入間川地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・旭町自治会

20150604

5月24日(日)に行われた、旭町自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから5名がガイドとして参加し、私も1ケ所をガイドしました。
旭町自治会では第二回目の開催となります。
今回のコースは「入間川地区」です。
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適宜、明治14年迅速測量図も用いて説明しました。
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参加者は46名でした。
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【綿貫家の墓地】
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綿貫家は、江戸時代「西の鴻池、東の綿貫」と言われたほどの豪商で、ほとんど江戸で商いをしたのだが、慶應三年(1867)古文書によると老中酒井雅楽頭への貸し付けが現在の価格に変換して857億であり、最盛期には諸大名、旗本、商家、などへの貸し出し額と現金在高の合計が6兆93億円(現在の価額に換算)に達したという。
しかし、徳川幕府の瓦解と運命を共にした。

今回の説明は、子供も参加していたため、童話「入間川のお大尽だった綿貫家のお話」をした。
◉綿貫家の井戸
◉綿貫家のどんどん出てくる傘
◉音色のいい鐘


【福徳院】
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福徳院不動尊の来歴は、「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。
 福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。
二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。
 その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。
 昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。
本尊  不動明王:高さ43cm

現在の不動堂は平成18年に建て替えられ、これに合わせて本尊も新しい木造不動明王坐像となりました。かっての本尊は新しい本尊の真上の天井裏に安置されているそうです。

以前、現在の不動堂の中を見せていただいたときに撮ってあった、現在の本尊です。
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参道の途中にある、三面八臂の馬頭観音。
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馬頭観音は、観世音菩薩の化身で,六観音の一つ。忿怒相をもち,人身で,頭が馬のものと,馬の頭飾りを戴くものとがあり,馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し,煩悩を断つ功徳があるとされる。
しかし,江戸時代後期以降、一般には馬の無病息災の守り神として信仰され,3面8臂,4面8臂などのものもある。

【徳林寺】
福徳院の下にあり、裏の墓地の方から入ったため、墓地にある板碑と五知如来の説明が先となりました。

○板碑
 板碑とは石で造った卒塔婆の一種で、個人の追善供養のために建てられたものと、自分の死後の冥福を祈って生前に営む法事で建てられたものがあります。当寺境内にある板碑は武蔵系板碑、または青石塔婆といわれ、秩父地方から産出される力で緑泥片岩で造られたものです。板碑は鎌倉時代に発生しましたが、江戸時代になると消滅し、その後は作られなくなりました。この墓地には34基の板碑があり、これらは瑠璃光寺跡から出土したものをここに移転しており、瑠璃光寺跡は以前綿貫家の墓地があった場所でもあります。
板碑の真ん中に立っている丸彫りの石仏は、五知如来の一つである大日如来です。
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○五知如来
  ここに5基の丸彫りの石仏がありますが、真ん中の地蔵菩薩を除き、左から釈迦如来、阿閦如来(アシュクニョライ)薬師如来、阿弥陀如来と、本来ならここにあるべき大日如来は墓地中央付近の東屋の左隣にある板碑の真ん中にあります。像高は120~150㎝、蓮華座が20~30㎝で、等身大に近い大きなものです。

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○子育地蔵尊
山門を入った左側に「子育地蔵尊」の額を掲げた六角堂の中に、台座、蓮華座などを含めた全高176.5㎝、像高124㎝の石仏の丸彫り地蔵菩薩が安置されています。お堂の周りに「祈安産」と書かれた襷(たすき)や涎掛けが供えてあるところから、今でも安産と子育ての地蔵様として信仰を集めています。
この地蔵菩薩は別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石の」の伝説を持っています。
河原から穴の空いた石を捜して来て、これを供え願掛けをすれば耳が聞こえるようになるというもので、数は少なくなっていますが、今でもお堂の前に穴の空いた石が供えられています。
銘文からこの地蔵菩薩は、入間川村の斎日講71人の人達が現当二世安楽を願って元禄6年(1693)2月(322年前)に建てたもので、背中には六地蔵の種子が彫られており、一体六地蔵と思われます。また六角堂の前の高さ179.5センチの燈籠には、片側3体ずつ一対で6体の浮彫の地蔵菩薩が彫られており、これも六地蔵と思われます。
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○本堂
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当寺は福聚山(ふくじゅさん)徳林寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は入間市金子にある瑞泉院です。
創建時の宗派は不明ですが、天文元年(1532年)(483年前)に曹洞宗に改宗しています。
本尊は像高32.5㎝、台座高55㎝の木造宝冠釈迦如来坐像で、文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊形式のものです。創建の時期は不明ですが、13世紀初頭に徳林寺の前身と思われる薬師堂が草創されたそうです。言い伝えにによると、新田義貞が元弘3年(1333)(682年前)5月の鎌倉攻めの際、徳林寺の場所に本陣を置き、守護仏としていた聖観音を薬師堂へ安置したといわれ、後にこの観音堂を入間川村地頭の小沢主税に贈ったことにより本尊にされたと思われます。
また鎌倉公方・足利基氏が、南朝方の新田勢の再起に備えて文和2年(1353年)から9年間(1362年)(662年前~671年前)この場所に「入間川御所」を置いて滞陣したところといわれ、その後この入間川御所跡に薬師堂が移転し改名して徳林寺となりましたが、当時の宗派はりんざいしゅうであったといわています。

○絹本着色釈迦涅槃図
この絹本着色釈迦涅槃図は昭和61年(1986年)(29年前)11月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
釈迦涅槃図はお釈迦様の臨終を描いた仏画で、臨終に際し、弟子をはじめ諸王、大臣、梵釈、諸天から鳥獣に至るまで、ともに集まって悲しんでいる様子を描いたものです。
○絹本着色釈迦八相図
この絹本着色釈迦八相図は昭和61年(1986年)(29年前)11月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
八相図は、お釈迦様の生涯における8つの事跡を描いたものです。

本堂に上げていただき、「絹本着色釈迦涅槃図」と「絹本着色釈迦八相図」を参加者に間近に見ていただいた。
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ここで、駅横の市民交流センターに戻り、休憩を取った。

【八幡神社】
「八幡さま」は、全国の神社のなかで一番多い神社です。「八幡太郎義家」でわかるように、源氏の氏神となったので、京都には石清水八幡宮、鎌倉には鶴岡八幡宮と八幡さまが設けられ、全国にも「八幡さま」が各地に設けられました。
現在は、「鎮守の森」として、その地に暮らす人々の安全を守る神様となっています。
初詣もそうですが、半年の穢れを落してこれからの安全を祈る、6月30日の「夏越の祓」、狭山市で茅の輪をくぐれるのはこの八幡さまだけだと思います。
それから「年越しの祓」で、土地の人は小さい御幣をいただいて、玄関とか畑に立てて、災いが入らないよう、安全を祈っています。

年中行事としては、まず7月の「入間川の天王さま」があります。
これは、境内社の八雲神社の祭りですが、夏に牛頭天王が疫病を流行らせないように祈る行事で、ここに住んでいる人の健康を祈ってしているわけです。
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それから、9月例大祭の「鹿子舞(ししまい)」があります。
市内に残る獅子舞の中で八幡神社の獅子舞だけが「鹿子舞」と表されますが、その理由には次のような話があります。
 明治時代初めに八幡神社別当寺の成円寺を獅子舞の一行が出発した際、維新政府の神仏分離政策により「獅子は仏教に属するもの」として答めを受け、獅子舞存続の危機に陥ったといわれます。この時、地元の機転が利く者が「私のところは獅子ではなく鹿子だ。鹿は神の使いである」といって危難を逃れました。それ以後「鹿子舞」と表すようになったというものです。
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○「新田義貞駒つなぎの松」
本殿向って左側の柵外にある松の木は史跡の「新田義貞駒つなぎの松」です。
新田義貞は元弘3年(1333)に鎌倉幕府を攻めた際、徳林寺に陣を置いて源氏ゆかりの八幡宮に自ら赴き戦勝を祈願しました。その際愛馬をつないだ松といわれていますが、本物の松はすでに枯れて現在は枯れた根だけが残っています。
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○各所の彫刻が見事です
●本殿の正面を除く3面の壁面に総彫りともいえる彫刻が施されています。壁面の彫刻は中国の貴人に親しまれた琴、囲碁、将棋、書画を、浮き彫りと透かし彫りという2つの技法を巧みに使い分けて彫ってあります。
制作者は棟札の墨書から、上野国勢多郡上田沢村(現群馬県桐生市)の並木源二と、勢多郡深沢村(現群馬県みどり市)の鏑木半二です。
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本殿の下の部分にも、龍の間に面白い彫刻があり。
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これは獅子舞
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●拝殿の向背柱・木鼻の獅子の彫刻
 牡丹の一枝を咥えているのと、透かしの籠に玉が入っているのを持っている。
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●手水舎
 浦島太郎などの彫刻がある。
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【清水八幡】
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清水八幡宮は狭山市指定文化財で、清水冠者義高(源義高)を祭神とする神社です。源義高は木曽義仲の嫡男(ちゃくなん)として木曽で母・山吹姫との間に1173年に生まれました。
源義仲は1183年源頼朝と敵対し頼朝と険悪なムードとなり、息子の義高は人質として大姫の婿として鎌倉へ差し出すことで頼朝との対立は一応の決着がつきます。
しかし、結局朝廷での情勢が悪化し、義仲は源頼朝が送った弟の源範頼(のりより)・義経の軍勢により、宇治川や瀬田の戦いに惨敗し、近江の国粟津の戦い(あわずのたたかい)で1184年討たれました。
頼朝が義高を謀殺(ぼうさつ)しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃そうとします。義高は女房姿に扮して大姫の待女達(じじょたち)に囲まれ屋敷を抜け出し、大姫の配した馬に乗り鎌倉を脱出します。
義高は自分にふりかかる難を逃れるため、父義仲の生まれ故郷の武蔵国・男衾群(おぶすまぐん)の大蔵館へ、そして生まれ故郷の信州木曽へ落ち延びる途中、入間河原の八丁の渡しで追いつかれ、追手(おって)の藤内光澄(とうないみつずみ)によって1184年に討たれました。享年12歳。
義高の死を知った大姫(おおひめ)は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の北条政子(ほうじょうまさこ)は義高を討ったために大姫が病(やまい)になったと怒り、義高を討った郎従(ろうじゅう)の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首(さらしくび)にされました。
清水八幡の創建年月は不明ですが、頼朝の妻の北条政子が関与したとの伝承(でんしょう)が残っています。それは政子が壮麗(そうれい)な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402年)8月の大洪水ですべてが流されてしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。現在の本殿は昭和34年10月の建立で、そこには永享(えいきょう)2年(1430年)銘の赤間川(あかまがわ)で見つかった石祠(せきし)が安置されています。この石祠の出土地(しゅつどち)をかつての清水八幡宮の鎮座地(ちんざち)として遷座(せんざ)しました。



【諏訪神社】
・ 御祭神:タケミナカタノ命(大国主命の二男 武力に優れた神様で武士の信仰が多い)
・ 初めて建てられた時代:古い記録がなく不明であるが、鎌倉時代、或いは戦国時代後期 甲斐武田氏の家臣等が諏訪大社の御魂を勧請したとも伝わる。
屋根の鬼瓦と野地板に「四つ割菱」武田菱ともいう が見える。
・ お諏訪さまナスとっかえ:「狭山市無形民俗文化財」平成9年6月2日指定。
8月の第4土・日、地域の夏祭りと併せて行われる。
ナスを神社に奉納して代わりに神前に供えられているナスを持ち帰って食べると一年中病気をしないといわれる風習。起源はわからない。ナスの毒消し効果が信じられた。
・ 神事:神主の祝詞奏上、玉串奉納。氏子の役員等の玉串奉納と拝礼。30分ほどで終り、かっては本殿でナスとっかえが行われたが、数年前からナスとっかえの代わりに「厄除茄子」が販売されている。
茄子3本入厄除札付で200円。現在でもまれにナスとっかいをされる信者もいる。
・ 「ナスとっかい」にまつわる伝説があります。t
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「石無坂」の上り口
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ここが、大正天皇が観望されたところですよ。
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【慈眼寺】
本堂の前は、カンカン照りなので、境内の隅の木蔭で説明。
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本堂
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宗派:曹洞宗 高祖:道元、太祖:螢山 本山:永平寺(福井県)、 総持寺(横浜市)
山号:妙智山  ご本尊:木造聖観音菩薩坐像 像高46㎝、台座込み96㎝
創建:650~660年前(室町時代の中頃)より前、この地に阿弥陀如来をご本尊とする草葺きの阿弥陀堂があったと伝わる。
略歴:500年ほど前(大永年間)に、瑞泉院(入間市木蓮寺)の第三世一樹存松が阿弥陀堂をこの地から現在の入間川2丁目の「子ノ神付近」に移して曹洞宗のお寺を建たと伝えられる。江戸時代の慶安 2年 徳川三代将軍家光から10石の寺領を保証する朱印状を賜る。幕末の慶応元年火災に遭い、しばらく仮本堂でお勤めする。明治17年この地に戻り本堂等を建立。
所蔵文化財・石仏
☆木造阿弥陀如来立像:木造阿弥陀如来立像(阿弥陀如来の立ち姿)
☆丸彫地蔵菩薩立像
☆結界石を兼ねた三界万霊等
☆廻国供養塔
☆六地蔵

所蔵の円空仏を見せていただいた。
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予定を終了し、帰途につきます。
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集会所で、お弁当をいただきながら、懇親会をして終了でした。

アンケートの結果も良かったようで、次はどこにしようかと・・・・・・・
有難いことです。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

参加者、随分、多いですね!! 合わせて50名位でしょうか。お年を召した方ばかりかと思ったら、そうではないようでうし。おそらく、地元の歴史に多少の興味があることと、それに、健康を兼ねてなのでしょうね。

写真の中では、八幡神社の彫刻がすごいですね!

matsumoさん

コメントありがとうございます。
参加した方が、自分の住んでいるところに、
こういう歴史があったとわかって、楽しかった、
と云ってくださる方が多いので、とても
遣り甲斐があります。
いつも楽しく出来ています。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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