狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/柏原村(前半)

20150502

4月14日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は池田さんと私。

朝9:30に智光山公園集合。ここからスタートしました。

柏原は広いので二回に分けて実施することにし、今回は北東部編としました。
コースは、智光山公園⇒町久保周辺⇒上宿周辺⇒常楽寺⇒城山砦⇒智光山に戻る。
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【智光山公園】
新編武蔵風土記稿記述で該当するのは、この用水などに関する部分で、「高根」、「前山」、「半貫山」に該当する部分で、今でも字(あざ)地名として残っている。
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明治14年の「フランス式測量地図」でのこの地点は、池がある辺である。
この沼で湧水した水が、川となって流れている。
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現在の智光山公園
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私が下調べをしているときには、まず湧水している場所を探して右往左往したが、この案内図と、宮沢湖から来ている用水が公園の中を流れていることが分かった。
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これをもとに公園の管理事務所の方に話を聞いた結果、以下のようなことがわかった。
・九頭竜池のところで湧水があったことは聞いている。
・釣り堀、キャンブ場の池、ひょうたん池は公園を整備するときに作った。
・用水は、九頭竜池、ひょうたん池を経由して、外に流れている(5号幹線水路)。
・花菖蒲園、釣り堀は、地下水及び水道を使用している。

宮沢湖からの用水は、日高市特別支援学校と本田技研工業工場の間から公園に流れ込んでいる。
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木道に沿って流れていき
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九頭竜池に流れ込んでいる。
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カワセミを撮ろうと、いつも九頭竜池にはカメラマンが頑張っている。
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【九頭竜大権現】
九頭竜池のたもとにあります。
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九頭竜大権現というのは、水を鎮める神なので、昔は水が豊富で、また大雨で洪水を引き起こしたのではないかと考えられます。
「智光山の大蛇」という民話も、九頭竜大権現と結びついている。
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この民話の中の「木を伐り過ぎてはいけない」という部分は、周りに住むお百姓さんが智光山の林を大切にしようという気持ちがこめられている。

【智光山】
智光山公園には、かって修験道が行われていた「智光山」の跡があります。
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この墓碑の戒名に「智光」という文字が入っており、現在の「智光山公園」の名前のもとになっています。
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裏面に「森本宗興」という名があります。
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ここで、慶安3年(1650)頃作成された「武蔵田園簿」を参照すると、柏原村を領主としていたのは、松平伊豆守、酒井紀伊守、幕府直轄地高室代官、森本助右衛門、永井五右衛門となっています。
このうち松平伊豆守は松平信綱(川越藩主)、酒井紀伊守は酒井忠吉(川越藩主忠利死去後3000石を継いだ)。
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このなかの、森本助右衛門一族とみられる。

かたわらには、ここで修験道が行われていたことを語る「智光山先達」の碑があります。
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その近くにある、智光山開園記念碑にも「九頭竜池」の名が出ている。
また、当初は有志の方々がこの地を遊園地として活用しようと、整備して徐々に形を整えて7年の努力の結果、市から補助金を受けるまでになり、やがて現在のような立派な市の公園になった、ということがわかる。
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それから、雨の中上宿に移動しました。
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【上宿】
新編武蔵風土記稿記述
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明治14年の「フランス式測量地図」で、青い○から上の部分です。
靑丸は、高札場があったのではないかと推定した場所。
なお、この図には参考のために現在の道を薄く重ねています。
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最初に訪れたのは、「東上宿」バス停のところにあった、柏原富士塚跡です。

【柏原富士塚跡】
現在、柏原白鬚神社境内に、上宿にあった浅間神社、富士塚にあった石碑が置かれている。
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石碑の年号から天保12年(1841)には富士塚は整備されていたことがわかる。
大正二年に、浅間神社・富士塚石碑が柏原白髭神社に移されたそうである。

2013年3月に白鬚神社境内社浅間神社の「陰陽和合図絵馬」の文化財指定説明会の際に、柏原富士講も説明されたが、その時に見せられた富士塚跡地の写真。
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そして今回、下調べで2015年1月2日に宮司さんから富士塚跡地の場所を教わったときに、「いま重機が入ってるよ」と教わり、翌3日に現地確認した状況。
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その時には、かろうじてバス停のところにまだ「山」が少し残っていたのだが、
2015年2月1日に確認した状況。まったく跡形もなくなっていた。合掌・・・・・・
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そのバス停の道を挟んで反対側に、「文化十五星宿戊寅三月建」(1818)と造立年が、「武州高麗郡柏原村上宿 講中」と刻まれた文字馬頭観音がある。
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その奥に金子家墓地があり、その中に地蔵菩薩があり、右「奉造立為念佛供養二世安楽」、左「元禄四辛未天十一月□武刕高麗郡柏原村同行四拾五人」と銘文がきざまれている。

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他にも、石仏がたくさんあり。
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【上宿の馬頭観音道標】
「東上宿」バス停のすぐ近くにあり。
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寛政8年(1796)造立、浮彫の馬頭観音を主尊とする道しるべは、「右太田ヶ谷(現鶴ヶ島市)」「左坂戸道」と刻まれている。
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そこからちょっと北に行くと、上宿宝荘入り口にある「庚申塔道標」があります。

【上宿宝荘入り口三叉路の庚申塔道標】
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六臂の青面金剛で、足元に猿が一つ、酉がひとつはわかります。三猿ではないような感じ。
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向かって右側は剥落がひどい。
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池田さんの話では、かなり以前からひどい状態だったということで、2006年の写真を後日送っていただきました。
それを見ると、足元の猿の右側にも酉がいるのがわかります。
右側は、既にひどい状態です。
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路しるべについては、当時池田さんが解読したものは
     さかと
右     みち
     いはとの

    たかはぎ 柏原村

     おごせ  願主
          沼崎彦右衛門 

右が「坂戸」「岩殿」、左が「高萩」「越生」ですね。

【長源寺】
ここの枝垂れ桜は、まだ少し花が残っていました。
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ここでトイレ休憩。

新編武蔵風土記稿記述
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【常楽寺】
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桜の樹の下にある石仏群
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○七親音の石仏
この七観音は一番上に千手観音、右側上から馬頭観音、聖観音、准胝(じゅんてい)観音、左側の上から十一面観音、如意輪観音、楊柳(ようりゅう)観音が細かいところまでていねいに彫られています。
この七観音は天保15年(1844)に、ここ柏原村の斎日講中が建てたものです。
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○半跏趺坐の地蔵菩薩
この地蔵菩薩は丸彫半跏趺坐像(はんかふざぞう)で、台座の正面に延命地蔵菩薩経の侶(げ)という仏を称える言葉を詩の形に整えたものが刻まれています。
銘文を見ると宝暦7年(1757)11月に柏原村の斎日講の女性達を主体に村の人々が協力して二世安楽、極楽往生を願い、当寺の住職典英の指導で建てたものであることが分かります。
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ここは無住持のお堂となっています。
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新編武蔵風土記稿記述
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中には、風土記稿の記述どおりの諸仏が置かれています。
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○増田正金五百年記念碑
この常楽寺の増田家墓地にあります。
此の碑は正金没後500年を記念して大正15年(1926)3月に、増田家が建てたものです。
増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
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この後、城山砦が最後の目的地だったのですが、朝からずっと小雨の中を歩いてきて参加者に疲労が目立ったのと、時間の関係で打ち切ることにしました。
用意した資料で、記事にしておきます。

【城山砦跡】
新編武蔵風土記稿記述
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新編武蔵風土記稿記載の絵
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現在の遺構
新編武蔵風土記稿記載の絵とほとんど変わらぬ状態である。
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砦跡の歴史
・城山砦の歴史を見ると、古くは柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。柏原太郎は源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人といわれた人物です。
吾妻鏡の記述
「鎌倉出御よりお供の輩」部分は、更に左にずらっと書かれていますが省略しました。
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・2番目に初代鎌倉公方で「入間川殿」と呼ばれた足利基氏(もとうじ)が、南北朝時代に新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟の鎌倉攻めに対する北の防御の要として、入間川宿(現在の徳林寺の辺り)に文和2年(1353)から9年余り長期滞陣したときの出城という説があります。
・3番目に山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おおぎがやっ)上杉氏の対立で、明応5年(1496)山内上杉顕定(あきさだ)が扇谷上杉朝良(ともよし)の河越城を攻めたときに、山内上杉氏と手を組んだ足利政氏(まさうじ)が着陣したと伝えられています。
・4番目に天文14年(1545)から15年(1546)にかけて半年近くに渡り、山内上杉憲政(のりまさ)が陣を敷いたため別名を上杉砦ともいわれています。
この布陣は扇谷上杉朝定(ともさだ)が天文6年(1537)の三ツ木原の合戦で、北条氏に奪われた河越城を奪い返すため、また憲政にとっても河越城は目の上のたんこぶで、北条氏の武蔵国への進出を阻止する上でも重要な布陣でした。
この戦いは河越夜戦といい、日本三大奇襲戦といわれ、8千の北条軍が8万の両上杉・古河公方連合軍を破って劇的な勝利に終わった戦です。この戦が上杉家没落のきっかけといわれ北条氏の武蔵国の覇権が確立した戦です。
・5番目に城山砦は北条氏の手に移り、北条氏照(うじてる)の滝山領に組み入れられ、氏照配下の出城として徐々に手を加えられたと推察されます。この地域に居住して槍などを生産していた柏原鍛冶集団を統率するに当っても有効に機能したと思われます。
・河越夜戦後の山内上杉氏は上野国の平井城(現在の群馬県藤岡市)に退却していました。北条氏に対応していた憲政は平井城も攻撃され、天文21年(1552)越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼つて落ち延び、保護を受ける代償として上杉氏の家名と管領職などを譲り、関東管領として君臨した上杉氏も終わりを告げました。

南側、下から見た城山砦
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この砦の「虎口(こぐち)」部
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この砦を再現したジオラマでは、この小口を守るため、土塁を大きく突き出させた「横矢掛かり」がよくわかる。
現在もこの部分はよく残っているが、ここに焦点を当てた写真を撮っていなかった(汗)
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砦を再現したジオラマで、よくわかる「折り」
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外側から見た「折り」部
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「横矢掛かり」に対面する土塁の後には「稲荷」がある。
新編武蔵風土記稿に記載されている「鷲宮稲荷」にあたる。
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小雨の中、歩き回って疲れた体にむち打ち、智光山公園まで戻り、「智光山荘」で昼食を取ったあと、解散としました。
お疲れ様でした。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは。雨の中、大変でしたね!

現代になっても富士塚が壊されているのですか! まあ、大正時代に石碑等が移動されてしまったものですので、仕方がないのかもしれませんが。

それにしても、湧き水が出る場所はものすごく減っていますよね。ドンドン、コンクリートやアスファルト、あるいは建物で覆われてしまえば、地中に浸透する水の料は減るので、仕方がないですが。名主の滝公園も以前は湧き水によるちゃんとした滝があったのだそうですが、今はポンプで揚げているのだそうですし。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
各地の富士塚もあぶないですよね。
早く廻りたいと思っているのですが(汗)
今取り組んでいる何かが完結しないと(泣)

名主の滝公園はいいところですね。
この間行ったら、「独鈷の滝」が枯れていましたね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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