中山道・岩村田宿

20150601

4月23日に両親の墓参りをして、その後「御代田・一里塚の桜」を撮りました。この日に行くことにしたのは桜の時期に合わせたため。
その後、通常なら軽井沢で遊ぶのですが、この際だからと岩村田宿の写真を撮ってきました。

その後他のアップする記事が続いて、やっとこれを記事にすることができました(笑)

岩村田は、私が生まれた村の隣で、鉄道(小海線)の最寄り駅であり、私が通った高校がある町です。

両親の墓は、上信越高速道のすぐ近く。
墓参りのあと、撮った写真。
天気が良くて、浅間山もきれいに見えました。
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中山道「御代田・一里塚」で桜の写真を撮ってから南下して、「小田井宿」はパスして、その南の岩村田に入っていきます。

岩村田宿について:
ルート図
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中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場。
現在の長野県佐久市岩村田一帯。岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町であった。宿場の本陣は存在したが、大破し、その後も再建できず旅籠も最盛期で8軒と少なかった。

岩村田宿を描いた浮世絵
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住吉神社の手前に、石仏がありますが、この奥に「大井一族」の墓地があります。
大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったといいます。
信濃守護代にまでなった名門です。
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【住吉神社】
鎮座地:佐久市岩村田住吉町
かっては岩村田宿の入口付近に鎮座し、宿場町の枡形が隣接していたと言われています。
入り口から中山道と浅間山を振り返る。
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社号標
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鳥居
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鳥居の先には、推定樹齢7〜800年の御神木の欅が佇んでいます。
すごいコブ!!
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鳥居の右手に、浅間の焼け石(溶岩)で作られた石灯篭があり。
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その先に、“従是善光寺道”の旧道標がある。
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二の鳥居と参道
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二の鳥居の横にも、浅間の焼け石(溶岩)で作られた石灯篭があり。
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拝殿
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拝殿内部。奥に本殿が見える。
祭神は住吉三神。
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社殿の左側にあった講の石祠
浅間山を望んでいるから、浅間講なのか?
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石碑がズラッと並んでいます。
江戸時代のものが多かった。
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「天明八甲年正月」と刻まれた双体道祖神
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住吉神社を出て南に向かう。
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【善光寺道・道標】
住吉神社の少し先で善光寺道が右に分岐する。復元した“従是善光寺道”の道標が立っている。元の道標は交通事故で破損、修復して住吉神社に移設されている。

道標から中山道の小田井宿方向を見る。
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道標に刻まれた説明
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道標の先、右に入る道が「善光寺道」
中山道は直進。岩村田宿の入口はこの辺りだそうだ。
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そこから少し行ったところで左に入れば、「龍雲寺」。
この日は、龍雲寺をパスしたので、2011年2月に撮影した写真で説明します。

【龍雲寺】
所在地:佐久市岩村田415

実は、私が中学のときの英語の先生がここの住職でした。
中学のときに、お寺を案内してもらった記憶がありますが、記憶にあるのは「武田信玄二十四将図」くらいです。

信濃の攻略が一段落した永禄3年(1560)信玄は荒れ果てた龍雲寺を復興し、師と仰ぐ大和尚、北高禅師を迎え中興開山しました。
もとは鎌倉時代初めの正和元年(1312)地頭の大井実作入道玄慶による創建で大井氏の菩提寺でした。
武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をしました。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められています。1931年(昭和6)には、信玄のものと推測される遺骨が発掘され、現在その遺骨は、本堂横にある信玄公霊廟に眠っています。
元亀4年(1573)4月、信玄は遠征先の下伊那郡阿智村駒場で死を迎えたのです。信玄の訃報を聞いた北高禅師は、下伊那に駆けつけ、遺体を荼毘に付し引導をわたしたといいます。そして遺骨の一部と刀工島田助宗の短刀を形見に持ち帰り、境内に懇ろに葬ったといいます。

本陣が無かったので、身分の高い人物は武田信玄縁の龍雲寺で宿泊や休息をとり、本陣のような役割をもちました。

入り口
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巨大な山門
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本堂
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信玄の遺骨が発見された場所に建つ供養塔
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総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
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岩村田の商店街に入り、西念寺への入り口を探していたら、大きな数珠が下がっていてすぐに分かった(笑)
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この商店街の街灯には「岩村田宿」と。
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ここには、信長、秀吉、家康に仕え、初代小諸藩主となった「仙石秀久」の墓がある。
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【西念寺】
所在地:佐久市岩村田1188番地

西念寺開山岌往上人は、伊勢の国に生まれ美濃から信濃・甲府まで武田信玄公の動きに前後して約70ケ寺の寺院を建立している。
弘治元年(1555年)に閻魔大王などを奉る十王堂で岌往上人は浄土宗の布教をはじめ、大変な崇敬を集め永禄3年(1560年)には8間6間の本堂を建立。この時より『一行山西念寺』と呼ぶようになり、永禄6年に宇治の平等院と同じ定朝様式を伝える高さ5尺8寸の阿弥陀如来座像を修理し本尊とした。
現在は長野県宝に指定されている。
織田信長公・豊臣秀吉公・徳川家康公・2代秀忠公に仕えた小諸城初代藩主仙石秀久公は西念寺を菩提寺と定め、住職を登城首座に任じた。
仙石家の領地岩村田も元禄16年(1703)には内藤公が岩村田藩主となり、西念寺を菩提寺に定め、徳川家康公はじめ徳川十代将軍の位牌を西念寺に奉安している。

西念寺入り口
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入り口わきに置かれたプレートを見ると、岩村田藩主「内藤正国」の墓もあり。
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山門
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本堂
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仙石秀久の墓
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家紋の「永楽銭」は織田信長にもらったもの。
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仙石秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
信濃小諸藩の初代藩主。
豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
秀吉の九州征伐の際、戸次川の戦いで大敗を喫した後、逃亡したため改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。
天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると故郷である美濃国で浪人衆を集め、また秀吉の盟友となっていた徳川家康からの推薦もあって陣借りという形式で豊臣軍参加を許された。この時、秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。
秀久は伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。活躍による名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程であった。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍として参戦、家康からの書状に応じて中山道と北国街道を結ぶ要所である小諸を引き続き鎮撫している。信州に着陣した秀忠を出迎えると、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いでは城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。

所領面では旧領を安堵され、信濃小諸藩の初代藩主となった。秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す事となるが、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績である。特に小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、歴戦の武人らしく華美な装飾を省いた質実剛健な作りとなっている。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残した。

さて、内藤正国の墓を、墓地内を彷徨って探したがわからない。
あきらめて帰ろうとしたら、なんと墓地ではなく門前にあった。
道を挟んで左側の松の木の下である。
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岩村田内藤家は内藤忠政の3男内藤正次を祖とする家柄で当初は500石だったが立身出世を繰り返し1万6千石の大名となる。
領土は関東全域に分散した形になっていたが元禄16年(1703)それらの石高を統合し同等な領地佐久郡27ヶ村を与えられ岩村田藩として立藩。2代藩主正敬の代にようやく岩村田に在任し領内経営がなされ、7代正誠まで内藤家が世襲して藩主となり明治維新を迎えている。6代藩主正縄は当時の老中水野忠邦の実弟であった為、伏見奉行に抜擢され無城主格から城主格へと格上げされ、7代正誠は岩村田城の築城を開始するが明治維新後に版籍奉還、廃藩置県が行なわれたことで城は未完のまま廃城となった。
昨年ブームとなった、浅田次郎「一路」には、7代正誠が登場し、ピエロ役を演じている。

さきほどの門前のプレートには「七代」とあったが、墓地の標識には正しく「五代」とあった。
内藤正国(ないとう まさくに)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃岩村田藩の第5代藩主。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の叔父である。

正国の墓
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最初、「紋はやはり、内藤の下がり藤」と書いたんですが、後日パラパラと家紋集を眺めていたら、「岩村田藤」とあったので吃驚!
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岩村田商店街の中山道を南下。
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旧中山道の道を右折して、小海線の踏切を越えると御嶽神社。
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【御嶽神社】
社号標
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境内の右に石碑が並ぶ。
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せっかくだから、ここの石碑全部を紹介。

「月読尊」
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「庚申」
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妙見尊
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保食神社(保食神)
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上に日月が刻印された「不動尊」
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「甲子大黒天」
甲子大黒天といえば、弘法大師作の像がある山形県の寺が有名で修験道の聖地です。
入間市の豊岡にある「長泉寺」に•武蔵野七福神の一つ、「甲子大黒天」がありますね。
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社殿
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続いて高校の前を通ります。
私の母校です。
この高校に機械科ができると聞いて入った一期生でした(笑)
2年くらいになると世の中が見えてきて、進学したいというと、担任の先生が「どうせ製図や実技はまた大学でやるのだから、その時間は家で勉強していろ」と受験勉強に協力してくれました。
とても有難い先生でした。懐かしい。
高校のときは、前の道が中山道なんて、まったく知らなかった。
三年間この道を自転車で通学していました。
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それから、私の母が10年くらい入院していた「浅間病院」の前を通り、その外れに「相生の松」があります。
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【相生の松】
記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、縁起のいい名前から、野点をされたと言われている。
「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。現在の松は三代目である。
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それから少し行き、濁川のすぐ先に《荘山稲荷神社》が見える。ここには、芭蕉句碑がある。
「野を横に 馬引きむけよ 郭公  芭蕉」

ところが、それが見つからない。
土地の人に聞いたが、知らないようで、代わりに「芭蕉の句なら、あそこにあるよ」と言われて撮ったのがこれ。
「刈りかけし田づらのつるや里の秋」
出典は『鹿島紀行』。
貞亨4年(1687年)8月15日、芭蕉は根本寺の佛頂和尚を訪れた。その帰途、詠まれた句であろう。
芭蕉44歳の時である。
あるサイトの、芭蕉句碑のリストには、ここの碑のことが「長野県佐久市の旧中山道沿いに句碑がある」と載っていた。
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《荘山稲荷神社》の芭蕉句碑は、後日探すことにして、「岩村田宿」はこれで切り上げた。

この道をいけば、次の「塩名田宿」。
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(了)


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

結構、文化財が残っている所ですね。住吉神社の溶岩でできた石灯籠と欅のコブ、そして、溶岩風の双体道祖神がいいですね。後、商店街の数珠、西念寺のガラス戸も面白いです。

四季歩さんは機械科の高校に行かれたのですね。私の時は、普通高校、工業高校、商業高校と言う感じで、大学に行くつもりだった私は普通高校でした。

matsumoさん

高校受験の願書を出す一週間前までは、普通高校志望
でした。
それが、近くの高校に機械科が出来るとわかり、
矢も楯もたまらずそこを受けたというわけです。
もともと車とか、機械が好きでしたね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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