂には三叉矛・宝輪・矢・宝剣・半裸の女人を手にしています。大きさは高さが106cm、幅が40cm、台座の高さが66cm、台座の幅が60cmです。
 台座正面には「惣村中」とあり、裏面には上広瀬村、両側面と面には造立にかかわった斎藤喜左衛門・清水吉次郎・岸庄右衛門ほか34名の村民の名前が刻まれています。また裏面には正覚院の名もみられます。

お堂
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庚申塔
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「丸ろ講」の富士浅間神社拝礼
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富士講が現在も活動しているので、当然「火まつり」があります。
「広瀬の火まつり」については記事があります。

それを読む



以上ですべての予定をこなし、富士塚の前で解散となりました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

富士塚のところ、興味を持って読ませていただきました。ここ、結構、大きな富士塚ですね! そばに坂があるところをみると、おそらく自然地形に+αして築造したものだと思いますが、都内にある江古田富士塚と同じく位あるのではないでしょうか。残念ながら、溶岩はないようですね。

後、途中にある庚申塔も素晴らしいですね!


matsumoさん

コメントありがとうございます。
この富士塚は、現在も富士講が活動していることもあり、
自慢の富士塚です。

庚申塔は、石造で丸彫りですから、
これもとても良いものです。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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