坂戸・入西(にっさい)地区を歩く(後半)

20150524

4月24日に行われた、歴史クラブの行事の後半です。
私は所用があり参加できず、例によって池田さんが撮ってきてくれた写真で記事を作成しています。

三福寺に続いて、龍光寺です。

【龍光寺】
龍光寺と入西神社が隣接している。
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龍光寺歴代住職墓域
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龍光寺中興開山隆圓和尚の墓石
風土記稿に、「新義眞言宗今市村報恩寺ノ門徒ナリ本尊釋迦ヲ安ス開山ノ年曆詳ナラス中興開山隆圓ナリ享保九年四月十三日示寂セリ」
とある。
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【入西神社】
入西神社の境内
幡柱石から社叢の森まで随分と距離がある。昔は全て鎮守の森だったのだろうか?
神社北側にある字竹之内(館の内)の低地が平安時代末期の入西氏の館趾という話がある。
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入西神社の社殿
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「当社は本来氷川神社であり、須佐之男命と稲田姫命を祀る社で、神仏分離まで竜光寺が別当を務めていた。また、当社は明治41年まで社が上宮・下宮に分かれていた。
現在、境内地前方に”オハヤシ山”と呼ばれる雑木林があり、古くはそこに下宮の社があったが、合祀時廃されて今は無い。
明治22年の町村合併により、小山以下17ヵ村が合併し、入西村が成立した。村名は、近世当地域を入西領と呼んだことに由来する。
明治41年に大字長岡の氷川・愛宕・日枝社、竹之内の稲荷社、善能寺の天神・琴平社、小山の氷川・八幡・熊野社、堀込の三島・日枝稲荷社、新堀の金山・稲荷・愛宕・日枝社、更に大正元年には北峰の稲荷社・同境内社稲荷神社が合祀され、社号を氷川神社から村名にちなみ入西神社と改め、小山・長崎・竹之内・善能寺・堀込・新堀・北峰の旧七ヵ村の村社となった。」
以上、「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より。

水盤に明治41年の年号が残る。
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昭和天皇から賜った御製記念碑
社殿の中にある写真で、よくわかった。
現在ある背後の工場が民家と森であったことがわかる。
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境内社(社名不明)
中に社が二つあったが朽ちている。
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境内社(社名不明)
合祀された稲荷社が三つあり、その何れか三つ共か。
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【竹之内分館前】
現代の遺跡
最近の科学進歩?は少し前のものが遺跡となる。
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現代の遺跡の説明板
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【泉福寺薬師堂】
長岡公会堂
風土記稿に、「泉福寺 藥王山ト號ス天台宗仙波中院門徒ナリ本尊地藏ヲ安セリ」とある。
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泉福寺薬師堂の地蔵菩薩立像
かっての泉福寺本尊か
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瑠璃光薬師如来
薬師堂本尊
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瑠璃光殿の額
仙波中院の記銘がある。
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薬師堂の脇にある長岡公会堂の用水解散記念碑
十字用水南堀解散記念碑
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薬師堂の脇にある長岡公会堂の用水解散記念碑
十字用水南堀解散記念碑
風土記稿に、「彌陀堰 村ノ西ノハテニアリ堀幅七八尺其所ハ總テ岩石ニテ容易ニ穿チカタキヲ昔堀篭村彌陀ノ靈夢ニ由テ新ニ穿チ通シテ堰ヲ設テ水流ノ下十ケ村ノ用水トナセリサレハ古名ヲ負テ彌陀堰ト云且長岡十ケ村用水トモイヘリ」とある。
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【長岡墓地】
板碑あり。
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大日一尊種字 形式から十三世紀後期造立と思われる。
下部表面が剥離している。
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阿弥陀三尊種字の文字塔
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自然石に刻むこの形式は結構珍しい。総じて大型のものが多い。
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享保元丙申天の紀年銘がある。
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【萬福寺】
風土記稿に、「新義真言宗今市村報恩寺ノ門徒ナリ天徳山地蔵院ト號ス相傳フ當寺ハ當所ノ名家淺羽氏ノナリト…」
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本堂軒の半鐘
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寛政六年造立宝篋印塔
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宝篋印塔基礎正面の種字
種字はシッチリア宝筐印陀羅尼(三世一切の如来:最勝尊)を刻す。
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万福寺の板碑
埼玉県指定考古資料(昭和40年)
風土記稿にも「古碑 客殿ノ傍ニアリイト古質ニシテ…」と記載し、図示説明の後に、「此碑近キマテ用水溝ノ梁ニ用ヒテ有シヲ見出シテ爰ニ移建シリト云傍ニ貞治三年甲辰七月七日ノ斷碑アリ」
各地の発掘調査により、板碑は墓石、供養塔としてではなく、色々な用途に二次使用されたことが分かっている。
近世以前の人は、板碑をさほど神聖視していなかったということか?
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万福寺の板碑(上半部)
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万福寺の板碑(下半部)
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万福寺の断簡板碑
これが風土記稿に載っている断簡板碑か?
非常に長い間、表面を上に向けていたと思われ、紀年銘部分は完全に磨耗あるいは表面剥落している。
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万福寺の板碑の説明板
下の七黨系圖記載の行業の三男の五郎兵衛尉行長が万福寺を再建している。
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万福寺の板碑の説明板
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【八幡神社】
浅羽氏の祖、浅羽小太夫行成(行業)という人物が功有り、右大将源頼朝の命により鶴岡正八幡を頼朝から賜った地の一つである浅羽庄へ勧請したという。
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本殿と幣殿・社殿
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武藏七黨系圖に「入西資行―浅羽小太夫行業―三郎行親―小三郎行元(一に行光)―三郎行信―新三郎行家、弟三郎太郎行季―小三郎経行。行信の弟中務丞行忠―泰行(弟中務丞行澄、其の弟長岡四郎盛行)―太郎五郎行氏(弟二郎五郎行村)―左近将監氏盛(正応六年入道果円一味・為自害。弟重氏)。行元(行光)の弟四郎維行―二郎行胤(兄四郎維平、弟三郎行道―二郎高実)―太郎某(弟小四郎行久―平太郎信行)―四郎種村。四郎維行の弟五郎兵衛尉行長(頼朝奥州合戦有軍功)―民部丞行直(養子)―左衛門尉入道俊直(弟二郎入道行季―又二郎季隆、行季の弟四郎入道頼仲)―左衛門尉大炊助重直(正応六年合戦。弟に三郎太郎兼直・弘安正応合戦、彦五郎俊家・正応合戦、伊予房賢慶、民部房某・政所)―太郎実直」とある。

御神木
老木から今年も若葉が出たようだ。メデタシメデタシ
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境内社・若宮八幡社
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境内社・三峰神社
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境内社・高良社
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ここに社号標がありました。
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これで、この日の予定を全てクリアし、今西バス停から北坂戸駅に出て帰途につきました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、板碑は二次使用されることもあったのですが。まあ、考えてみると当たり前ですよね。最初から掘り出すより、費用もかからないのですから。

確か、信長時代は城の石垣に石仏等が用いられいましたし(郡山城だったか、石垣に多数の仏像があります)、中国では、20世紀の終わり頃でも、万里の長城のレンガ等を使って家等が建てられたらしいですし。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
板碑の二次使用ですが、たいていは裏面を使用して
最利用のものがほとんどですが、
中には、当初のものの表面を使用したものが、
たまにあり、阿然としますね(笑)
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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