狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/柏原村(後半)

20150626

6月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は池田さんと私。

朝9:30に柏原公民館集合。ここからスタートしました。

柏原は広いので二回に分けて実施することにし、前回北東部編を実施、今回は中南部です。
コースは、白鬚神社⇒永代寺⇒小山坊⇒西浄寺⇒円光寺⇒劔明神社⇒「神邊」で昼食⇒解散でした。

【白鬚神社】
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風土記稿の記述のなかで、白鬚神社に関係するのは、「右から天王社まで」と「左から二つ、神明社と稲荷社」である。
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「當社の本地は十一面観音、鉄圓鏡」の5面については市の文化財であり、参加者全員周知なので省略。

「社地樹木森茂し」というのは現在はあたらないが、「中に大なる槻一株」というのは、宮司さんが樹齢700年位と言われるケヤキがある。
槻というのはケヤキの古語。
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「天王社 社の傍に神体と称する槻あり、囲二条三四尺、これも古跡と見えたり」とあるが、こちらのケヤキは堂々としているが若い。二代目か。
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「神明社」は石碑
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風土記稿が記述された以後に増えているのが、浅間神社と富士講碑である。
右が浅間神社、左が風土記稿に載っている稲荷社。
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浅間社はもともと上宿にあり、大正2年に白鬚神社に移された。
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この浅間社に掛けられていた絵馬二体が市の文化財になっている。
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「子返しの図絵馬」
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「陰陽和合図絵馬」
こちらは、平成25年2月1日指定されたもので比較的新しいので、ちょっと説明も述べておきます。
この絵馬は、桐材に着色された絵馬(扁額)で、大きさは、縦44.3cm、横81.7cmであり、製作の時期は江戸時代末期と推定されます。
表面上部には墨書で、「月と日の 晦日の契り なかりせは なにかなるへき 願主小谷野勝平」とある。
富士信仰の中で形作られた生命感、特に男女とその間に生れた子供の関係を説きそれをいわば絵解きしたものである。
もしかするとこの絵馬は実際に信者に絵解きされたものである可能性もある。この絵馬は上部に三つの宝珠が描かれているが、この三つの宝珠は参玉(みたま)すなわち霊魂であり、これを宿す人間は男女の交わり、つまり陰陽(月と日)の和合によって産まれたものである。またこの珠は同時に三宝であり、元の父母と富士山であり、月と日と富士山そしてそこから産まれた人間(子供)の四者が-体となり摂理にしたがうと説いている。いわゆる富士講の一仏一体の思想を説いていると考えられる。中央に書かれた「天合空大息」は「てんごうくうたいそく」と読み、また宝珠下の記号のようなものは「参」の字をアレンジしたものと考えられる。また富士信仰は出産習俗との関わりが濃く、富士講が独自の生命感倫理観をもとに説いた産育や孝行の思想が民俗化したものと考えられる。
*天合空大息=二人合空一人息  (息=生きる)
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浅間社の傍らには、上宿にあった富士塚の石碑三体が安置されています。
○笠付石塔「木花開耶姫命碑」
 右側面に「旡彦火瓊瓊杵尊」、左側面に「大山祇尊」、裏面に「雷神風神尊」と刻まれている。
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○「小御岳石尊大権現」の石碑(建立天保12年2月 1841)
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○「○柏同行」碑
建立天保十二年(1841)、銘文には「○柏同行 天保十二辛丑歳正月初申 先達広行栄我情行 世話人増田熊太郎(他三名」と刻まれる。
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柏原上宿の富士塚は天保十二年から十四年頃にかけて整備されたと考えられる。九月一日にはおたき上げの神事が行なわれていた。相原村でも主に上宿の人たちで講が結成されていたようである。上宿に住む先達が没してからは、富士講そのものは解散となったが、白鬚神社の宮司や有志による瓦火鉢での線香の焚き上げがしばらく行なわれていた。

富士塚跡地には、その後塚の一部が残っていたが、今回の調査をしている際に、平地にされていくのを目撃した。

もう一つの文化財「韋駄天の絵馬」は拝殿内に掛けられている。
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この日気が付いたが、拝殿から本殿には神橋が掛けられている。
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【永代寺】
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風土記稿記述
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永代寺については、参加者は知っているので、石仏群と「古碑」について説明した。
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○宝筐印塔
全高は270cmで、銘文から寛延2年(1749)11月に66カ所の霊場に納経した記念に廻国供養塔として柏原村ほか近隣の村11ケ村の協力を得て、当寺の住職の法印権大僧都英乗(えいじょう)の指導のもとに建てられたもの。
宝筐印塔は、「宝筐印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を塔身に納め、後世に伝え残そうという考えから建てられたものですが、のちには供養塔、墓石塔として建てられるようになりました。
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○三界万霊供養塔
この供養塔は高さ109.5cm、傘幅27cm、柱幅15.5cm、台座幅45cm、浮彫で石幢六地蔵立像の三界万霊供養塔です。三界とは仏教の世界観で欲界、色界、無色界の三つの世界のことをいい、万霊はこの世に命のあるもの、人だけでなく鳥獣、虫や草木などすべてのものをいいます。
三界万霊供養塔は他の石仏とは異なり、造塔が目的ではなく塔自体にこの世の全ての霊を宿らせ、供養するためのものです。そのため多くは寺院境内や墓地の入口など、多くの人から回向(えこう)を受けやすいところに建てられています。
石幢は石塔の一種で六角または八角の柱状幢身(ちゅうじょうどうしん)で龕部(がんぶ)、笠、宝珠などから成り、仏像、梵字(ぽんじ)を各面に刻むものです。この六角柱の石塔には、各面に地蔵菩薩の立像が彫られ延命(えんめい)地蔵菩薩経の偶(げ)が刻まれています。
銘文を見ると安永5年(1776)3月に施主伊藤茂太夫により建てられたと刻まれています。
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○霊場巡礼供養塔
丸彫立像の地蔵菩薩を主尊とした像高が74cm、幅25cm、台座高は68.5cm、幅37.5cmで、銘文から寛政3年(1791)2月に願主は柏原村の増田権七で、法印英辨(えいべん)の指導のもとに建てられたものです。霊場巡拝供養として建てられたものですが、「右 ま戸ば」、「左 さかと」と刻まれているので、道しるべの目的もあり、作善の意味もあったと考えられます。
現在は他の石仏と一緒にここに建てられていますが、造立時は北へ150m行ったところの三叉路に、行先表示から見て柏原下宿からの案内であったと思われます。
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風土記稿に出てくる「永和4年の古碑」は墓地にあり。
はじめて見たときには、けっこう汚れていたが、今年調査の際に綺麗に洗れているを見てビックリした。
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その他にも板碑が二体あり。
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【小山坊】
風土記稿記述
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小山坊は移転され、福徳院の本堂(現在のものは建て直されており、その前身)となりました。
薬師堂は今でも小山氏がお守りしており、この日、本尊も見せていただきました。
現在の薬師堂(以前撮ったものです)
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「薬師如来之縁起」の巻物を見せていただきました。
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薬師如来縁起の泉(現在は非常に水が少なくなっている)
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高根社石祠
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ここで、小山坊に関係する小山氏についての文書「武蔵国柏原郷と小山一族/吉田弘」から要点を抽出しておく。
『吾妻鑑』に畠山重忠の従軍五騎として「柏原太郎」の名が見られる。
しかし、二俣川の戦いで畠山重忠が幕府により謀殺された後、他の4騎については消息が明らかになっているが、柏原太郎についての消息が書かれたものは見つかっていない。
その後の柏原郷について史料に登場しているものがある。
「長沼宗政譲状」である。下野国の有力御家人、小山氏の庶流、長沼宗政が嫡子時宗に所領を譲るという内容だが、これに「武蔵國柏原郷」が載っている。
畠山重忠が没した際に一緒に柏原太郎は討死したか、その前後の時期に病死したか、いずれにせよ長沼宗政に柏原郷が恩賞として与えられたと推察される。
そして、先述の「薬師如来之縁起」である。
これは、建久の頃(1190~1199)、小山判官朝政が眼病を長く患っていたため、保養のため采地下野へ下向する途中、夢現によりこの地に霊水があることを知る。翌日、野営の側の盛土を掘ると、薬師如来の石像がでてきた。さらに、そこから霊水が湧き出し、それにより眼病が治癒したので、朝政は、そこに一宇を建立したという。
近年、埼玉県が小山坊の北側の発掘調査を実施した。遺跡の形状としては、台地上から、はけの部分にかけて発掘領域となっていたが、台地上において、掘跡とそれに付随して堀立柱遺構を含んだ柱列が検出された。
堀跡から青色塔婆三基も出土している。「小山ノ上遺跡」である。
小山氏は、足利氏とも良好な関係であったので、足利基氏の「入間川御所」滞陣の折には、小山氏がここに出城の性格の城館を構えたものではないかと、「小山ノ上遺跡」を著者は位置づけている。

小山ノ上の堀跡(狭山市文化財調査報告書7より)
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【西浄寺】
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風土記稿の記述
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この寺には河鍋暁斎が描いた「ねずみの図」があることで有名。
本尊は、現在は「木造大黒天立像」であり、その大黒天の使いであるねずみを描いています。
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本尊
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風土記に書かれている宝篋印塔は、現在は後ろの山上でなく、本堂の前に安置されています。
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風土記に載せられている文章
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徳川右衛門督宗武卿の命にて
此制底一基を造工する。
以て、胄子寿丸君の寿福を祈る。
貧道欽(よろこん)で宝篋印陀羅尼経
一巻を書写し以て干塔内に納む。
兼ねて書く四如来の種子をすなわち
之に於いて四面に刻むという


池田さんの説明によれば、経筒に入っていた文書の目撃談によると、文書を本堂一杯に拡げた。それは十センチ程の幅で四メートル程の長さがあったというので、紙の長さからすると、「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」の全文(唐不空漢訳五千文字)が入っていた可能性がある。

西浄寺と田安宗武卿との関係であるが、狭山市の資料に載っている以上のことは判らなかった。ただ、宗武卿は、関係がある婦女子のために、その関連する多くの寺社に仏像や宝篋印塔を寄進している。
考えられるのは、宗武卿に近しい女性が西浄寺に関連していたのではないかと思われる。

【円光寺】
風土記の記述
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この中に出てくる、柏原の神田家作の銅像正観音(市文化財)
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問題は風土記の記述に出てくる「古碑」で、この日の参加者誰も確認が出来ていなかった。
それで、手分けして墓地を探して、見つけました(嬉)
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傍の宝篋印塔も、詳しい人でもたぶんリストアップしていないかもしれない。
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「外に断碑一基あり」と書かれているのも分かりました。
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【劔明神社】
風土記の記述
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「里正務兵衛」というのは、長谷川家ということがわかっており、長谷川家の敷地内に現在も祀られています。
(1月の下見のときに撮ったもの)
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以上で、この日の予定は全て消化し、参加者全員で昼食後解散しました。


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写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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