坂戸・入西(にっさい)地区を歩く(前半)

20150523

歴史クラブの行事で、4月24日に行われました。
私は所用があり参加できず、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事を作成しています。

坂戸市は弥生時代、古墳時代にも人が住んでいたところで、紛200基の古墳が見つかっています(多くは消滅していますが)。東部では東山道武蔵路跡が見つかっています。また、約700基の板碑があります。坂戸市立歴史民俗資料館の展示によると、坂戸市東部の勝呂地区には名号板碑、西部の入西地区には大日種子板碑が多く、それぞれ中世の初め頃からこの地を支配した勝氏と浅羽氏の信仰と関係があると考えられるそうです。中世の館跡と称される場所も多く残っています。

ルート図
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本川越駅改札口に集合して、東上線・川越市駅⇒坂戸駅⇒大橋行きバスに乗車、北峰バス停下車して歩き始めました。

【北大塚墓地】
ここには嘉元4年(1306)の大日種子板碑が、近くの石上神社神職の木下家墓地脇に所在する。
惜しいことに左上部が失われている。
磨耗しているものの銘文は判読出来る。
胎蔵界大日如来種子(アーウンク)を荘厳体の薬研彫で大きく刻み、中央の左右に梵字で光明真言四行、中央に紀年銘そして下部左に敬白、右に造立者名。
この板碑の特徴として、石材に嵌め込む本来の立て方を保持していることが挙げられる。
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同じく、木下家墓域にあった明徳三年の青石塔婆。
この頃になると板碑は普及品が殆どを占める。
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石上神社に向かう途中、北峰と北大塚を区切る用水際に馬頭観音あり。
峯村との村境に大塚村の人々が造立したもの
中:文化五年 左:天明二年 右:不明
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【石上神社】
鎮座地:埼玉県坂戸市北大塚131
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大塚村の産土神で御神体は長四尺横一尺程の赤い石と伝わる。
由来碑には、
「石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(1302)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。
後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(1590)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拝殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(1767)揮毫し篆刻奉納したものである。

文化六年(1806)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拝殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拝殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである。

社額
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向拝の彫刻
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社殿裏にある成願寺2号墳(前方後円墳:50m)
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墳頂にある半鐘
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○入西のビャクシン
廻りの筒は肥料注入用の穴。
案内版には、「埼玉県指定天然記念物 入西のビャクシン 坂戸市北大塚一三八 昭和六年三月三十一日指定
このビャクシンは、樹高十二メートル、樹周約三メートル枝下五メートルの大木である。幹も枝も赤味がかった褐色で、たてに無数の裂け目をみせたまま大きくよじれているので、土地の人々は「ねじり木」と呼んでいる。
昭和五十五年(1980年)四月  氏子中」
ビャクシンは、ヒノキ科の常緑針葉針葉木で、正式名称は「イブキ」であるが、ビャクシンと呼び慣わされている。樹高は普通十五~十七メートルで、巨木は四国、和歌山など温暖な地方に多い関東では、直径一メートル以上のものはきわめて少なく、鎌倉の建長寺、湯河原の城願寺のほか県内では川口市芝の町徳寺にある、よじれて奇異な樹相を呈しているこのビャクシンには、次のような伝説がある。
「住古、諸国巡錫の、ある名僧が、この地にたたずみ、手にした枝を地面に突き立て、枝葉茂りて栄ゆるようにと祈ったところ、祖の枝が出、葉がついた」
昭和五十一年三月十五日」
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石段由来碑
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【成願寺】
曹洞宗、地名になっている。
稲荷神社が並んで建つ。

味わいのある稲荷神社社殿と対照的な成願寺社殿
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成願寺本堂
明治初期、境内は東西三十八間南北二十五間九百六十九坪であった。曹洞宗田波目村惠源寺の末、無量山と号す。
風土記稿には、「古刹でかっては勝れたる伽藍であった。本尊は薬師を安す」といったようなことが記されている。
写真中央が本尊薬師如来坐像、左は阿弥陀三尊立像。
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稲荷社
珍しい茅葺き
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【北峰の石橋供養塔】
説明板
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説明板は、かなり剥落していて肝心なところが読みにくい。
以下は池田さんの独自解読です。
坂戸市指定史跡(昭和59年指定)
正面中央に浮彫地蔵菩薩立像、台座四方に一部判読できない部分があるものの、「入間郡峯村の(福生寺)大徳元□、自得□□の二名の僧と□沢安兵衛、同長兵衛らが發願、同村の甚兵衛らが勧進し、近村約50ヶ村の助力により寶曆五年に造立」といったような銘文がある。
昭和59年に堂を新設した。
左は馬頭観音の文字塔で嘉永六年造立
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○葛川と北峰橋
この橋の近くに北峰の石橋供養塔あり。
葛川:毛呂山町、坂戸市域を流下し高麗川に合流する。
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【北峰の福生寺跡地】
風土記稿に、「新義真言宗今市村報恩寺門徒ナリ本尊十一面觀音ヲ安ス」
明治十四年の郡村誌には福生寺の記載が無い。江戸末期から明治初めにかけて廃寺になったのであろう。
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○北峰の天和三年大日如来
坂戸市有形民俗文化財(平成五年指定)
グルグルと赤い布が掛けられお地蔵さんのようになっているが、坂戸市最古の石造大日如来である。
三百年以上経過しているにも係わらず、黴などによる白濁がなく、磨耗が少ないのは堂内にずっと安置されていたためであろう。
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北峰の天和三年大日如来の説明板
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北峰の天和三年大日如来の台座右「武刕入間郡峯村」
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北峰の天和三年大日如来の台座左「天和三癸亥年十一月」
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【北峰古墳群】
北峰の福生寺跡地傍、北峰の天和三年大日如来そばの古墳。
北峰にはこのような小型古墳がいたる所にある。(北峰古墳群)
この古墳は代々此の家の一族に大事にされてきたようだ。
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河原石の葺石が認められる。
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北峰古墳群の発掘現場に出くわす。
左側の円形部分が古墳とのこと。
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参道らしき凹状の路が右に。
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【北峰稲荷神社】
鎮座地:埼玉県坂戸市北峰80
北峰稲荷神社への道にあった藤の木
どうして鎖で固定されているんでしょうか?
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北峰稲荷神社の桜
桜の葉が青々としています。
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二週間前は満開
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北峰稲荷神社傍の古墳です。北峰古墳群です。
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その隣にも古墳が二つあり。
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【掘込の牛久保家供養塔群】
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由来碑
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関東七十二箇所寅薬師を巡礼納経したときの供養塔
「寅薬師巡礼」とは寅の日に薬師如来に参ることですが、「関東七十二箇所寅薬師」で調べてみると、「中武蔵七十二薬師霊場」というのがあるそうで、埼玉県の中央部の4市4町にまたがるものです。札所1番を務めるのは坂戸の龍福寺とのことです。関心のある方は七十二薬師の内訳も調べてみたら面白いと思います。
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湯殿山、月山、羽黒山と西国、坂東、秩父三十四箇所供養塔
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四国八十八箇所、奥の院二十箇所を巡礼納経したときの供養塔
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六字名号塔 承和元年三月十五日弘法大師空海六十一歳の書
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甲子大黒天 文久四年正月甲子日當所牛久保万右衛門 八十二才とある。この高齢では、現在でも水杯での諸国巡礼行脚の旅であろう。それにしてもパワフルな爺様だ。(池田さん感嘆)
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馬頭観音
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明治三十一年九月十二日造立の馬頭観音
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【伝掘込館跡】
掘込の牛久保家の向かい
掘籠村は家康入府の後、多田所左衛門の知行所(五百石)となった。此処にその陣屋が有ったと伝わる。
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堀跡?
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【大法寺】
所在地:埼玉県坂戸市堀込63
真言宗智山派
児玉党浅羽氏から分かれた堀籠氏の居館であったといわれるが定かでない。大法寺南西の三福寺は後北条氏が兵を駐屯させた城郭構えの寺院である。天正十八年には豊臣秀吉の小田原攻め別働の前田利家らによって焼かれている。大法寺館も当時は後北条氏に従った武士たちが詰めていたと思われる。
堀込地区は百m足らずの間隔で四つの城館址が密集している。
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風土記稿に、
「金生山ト號ス新義眞言宗今市村報恩寺ノ末ナリ開山堯龍慶長十年六月寂スト云本尊不動…」とある。
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【三福寺】
所在地:埼玉県坂戸市小山259
浄土宗三福寺は平安時代に創立の起源を持つ古刹である。武装寺院だったのかはわからないが戦国時代には後北条氏の庇護を受けていたと思われその軍勢の駐屯地として使用された陣城という。
天正十八年に後北条氏は豊臣秀吉との和平交渉が決裂し、関東の諸城を改修して兵を入れて上方勢の来襲に備えた。比企郡の後北条氏の有力支城は松山城である。上州方面から攻め寄せた前田利家と上杉景勝らは松山城の周辺諸城を攻め潰しつつ行軍した。その時に三福寺も兵火にかかり伽藍や宝物の多くが焼失したという。
東の農地側に折りと思しきものがあった。
やはり陣城趾のようだ。

本堂
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三福寺本堂裏の古墳
本堂背後には古墳群があると言われている。見回してもそのようなものは無かったが、これが古墳?
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三福寺の東方飛来薬師如来説明板
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三福寺の本尊薬師如来坐像
風土記稿に、
「瑠璃光山ト號ス浄土宗ナリ本尊薬師立像ニシテ長四尺二寸春日ノ作ナリ…」
とある。全高が大体同じなので坐像の誤りと思われる。
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三福寺本堂
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三福寺境内の藤の花
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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、坂戸のあたり、多数の古墳が多数、残っているのですか。と言うことは、この辺り、豪族が住んでいたと言うことですよね。それにしても、いつの時代のものなのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
坂戸の古墳群については、この探訪で知ったので、
これから調べようと思っています。
古墳館があるようなので、こんどそこを訪ねるつもりです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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