鵜ノ木地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・鵜ノ木第七自治会

20150705

6月14日(日)に行われた、鵜ノ木第七自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
歴史クラブから6名がガイドとして参加し、私も2ケ所をガイドしました。
鵜ノ木第七自治会では、現在歴史クラブが進めている地域連携活動に共鳴していただき、今回が初の企画となります。
参加者は40名と盛況でした。

今回のコースは「鵜ノ木地区」です。
さやま市民大学歴史講座の史跡めぐりコースに含まれていない場所なので、私たちにもとても勉強になりました。
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【長栄寺】
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所在地:狭山市鵠ノ木16番11号
本尊:木造千手観世音菩薩坐像
由緒:
長栄寺は根岸にある明光寺の末寺で、「入間郡誌」によると元禄2年(1689年)の建立とある。しかし最古の過去帳を見ると、「法印長賢永正二丑(1505年)二月朔日光明院弟子南院開山」とある。また、同寺は、両墓制という古い形式の墓制を持つ寺でもあるので、その草創は郡誌の記述よりさかのぽるものと思われる。

本堂でご住職の説明を受けました。
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本尊
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■長栄寺で行われる八幡神社鹿子舞(ししまい)について
行われるのは、毎年9月敬老の日直前の土曜日・日曜日の両日で、長栄寺には、土曜日の16時ころに行われます。
この鹿子舞は昭和46年(1981)4月1日に狭山市指定文化財・無形民俗文化財として指定されています。
この獅子舞は、鹿子舞(ししまい)」と呼ばれています。市内に残る獅子舞の中で八幡神社の獅子舞だけが「鹿子舞」と表されますが、その理由には次のような話があります。
明治時代初めに八幡神社別当寺の成円寺(じょうえんじ)を獅子舞の一帯が出発した際、維新政府の神仏分離政策により「獅子は仏教に属するもの」として咎めを受け、獅子舞存続の危機に陥ったといわれます。この時、地元の機転が利く者が「私のところは獅子ではなく鹿子だ。鹿は神の使いである」といって危難を逃れました。
それ以後「鹿子舞」と表すようになったというものです。

舞には「竿がかり」と「花すい」の2種類があります。
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四隅には「ささら」を演奏する少女が立つ。
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鹿子役の袴に蛇の鱗模様が染められているのは雨乞い、五穀豊穣祈麻の現れといわれています。
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獅子頭は約4kgとかなりの重畳があるため鹿子役は20歳前後の若者が務めています。
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【入間川右岸】
入間川の歴史にも関心を持ってもらうために、今回は入間川の河床から発見された太古の化石について説明しました。
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■メタセコイヤ化石
メタセロイヤはスギの仲間で、冬には葉を落とす落葉樹です0釣100万年前に絶滅したと考えられていましたが、昭和20年(1945)生き残りが中国の馴惜の原生林で発見され、「生きている化石」として話題になった植物です。狭山市では昭和49年(1974)に笹井ダムの下の河原でメタセコイヤの株の化石が発見されました。大型台風による出水によって堆積物が流されて河床に株が現れました。翌1975年の調査で直径1~2mの株29個が確認されました。今もわずかに残っているようですが、見つけるのは難しい状態です。笹井の株化石は約100万年前のものと推定され、採集された株化石が上広瀬の今宿遺跡公園に展示されています。
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メタセコイヤ(新宿御苑にて)
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■アケボノゾウ化石
昭和50年(1975)、笹井ダム上流約500mの入間川左岸の崖から、アケボノゾウの骨の化石が発見されました。その後、昭和60年(1985)に同じ場所で発掘調査が行われ、さらに多くの骨の化石が発見され、先に発見された化石と同一個体と判断されました。骨格復元模型が狭山市立博物館と長瀞の県立自然の博物館に展示されています。
長瀞の県立自然博物館の展示
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アケボノゾウは200万年~70万年前に生息していたと推定され、・体高・(肩までの高さ)が約1.5~1.8mの小型のゾウで、長いキバを持っていました(昭和14年(1939)仏子駅北の入間川右岸で長さ2mのキバが発見されています)。

■仏子層(ぶしそう)
笹井ダム周辺の入間川河床には、「仏子屠」と呼ばれる地層が露出しています。これは狭山市内で見られる最古の地層で、地質時代第四期、150万年~100万年に堆積した地層です。入間川沿いでは、飯能市阿須から狭山市笹井にかけて露出しています。当時の関東平野は、大部分が海で、関東山地から流れ込む土砂がこの海に堆積して、仏子層が作られました。発見された化石類(植物の種、貝、干潟に住む生物の巣穴の化石)から、飯能から狭山市の-帯は湿地や水辺の森が広がっていた時期や、浅瀬の海や干潟だった時期を繰り返していたと考えられています。海岸からほど速くないところにアケボノゾウが集まっていた水辺があり、そのまわりにメタセコイヤやハンノキなどの湿地林が広がっていたと想定されます。これが化石として残っているのでしょう。

■アケボノゾウの足跡化石
西武線元加治駅そばの入間川鉄橋下の入間川河床に、灰白色の岩が広がっているのが見られますが、ここで1991年にアケボノゾウの足跡化石が発見されました。灰白色の岩は仏子層のシルト層です。シルトは粘土と砂の中間の粗さ(1/25針}1/16肌)の沈泥を意味します。仏子層は110mもの厚さがあって、大部分がシルト層ですが、植物化石の密集した亜炭層、石が混じった砂礫層がところどころに挟まれています。水辺をアケボノゾウが歩いて、泥に残った足跡が化石と・なっています。川の河床の状況は増水のたびに変化していますが、現在でも新たに露出した足跡化石を見ることができます。足跡化石はシルト層にあって、直径20~30cmほどの丸い足跡のへこみを白いツプツプが目立つ層(軽石層)が埋めています。
ここに立って、100万年という気の遠くなるような太古の時代に、ここをゾウが歩いていたと考えると楽しくなります。 
長瀞の県立自然博物館の展示
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入間川畔を気持ちよく歩きました。
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■八丁の渡し
明治14年の地図で、当時の入間川の位置、幅を説明。
文字どおり、川幅が八丁(873m)あった。
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【清水八幡】
鎮座地:狭山市入間川3丁目3770番地
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清水冠者源義高を祭神とする神社です。義高は木曽義仲の嫡男(ちやくなん)として木曽で母・叫吹姫との間に1173年に生まれました。
父親の木曽義仲は、武蔵国・嵐山の大藏館で源義賢(みなもとよしかた)の嫡男・駒王丸(こまおうまる)として久寿元年・(きゆうじゆがんねん)1154年に生まれましたが、身内の争いの大藏合戦で父の義賢が兄の源義朝(み
なもとのよしとも)の嫡男の義平(よしひら)に討たれた為に、畠山重能(はたけやましげよし)等の計らいで信濃の国木曽に逃れました、義仲は源頼朝・義経とは従兄弟(いとこ)です。
木曽義仲は1180年に以仁王(もちひとおう)の令旨(れいし)を受け挙兵し、平氏(へいじ)の大軍を破って入京しましたが、源頼朝とは独立した動きを見せました、義仲は源頼朝と敵対した2人の叔父を匿(かくま)ったとして頼朝と険悪なムードとなり、息子の義高を源頼朝の長女大姫の婿として鎌倉へ差し出すことで頼朝との対立は一応の決着がつきました。
連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されましたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇(ご しらかわほうおう)と不和になり、源頼朝が送った弟の源範頼(みなもとのりより)・義経(よしつね)の軍勢により、宇治川や瀬田の戦いに惨敗し、近江国粟津の戦い(あわすのたたかい)で1184年討たれました。
父義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化します。頼朝が義高を謀殺(ぼうさつ)しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃し大姫の配した馬に乗り鎌倉を脱出します、しかし夜になって事が露顕(ろけん)し、激高した頼朝は軍兵を派遣して義高を討ち取るように命じました。
義高は自分にふりかかる難を逃れるため、父義仲の生まれ故郷の武蔵国・嵐山の大藏館へ、そして生まれ故郷の信州木曽へ落ち延びる途中、入間河原の八丁の渡しで追いつかれ、追手(おって)の藤内光澄(とうないみつずみ)によって1184年に討たれました。しかし、対岸の広瀬まで逃げ延びて地蔵尊の陰に隠れ、一時難を逃れたという云い伝えもあります。 こうして、義仲の家系は断絶しました、享年12歳。
義高の死を知った大姫(おおひめ)は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の北条政子(ほうじょうまさこ)は義高を討ったために大姫が病(やまい)になったと怒り、義高を討った郎従(ろうじゆう)の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、光澄は晒し首(さらしくび)にされました。
清水八幡の創建は、年月は不明ですが、頼朝の妻の北条政子が関与したとの伝承(でんしょう)が残っています。それは政子が壮麗(そうれい)な社殿を造営して神田(しんでん)まで寄進したというもので、応永9年(1402年)8月の大洪水ですべてが流されてしまうまで、隆盛を誇ったといわれています。
現在の清水八幡の再建は、現在の本殿は昭和34年10月の建立で、そこには永享(えいきょう)2年(1430年)銘の赤間川(あかまがわ)で見つかった石嗣(せきし)が安置されています。この石飼の出土地(しゅつどち)をか
っての清水八幡の鎮座地(ちんざち)として遷座(せんざ)しました。
鎌倉市大船の北条泰時(ほうじょうやすとき)が建立した常楽寺(じょうらくじ)に義高の墓と伝えられる塚が裏山の中腹あたりにあります。もとは常楽寺の西南100mほどの所(大船5丁目付近)に立っていました。この塚の付近にほ義高の許嫁(いいなずけ)である大姫の墓と伝えられている塚や由縁(ゆえん)を刻んだ石碑が立っています。

記念写真
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【諏訪神社】
鎮座地:狭山市入間川4丁目4484番地

祭神:武御名方命(たけみなかたのみこと)
○創建にかかわる言い伝えあれこれ(記録が残っていないので不明)
・今から400年以前に長野県の諏訪大社の神霊を分けたものといわれている。
・戦国時代、甲斐信濃を支配していた武田氏が滅び、多くの家臣が入間川流域に移り住んだという言い伝えから、この人たちが創建したのではないか。
・清水が湧き出るなど水の豊かな土地だったので早くから人が住み、戦国時代よりもっと古くから鎮座していたとも。
・中世の武家金子氏の守諌神となっていた。
○河岸段丘のはけという立地条件
・神社西側の崖下に清水が湧いている。
・その昔、神社の北側、ハケの下には大きな龍神が住んでいたという大きな沼があった。現在は埋め立てられて、住宅、公園、駐車場などになっている。
○市の無形民俗文化財「おすわさまのなすとっかえ」
(8月26日前後の土曜日と日曜日)
・いわれ:諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、村人がそこを通りかかると急に水しぶきが上がり龍が現れて暴れ始めました。驚いた村人は採ったばかりのなすの入った籠を放り出して家に逃げ帰りました。この話を聞いた村の若者たちが、龍を退治しようと沼に駆けつけましたが、水面にはなすの入っていた籠が浮いているだけで、龍の姿はありませんでした。その後しばらくしてある村人の夢枕に龍神が現れ.「私は村に住んでいる龍神であるが、村人が放り出したなすを食べたところ、今まで苦しんでいた夏病みがすっかり治った。これからは諏訪大神に仕えるつもりである。Jといいました。それ以来村人は、夏病退散のために神社になすを具えるようになったということです。
 村人たちは自分の畑で採れたなすを神社に奉納し、神前に供えてある別のなすを戴いて特ち帰りそのなすを食べると一年中病気をしないといわれてきたおまつりです。また、龍神の姿から、蚕や苗代を荒らすネズミよけにきくとも言われてきました。最盛期には入間、広瀬、・柏原、入曹、そして遠くは川越や高萩(日高町)の方からも大勢の人達がやってきたようです。その頃は今のように「七夕まつり」がさかんでなかったので、この地域一番のにぎやかなおまつりだったそうです。
最近では取り換えは行われず、「厄除けのなす」として販売されるようになっています。
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水祖神がまつられている湧水
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【入間川富士浅間付近の庚申塔】
石無坂と稲荷山ハケ下旧道の辻に所在
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寛政元年造立庚申塔(六臂青面金剛)
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庚申信仰
現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教・特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のきまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。
庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十=支の60通りある組み合わせのうちの-つである。陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を餌で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が発・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。
庚申の日の夜に人間の体の中にいる三尸の虫が、寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人に罰として寿命を縮める。ところが、三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体かや脱け出ることができないので、庚申日は、徹夜をする、これを庚申待ちという。
この庚申待の行事にさまざまなことを行って徹夜していたが、育面金剛はこの三尸の虫を喰ってしまうので、いつの頃からか、庚申待ちには、この青面金剛を本尊として拝むようになり、庚申イコール青面金剛となつた。
また、この日、睡眠をささげて、一晩一心に願い続ければ如何なる願いも叶うとされている。

六臂青面金剛のお堂の横にある文字庚申塔
安政2年造立
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左側面に、こう刻まれている。
塔の向を直し其後火災の
難なく奇異の霊験人の
伝処なり
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伝えるところでは、青面金剛像の向きを直したところ、それまでしばしば発生していた火災が収まったという。この霊験を後世に伝えるため、この文字塔を建立した。

【入間川の稲荷神社】
鎮座地:狭山市入間川4丁目5022番地
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鵜ノ木地区の南側台地にある稲荷山公園の北東に鎮座する。
祭神:豊宇気毘売命
昭和26年に社殿再建

この神社には、由緒と呼ばれるものが殆どありません。
稲荷山という地名はこの神社の「稲荷」から生じたと思いがちですが果たしてそうでしようか?
ということで、推測の説明がありました。

○先ず「鵜ノ木」の初見です。
廻國雑記:文明十八年(1486)に、篠井観音堂を訪れた道興准后が「くろす川といへる川に 人の鵜つかひ侍るを見て 岩がねにうつらふ水のくろす川 鵜のゐるかけや名に流れけんJと詠んでいます
「くろす川」とは、現在の霞川の下流域の呼び名で中流以上を桂川といった。
「鵜ノ木」の地名は、この鵜飼いの「鵜」に関連していると考えられている。

○ 次に、現在の「稲荷山j地区の明治初期までの小名あるいは字名を見てみます。
・享保二十年(1735)柏原:小谷野家の水帳写に「卯ノ木山」
・文化以降(1804以降)入間川:大野茂家文書に「鵜ノ木はけ」
・文政三年(1820)新編武蔵風土記稿では「石無坂j
・斎藤家所蔵の明治五年(1872)御水帳があるが前二者文書と大同小異
・地元の伝承では、現在の稲荷山公園駅北側を「大将陣」、配水塔付近を「殿山」
このことから、明治初期以前では「稲荷山」または「稲荷」という地名は見当たりません。
残っている古文書からは、現在の「稲荷山」地区は長い間、「鵜ノ木」の後ろにある「山」、「はけ=ゆるい崖」あるいは、小名「石無坂」の一部分と認識されており、固有の地名が無かったことが判ります。

○ 今度は、稲荷神社の経緯を「狭山市の社寺誌」から見てみます。
・大正元年に「稲荷山」公園が造られる以前は、現在の中央児童館付近にありそのため、稲荷山と言われていたといわれる。
・「造園」のため-時、天王山に遷座していた」
・「公園開場後地名である稲荷山に稲荷神社がなくてはということで角田氏の土地である現在の場所に遷された」
・昭和四年頃火災で社殿が焼失した。
・昭和二十六年に角田氏ら四名により現在の社殿が再建された。

○ 以上からすると、明治末頃、現在の中央児童館付近に稲荷神社があり、「その辺りを稲荷山と言っていたらしい」と、地名についてはあくまでも推測の域を出ていません。事実、地名を証明する古文書も今のところ出ていません。

○ そろそろ結論
「卯ノ木山」地区のある家に屋敷神としての「稲荷社」が祀られていた。
いつめ頃からか「稲荷社jガあるところを「稲荷山」というようになつた。
そのうちに、「稲荷社」がある「卯ノ木Jの後ろの「山」全体を「稲荷山」と誰かが呼び換えて(公園開場後に地区の固有名詞に昇格させて)、それが定着した!?

【稲荷山公園の誕生】
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この稲荷山がにわかこ脚光を浴びることになったのは大正元年11月のことです。
■大正天皇の行幸
大正元年(1912年)の陸軍特別大演習は東京近郊で行われる最初の大演習だったと云われています。この演習は大正天皇が統監する最初のものであり、大演習に参加する南北両軍は総数4万8700人余りで、軍馬も8200頭にのぽる大軍となりました。
大演習の二日目(11月16日)、大正天皇は臨時の大本営が置かれた川越中学(今の川越高校)をご出発、鉄道で入間川駅(今の狭山市駅)にご到着になり、入間川駅から稲荷山までは騎馬で向かわれました。稲荷山の野立所(のだらじょ)で大演習を統監なされたのち、再び入間川駅へお戻りになられています。
■稲荷山の公園化
天皇をお迎えすることのできた入間川町では記念碑の建立に発展しました。翌年(大正2年11月16日)に、入間川町は「特別大演習御野立所記念碑」を稲荷山に立てました。現在、児童館そばに見られるのがそれです。
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そこからの、現在の眺め
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更に入間川町では、大正天皇がお成りになった稲荷山を記念公薗とすることとし時の町長の提案は町議会の満場一致の議決となり、大正3年(1914年)早々に、総面積二十町歩(19・8ヘクタール)の稲荷山公園は完成を見ることになりました。
■公園の整備
こうして誕生した入間川町最初の大規模公園には、ツツジやサクラが植えられ大正から昭和にかけて園内の施設を次第に整えられました。昭和8年(1933年)4月には「稲荷山公園駅が開設され都内からの行楽客が押しかけるようになり、翌、昭和9年(1934年)には駅から公園にかけての道路両側に400本のサクラが植えられました。このようにして今、私達渦る稲荷山公園に発展してきました。

【鵜ノ木の愛宕神社】
鎮座地:狭山市鵜ノ木30番地
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祭神:愛宕大権現
昭和29年に社殿再建
当社はもと長栄寺の境内にあり、鵜ノ木地域住民の守護神として信仰されていましたが、明治政府の神仏分離令により現在の稲荷山公園の中に遷し祭られ、その後現在の他に遷座されました。終戦後、火災により社殿を焼失しましたが、昭和29年10月に再建されました。例年春の祭礼と大晦日には鵜ノ木磯子が奉納されています。(狭山市HPより)

愛宕信仰(あたごしんこう)とは、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰である。愛宕山の愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、愛宕山に集まつた修験者によつて江戸時代中頃から愛宕億仰が日本全国に広められた。中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになつた。日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1000社ある。特に東北地方に多く分布する。
愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命(ほむすぴのみこと)が祭神とされる。勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく武神としての偉仰もあった。民間では、各地に「愛宕講」と呼ばれる講が組織された。「千日詣」と称し、8月1日に参拝すると千日参拝したのと同じ御利益があるとされる。
直江兼続が兜の前立に「愛」をまとつていた理由の説の1つとして、愛宕信仰説がある。

境内社:御嶽山(石祠 明治38年4月)、稲荷社(石祠 寛政12年3月)
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こういう字をあてた例
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【第六天神社】
鎮座地:狭山市鵜ノ木20番40
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祭神:両足尊(おもだるのみこと)、憧根神(かしこねのみこと)
由緒‥昔からこの地に第六天が祭られ、地名も第六天となっている。しかし、石祠が破損し崩壊していたものを大正2年9月田口直進が田口家の守護神として再建し祀られた。
その後、第六天の講社鵜ノ木講ができて、現在は八十名の講員がいる。
講員は毎年岩槻市武蔵第六天神社に参拝している。

■第六天神社の特徴
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代の(面足命・憧根命)に祭神を変更した。

『日本民俗学NO.127』によると、『新編武蔵国風土記稿』、『新編相模国風土記構』、『増訂・豆州志稿』によれば、「第六天神社」は江戸時代未までは関東を中心に多く存在したが、前述の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀や相殿、末社となり、祠のようなものも数えれば現在でも300余社あるものの、宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている。

第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、西日本では皆無となっている。これは戦国時代の覇者である織田借長が篤く借奉していたとされることから、天下統-の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。
さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社では、御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・鳥天狗など、第大天は天狗と関連付けられている。

■第六天魔王とは
仏教では、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、また十界(六道の上に声聞界・縁覚界・菩
薩界・仏界を加えたもの)といった世界観がある。
このうち・六道の地獄から人間までは欲望に捉われた世界、つまり欲界という。しかし天上界では細部に分けられ、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界、そして精神的な無色界(これを三界という)がある。
ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の6つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界の中の欲界に含まれ、これを六欲天という。

第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。
六欲天を上から記載すると次の通りとなる。
他化自在天(たけじざいてん)、化楽天(けらくてん)、兜率天(とそつてん)、夜鹿天(やまてん)、功利天(とうりて
ん)、四大王東天(しだいおうしゆてん)。


以上で、予定された場所を全て廻り、自治会の集会所に戻り、お弁当を頂きながら、参加者とガイドが懇談し、楽しい時間を過ごしました。

この自治会では初の試みでしたが、大変好評だったようで、次回はいつやるのか、とか嬉しい反響があるようです。
ガイドした身にとっては、とても嬉しい話です。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

講師、ご苦労様です! なるほど、鵜ノ木地区に住んでいる方々に対し、その地元の歴史的事項を説明されたと言う訳ですね。まあ、確かに、自分の地元のことって、意外に知らないですよね。

後、地元の人だから見慣れているのかもしれませんが、獅子舞の様子、確か、四季歩さんは映像で撮られていらっしゃると思いますので、それのURLをうまく各自のスマホに転送する仕組みを作る等、スマホの機能を活用するのも1つの方法かと思いました。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
私が住んでいるところは、大きなベッドタウンなので、
私もそうですが、他所から移って来た人ばかりです。
なので、骨をうずめようという頃になって、
その地をよく知りたいという・・・・・(笑)

ITの活用については、個人的には色々と教え合ったりして
進めていますが、90人もいる団体では、なかなか進められないですね。
高齢の、苦手の人を置いてきぼりしてはいけませんから。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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